なぜ人々はポストモダンを「反近代」と訳さないのか?

最初に、掲題の件にふれておこう。私は以前から、掲題のような疑問をいだいていた。なぜなら、「ポスト」とは「後の」という意味であり、ようするに「近代の後」と言っているのだから、明確に

  • 近代
  • 近代の後

には、「存在論的な違い」がある、と言っているわけであろう。ようするに「近代の後」は、「反近代」を含んでいる。しかし、ここで反近代とは何を意味しているのか?

  • 反啓蒙
  • 反人権
  • 反<人間の尊厳>=反<人間主義

ようするに彼らは、「反人権は<しょうがない>」ということを言うことに、自らの全人生を「賭け」て取り組んでいる、

  • 悪哲学者

である、ということに気をつけなければならない。
しかし、そもそものリオタールの最初の発想がどういったものであったのかは注意がいる。リオタールが言いたかったのは、68年全共闘世代に対する批判であった。彼らの

が、ソ連の収容所国家ではディストピアとなっている現実を前にして、それでも

を唱えることは倫理的なのか、といった批評的態度に関係していたわけであるが、当時のドゥルーズ=ガタリはリオタールとの交流を断絶して、彼らの牧歌的な主張を忌避したわけである。
このことは、多少並行性があって、東浩紀先生が『動物化するポストモダン』という本を書いたとき、そもそも、この本の中においては、東先生は「動物化」を「批判的」に評価していた。そして、その代替の可能性を、「解離」といった精神分析の概念の方向で解決できないか、といった方向性だけを示唆して、当時の東先生の考察は終わっている。
しかし、私たちはそのことの「意味」を、よほど、注意深く考えなければならない。例えば、イギリスのマーガレット・サッチャーが行った「サッチャリズム」というものがある。そもそも、

なのであって、ポストモダニスト新自由主義者は、ほとんど一致する。実際に、東浩紀先生は『リアルのゆくえ』という対談本で、自分は「ポストモダニスト」だと自認しているわけなのだが、この辺りで、かなり、彼なりの

  • 政治的な立場

がはっきりしてきたのではないか、と考えている(そもそも、柄谷行人と対談を行っていないということでは、もっとずっと前からそうなのであって、彼のかなりの「性格」的な問題が関係しているのだろう、と想像はしているが、ここではこれ以上は考察しない)。
例えば、以下の対談は多くの人に、この人の人となりを理解してもらうためにも、ぜひ読んでもらいたいと思っているのだが(まさに、ここで東浩紀先生は、竹中平蔵ばりの「正社員<根源悪>論」を唱えているw)、私がここで注目してほしいのは、以下についてである:

多様な生を保障するといったときに、かつてフーコーが「生権力」と呼んだような問題が、さらに深刻になっていくだろうと思うんです。左翼用語でいえば、すべてのプライバシーを丸裸にされて、自分の生活の隅々までグローバルな資本主義の論理が貫徹され、しかもそれが国家による管理に結びついてしまう世界。しかし、それを問題にしようとしても、もはやどうしようもないところにきている。敗北主義とかではなくて、その現実をある程度受け入れないことには、現代社会の生を考えるのは難しいのです。そこで、生存を保障される代わりに、自分の生活情報を国家に売るという考え方ができないか、ということを考えます。
例えばいまの社会って、いつどこでどういうものを食べているか、どこに遊びに行っているか、何時くらいに寝ているか、どうやって病気になったか、そういう各人の健康状態やさまざまな個人情報が大量にデジタルデータに蓄積されるような世界になっているわけですよ。
こういう情報って、欲しい人はすごく欲しいわけです。倫理的なことはとりあえず横において、その情報を売ることによって、例えば月四万円が入るとしたら、売る人はいるのではないでしょうか。実際に現時点でも、僕たちは個人情報を売って生活しているところがありますよね。携帯電話だって、僕がいまどこにいるかとかの情報を売り渡すことによって、電話会社がどこでも電話を通じるようにしてくれているわけですから。
東浩紀「情報後悔型のベーシックインカムで誰でもチェックができる生存保障を」)

ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

上記の文章を読んで、「これが自称<批評家=哲学者>の文章なんだ」といった感想をもたれた方には、ようするに、上記の引用には、

という法律が、今、どういった法的な立て付けになっているのかに、まったく、「無知」であることが決定的な、上記の文章を「ゴミ屑」にしている理由を理解されるであろう。企業が、個人の個人情報を持っている理由は、

  • なんらかの止むに止まれぬ理由があるから

である。電話会社が、自社と契約している個人の個人情報を保持しているのは、保持していなければ、「その」サービスを維持できないからであって、それについての「個人」への「説明=アカウンタビリティ」が必要になる。このことは、逆に言えば、契約を解除したり、契約者が死んだりした場合は、むしろ「すみやか」な、個人情報の削除が

  • 法で要請

されているわけである。では、グーグルのような会社の個人情報の収集についてはどうか? これについては、確かに「それ」によって、スマホのアンドロイド端末が安くなっている、などの派生的な関係があるのかもしれない。しかし、「So what?」。なぜか。なぜならこれは、個人情報という「人権」に関係した権利なのであって、上記の東浩紀先生のような

  • お金の払えない大衆への「非人権」的な扱いは「しょうがない」

という立場をとっていないからだ(この思想を、「新自由主義サッチャリズム」と言う)。事実、ヨーロッパは独占禁止法とも関連して、一律、GAFAに批判的になっているし、そもそもアメリカが、中国のIT企業に敵対的になったのは、ファーウェイなどの、

  • 秘密裏での「個人情報」の収集

を、ハード・ソフトレベルで組み込んだものを、世界中の市場で「安く」売らせて、中国が

  • 世界支配

をたくらんでいる、といったパースペクティブがあったからであって、この観点からの警戒感は今も続いているわけである。
(ところで、後半の議論とは結びつかない問題を提起しておくが、私が、東浩紀先生の「エリート主義」が、害悪レベルで現れたのは、3・11の福島第一の、原発問題だと考えている。彼は、震災当時に、震災を特集した雑誌を出版し、それ以降、チェルノブイリ・ツアーのようなことをやり始めるわけであるが、大事なことは、そういった瑣末な事実ではなく、彼のこの問題での、交友関係が、

といった連中と薄く関係して、基本的には「安全厨」の立場を震災当時から今に至るまで、一貫している。実際に、東先生は、日本の原発の再稼動に、一度も反対を表明したことはなく、そういう意味では、完全な「原発推進派」であることを忘れてはいけない。しかし、3・11以降において「原発推進派」とは、どういう意味だろうか? それは、「大衆」と

  • 敵対

して、つまり「大衆フォビア=大衆嫌い」において、国家と一緒になって、国民を「騙す」ことに生き甲斐を見出す連中ということなのではないのか?)
しかし、ここまで書いてきて、「ぼくは『観光客の哲学』を読んだけど、東先生が非人間主義の立場の人だとは思わなかったけれど」と反論される方もいるかもしれない。
私も、この問題の判断を一部保留していたところもあったのだが、最近、あらためて考えてみて、ようやく、その「からくり」が見えてきた。
まず、『観光客の哲学』の「第一部 観光客の哲学」は、

  • 第二章 政治とその外部
  • 第三章 二層構造

に大きく分かれている。おそらく、この二つが「なぜ」分かれているのか、を考えると、東先生の「詐欺師」の手腕が、どういうものなのか、分かってくるのではないか。
第二章は、一見すると「左翼」が書いているんじゃないのか、と思わせるような内容になっている。というのは、この章で「問題」になっているのは

  • シュミットの友敵理論

だから、だ。ということは、多くの人は、東先生は「友敵」という分類に反対しているんだろうな。国家に批判的で、世界市民とか、世界共和国とか、そっちに重心を置いているんだろうな、と善意の読者は、誤解してしまう。
しかし、そうだろうか?
というのは、第三章で何が書かれているのか、に気付いたとき、東先生は、まったく「友敵」概念を捨てていないことに気付いたわけである!

たとえば少子化問題を考えてみよう。ぼくたちの社会は、女性ひとりひとりを顔のある固有の存在として扱うかぎり、つまり人間として扱うかぎり、けっして「子どもを産め」とは命じることができない。それは倫理に反している。しかし他方で、女性の全体を顔のない群れとして、すなわち動物として分析するかぎりにおいて、ある数の女性は子どもを産むべきであり、そのためには経済的あるいは技術的なこれこれの環境が必要だと言うことができる。こちらは倫理に反していない。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

どうも、東先生には、結果論として、世界中の女性が子どもを産まなかったために、人類が滅亡

  • してはならない

と考えているようである(だったら、どうするのか? 「レイプ」でもするのか?)。というか、よく考えてほしい。東浩紀先生は、この「持論」を、一体、どこで

  • 正当化

したのだろう? 東先生はこのように、こと

  • 動物という側面

において、人間を「人間扱いしなくてもいい場面が<ある>」ということを言っているわけである。ようするに、東先生の「友敵」理論は、この

  • 動物概念

の中に隠れたために、絶対に東先生はそれを「敵」とは呼ばない(いわば、東先生は、この「動物概念」の中に、すべての「友敵」関係の差異を、まさに「ブラックホール」に吸い込まれるように、全放り込みをして、知らず存ぜぬを決めこんだ、というわけであるw)。例えば、ツイッターのブロックを考えてみよう。これは、明確な「敵認定」である。しかし、ブロックをする東先生は、相手のことを決して「敵」とは呼ばない。それは、ツイッター社という「システム」が、以降の接触を許さないという意味で、「システムに守られている」からで、つまりは、わざわざ、相手を「敵」と言わなくても、日常を生きられるからだ。
では、ここで、もう一度考えてみたい。なぜ多くの人は、東先生は「友敵」の否定(=超克=アウフヘーベン)を言って、現代の最大の問題である「ナショナリズム」の問題を解決したはずなのに、その東先生の主張がなぜ

  • 反人権

になるのか、と。そもそも、第二章において、東先生が問題にしていたのは、カール・シュミットの「友敵」理論であり、「ナショナリズム」であった。そして、それを、カント、ヘーゲルとの関係で、「ナショナリズムの否定=グローバリズム」の可能性を考察していたわけであるが、しかし、よくよく読んでいくと、東先生は、

  • それ以上

のことを言っているわけですよね(つまり、それ以上のことを証明している)。

このように解きほぐすとわかるように、『永遠平和のために』の第一確定条項(各国家における市民的体制は共和的でなければならない)は、人間の話に置き換えると、じつはきわめてわかりやすい、ほとんど低俗と形容していいようなことを言ってしまっている。カントはじつはそこで、各国家に、まずはおまえの下半身を制御できるようになってから国際社会に乗りだしてこいと、そう注文をつけていたのである。
ゲンロン0 観光客の哲学

(ここで、東浩紀が根源的に「勘違い」をしているのは、カントの「構想」が未来のユートピアに関係していたことであって、当たり前だが、現在の国連加盟国の全ての国家が、「民主主義」国家かと言われれば、そうではない。「世界平和」が、漸進的に進むものでしかないことは、カントが何度も断っているわけであろうw)
ようするに、上記の関係は、ちょっと奇妙な形になっていて、

  • 第二章のシュミットの「ナショナリズム」問題は、それ自体では「善」と言えるのかもしれないが、その証明過程で、「カントの下半身問題」という形で、「それ以上」の何かが証明されてしまった関係で、東先生の頭の中で、第三章の二層構造の「動物」構造の正当性の証明が、あたかも「不要」になったかのように、振る舞う余地が産まれた。
  • しかし、読者の方からしてみると、第二章は反「ナショナリズム」論という、たいへん、素晴しい主張がされていた、といった記憶しかないので、「なんでこんな<非人間的>な主張が、突然、始まったのだろう」、という東浩紀先生自身への人格への疑いが、決定的になってしまう。

しかし、いずれにしろ、上記の最後の引用は、なかなか「過激」な主張になっていて、ようするに

  • 文系の「絶対」的な必要性

を東先生は証明したつもりなのだ。「下半身」とは

  • 感情

のことである。そして、これに対立的に議論がされているのが

  • (カントの)理性=計算

であって、ようするに、理系である。理系の学問に対して、

は、長嶋茂雄ばりに言えば、「永遠に不滅です」というわけである。

つまり、人間は絶対的に、この「二重性」をもっていて、本質的には「後者」がドミナントなのだ、と。ようするに、みみっちい、学問の世界の

  • 縄張り争い

を、相変わらず見させられているのか、と辟易するかもしれないが、しかしね。シャンタル・ムフの言う「左翼ポピュリズム」って、明らかに、前者だよねw そして、ようするにこれは、徹底的な「大衆民主主義」肯定論なんだよね。
(ところで、アメリカ民主党は、どうも、はっきりと「富裕層増税」に舵を切りそうである:

財源を求める民主からは富裕層や企業への大増税論も飛び出す。ウォーレン氏は17日の集会後、日本経済新聞などの取材に「超富裕層増税を提案する」と述べた。5千万ドル超の大富豪の資産に年2%を直接課税するという過激な新税構想だ。
米民主党、大統領選にらみ国民皆保険や富裕層増税 :日本経済新聞

アメリカの軸が振れ始めた、ということなのですかね。)
そして、人間の本質を、なんとしてでも

の側に囲い込むことに、全勢力を注ぎ込んで、自らの実存を賭けて、

に全精力を注ぐ東先生の、この姿は...、まあ、なんらかの「宗教」みたいなもんなのが動機づけ、つき動かしているのかもしれませんね...。

シャンタル・ムフ『左翼ポピュリズムのために』

昔から「新自由主義」無定義論というのがある。つまり、多くの人が、「新自由主義」という言葉を使っているが、その言葉の定義は、常に曖昧で、それぞれの文脈で使用者が勝手な解釈で使っている、と。一方で、ミッシェル・フーコーにまで遡って「哲学的」な衒学まで始める、哲学趣味の人たちまで現れて、真贋論争華やかなりし、というわけである。
しかし、こと、ヨーロッパの文脈で、「新自由主義」と言えば、それは、ほとんど、イギリスのマーガレット・サッチャーの政策であることは明らかであったし、そのことを誰も疑ったことはなかった。
つまり、どういうことなのか?

一九七九年にマーガレット・サッチャーが首相になったとき、彼女の目標は、保守党(トーリー)と労働党の戦後コンセンサスを破棄することであった。彼女は、この戦後コンセンサスこそが、イギリアスの低迷の原因であると主張していたのだ。労働党とは異なり、彼女は政治の党派的性格やヘゲモニー闘争の重要性にきわめて自覚的であった。彼女の戦略は明らかにポピュリズム的なものである。一方に抑圧的な国家官僚、労働組合、そして国庫の恩恵を受ける人々といった「既得権益をもつ勢力」を置き、もう一方に官僚的勢力とその同盟者によって犠牲を強いられる勤勉な「人民」を対置することで、両者のあいだに政治的フロンティアを引いたのだ。
おもに標的となったのは労働組合で、彼女は組合の力を潰そうと決意した。アーサー・スカーギル(Arthur Scargill)率いる炭鉱労働者組合を「内なる敵(the enemy within)」と宣告し、彼女は、それと正面から激突した。イギリスの歴史上もっとも激しい労働争議となった炭鉱労働者たちのストライキ1984-1985)は、彼女にとっての転換点となる。この闘いは、政府の決定的な勝利で幕を閉じ、その後、政府は、弱体化した労働組合に様々な条件を課して、経済的に自由主義的なプログラムを強化するようになった。

70年代以降の

は、

そのものであろう。自民党は、かなり慎重に、サッチャリズムを「研究」した。自民党にとって

  • 邪魔

労働組合を「破壊」するとき、サッチャリズムは、

  • いかに自分たちが行っている、労働組合の「破壊」が「正義に適っているか」

を偽装する。すべては、「宣伝」である。一方に、「国民」に敵対する、官僚という「悪」がいて、労働組合という「貴族階級」がいて、

  • こいつらが、国民の利益を吸い上げているんだー

と、毎日毎日、どなりちらす。それにしても、自民党はよく「敵」を分かっていて、実際に、70年代以降、非常に

  • 効率的

に世の中に存在していた、「労働組合」を、事実上の解体に追い込んで、今では、その面影さえ見出せないくらいに、破壊し尽した。
自民党は、たんに、「手際よく」敵を破壊しただけじゃない。それを、国民に「ほとんど」気付かせない中で、やり通した、というところにポイントがある。
さて。掲題の本であるが、近年、アメリカのトランプに代表されるような

を批判することが流行している。彼ら「新自由主義者」が、得意げに言うのが

である。大衆が、政治に、なんらかの形で、<直接>に関わるから、間違った政治が行われる。つまり、

  • 民主主義は間違っている!

というわけである。完全に、東浩紀先生の『一般意志2.0』そのものであることに気付くであろう。彼ら新自由主義者にとって、何が大事なのか? それは、

  • トランプのような人間が政治を行えるシステムを作ってはならない

というところにある。彼らが賞賛するのは、EUのような、直接には各国の国民が意志決定に関われないようになっている、反民主主義性であり、TPPのような、秘密主義による審議空間にすることで、大衆がその「決定」に関与できないようになっている、まさに

  • 反民主主義性

にこそある。例えば、掲題の本の表紙というか、帯にタイトルの「ポピュリズム」に対立的に書かれている言葉は

である。ようするに、シャンタル・ムフにとって、現在の民主主義の危機は、「少数者支配」の方にこそある、というところにポイントがある。
現在の世界の「政治」の、究極的な危機は、なんなのか?
一方で、新自由主義者(サッチャリスト)が言うような、「ポピュリズム」が問題なのか?
それとも、シャンタル・ムフが言うような意味での、「少数者支配」こそが問題なのか?
それを、シャンタル・ムフは、「民主主義の根源化」という言葉で表現する。

多くの自由主義の理論家たちは、政治的リベラリズムは必ず経済的リベラリズムをともない、民主的な社会は資本主義経済を必要とすると主張している。しかしながら、資本主義と自由民主主義のあいだに必然的な関係など明らかに存在しない。自由民主主義を資本主義の上部構造として提示することで、マルクス主義がこの混同に手を貸してきたことは不幸なことである。この経済主義的なアプローチがいまなお、リベラルな国家の破壊を求める左派のいくつかのセクターでうけいれられていることは本当に残念なことだ。今日のあらゆる民主的な諸要求を前進させるのは、リベラルな国家の構成原理----権力の分立、普通選挙権、多党制、そして市民権----の枠組みの内部においてなのである。ポスト・デモクラシーに対する闘争は、これらの諸原理を放棄することにではなく、それらを擁護し、根源化することにあるのだ。

シャンタル・ムフにとって、現在の世界的な「生活世界」の破壊が、どういった人間たちによって(つまり、新自由主義者)、なにが行われたことによって(つまり、サッチャリズム)、引き起こされたのかを、よく知っているわけである。だとするなら、その「パワー」に対抗する手段は、結局のところは、

にしか、ありえない。
例えば、シャンタル・ムフは「金融緩和」に対して、比較的に賛成的な立場をとる。

「金融クーデター」やトロイカの命令を強制する欧州連合(EU)の残酷な対応によって、残念ながらシリザは反緊縮政策を導入することができなかった。この出来事により、シリザの政権奪取を支えたポピュリスト戦略が無効になるわけであないが、新自由主義に対抗する政策を実行しようとするさい、EUに加盟していることが足枷になるという重大な問題が浮上したことは確かである。

上記の文脈から分かるように、新自由主義者は、EUに賛成的である。しかし、そういった「グローバリズム」は、結果として、その国家が所有していた、金融緩和政策を行使する「選択」を奪われてしまう。そういう意味で、シャンタル・ムフの言う

を究極的に選択できないという、足枷を彼らに与える。私たちは新自由主義者(=サッチャリスト)たちの言う「ユートピア」に、常々、警戒的でなければならない、ということを意味するわけである...。
高橋洋一がよく書いていたように、そもそも、金融緩和政策は、欧米では、中道左派、労働者階級の「政策」なのであって、それを安倍首相が「流用」したことは、この政策の本質が、なにか別のものになったことを意味するわけではない。)

左派ポピュリズムのために

左派ポピュリズムのために