AIへの嫌悪

私は近年の、AI

的な世間の雰囲気が我慢ならない。コンピュータが発達すれば

  • 薔薇色の未来

が待っている? なんで今、その薔薇色の未来が実現できていないのに、コンピュータが「やってくれる」と思えるの?
AIの発展によって何が起きるか?

しかし、あるときロコ(Roko)という名前のユーザーが「LessWrong」に投稿したひとつの奇想をきっかけに、ユドコウスキーのユートピア的未来像は一転して黙示録的なコズミック・ホラーに転化する。以下の「ロコのバジリスク」については拙著『ダークウェブ・アンダーグラウンド』でも取り上げたので簡潔に記すが、要するにAIが人類にとって必ずしも友好とは限らない----むしろAIが自身の利害を合理的に追求した結果、人類にとって耐えがたい悪夢が現出するのではないか、という一種の思考実験である。すなわち、現在AIの発展に寄与しない人間は、シンギュラリティ以後のとある未来において、マシンにアップロードされた自身のコピーが半永久的に拷問されるのではないか。
(木澤佐憲志『ニック・ランドと新反動主義』)
ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想 (星海社新書)

機械が私たちを幸せにしてくれる(こういった発想は、「成長が私たちを幸せにしてくれる」とうそぶくリフレ派の無邪気さにも現れている)と考える連中は、どこか

  • 国家独裁

にロマンチックな「期待」を抱いている。自民党がきっと自分を幸せにしてくれる。国家がきっと自分を幸せにしてくれる。そう考えるから、国家に批判的な主張を行う左派野党を毛嫌いする。なんで、国家が自分を幸せにしようとしてくれているのに「邪魔」をするのか、と。
機械は私たちを幸せになんかしてくれない。というか、何かが自分を幸せにしてくれると考えることの方が傲慢なのだ。人間と

  • 同じ

何かを作ることに血まなこになった現代人は、

  • 永遠

に自分を「いじめ」続ける、「虐待」し続ける、「殺」し続ける

  • バケモノ

を作ることになってしまうわけで、そのことは、別に、フランケンシュタインの頃から変わっていないのだ。

京アニへのテロ

京都アニメーションのビルが、テロにあったということで、ニュースになっているが、その被害の甚大さをうかがうに、陰鬱な気持ちになる。
世間の反応は、まあ、ほとんどの人がアニメなんか見ないわけで、知らない会社の事務所が火事にあったくらいの態度なんだろうが、ここ何十年のアニメの歴史と共に生きてきた人間にとって、今回の事態は、とりかえしのつかない何かが起こった、といった敗北感を感じざるをえない。
世間はこの事態が、どれだけ重要なことなのかを分かっていない。それは、日本のアニメの歴史において果たしてきた、京アニの役割を考えるなら、ちょっと考えられないような喪失感をもたざるをえない。
本来なら、国家をあげて、喪に服すくらいの重大事件でありながら、この世間の反応の薄さが、どれだけ日本におけるアニメのステータスが今だにこの程度なのか、と思い知らされる。
ほんと、今日くらいは国家をあげて、みんなで会社を休んで、喪に服すべきなんじゃないのか? 日本のアニメの重要さに、なぜ世間は気付かないのだろう。
しかし、今回のこの事態はある意味で、90年代以降のアニメが描いてきた姿でもあるわけで、なんとも言いようのない苦々さがあるわけである。
確かに嫌な予感はずっとあったわけである。私が最初に違和感を覚えたのは、相模原障害者施設殺傷事件の植松聖であった。彼は明らかに、自民党と関係していた。彼の障害者殺人は自民党

  • 思想

と深く関係していた。事実、この事件に対して、安倍総理は一切のコメントを行っていない。しかも、それに呼応するかのように、マスコミを含めて、この事件と自民党を繋げる報道をしなかった。さらに、この事件は、重度の障害者が狙われたことによって、功利主義者である、例えば、ピーター・シンガーなどに共感的な日本の有識者は、明確にこの事件に対するコメントができなかった。つまり、彼らは表では言わないが、自民党と同じく、心の中では、重度の障害者を殺せと考えているという意味では、植松聖と違わなかったわけである。
また、川崎登戸殺人事件では、ネットを中心に「死ぬなら一人で死んでくれ」といった

  • 挑発

的な言説が氾濫した(しかもそれをネットでチヤホヤされている裕福な家庭に育った有識者たちが嬉々として、はしゃいだわけである)。そして、それに対して明確な態度を、マスコミを含めて世間の人たちは行えなかった。
どうせこの事件は、三島由紀夫の『金閣寺』とのアナロジーによって語られたりするのだろう。その醜悪な光景を想像するに、植松聖に「発言の場」を与えて、雑誌を売っていた「売文屋」がまた同じ手法で大手をふるって現れるのだろう、というのが目に見えるわけで、まったく同じ憂鬱感だけが後に残るわけである...。