道徳の社会的役割とは何か?

さて。なぜ、人間は今まで生きてこれたのか、という命題と

  • 道徳

には深い関係があるのではないか?
そんなことを思わせてくれるネットの記事を以前紹介した。

人間が繁栄した理由として広く受け入れられているのが、「人間は従来の動物よりも高い知能を持っており、さまざまな地域に特有の問題を思考力によって解決し、世界中に広まっていった」というものです。
しかしウッド氏は、人間が繁栄した理由を高い思考力によるものだとする説について、「近年は多くの認知科学者や人類学者がこの説明を否定しています」と指摘。これらの科学者は人間の高い知能による説明の代わりに、「他者の行動を注意深くコピーすることにより、困難な気候や生態学的な状況に対処してきた」と考えているとのこと。
人間が繁栄した鍵は革新的な思考力ではなく「何も考えずに他者を模倣する力」かもしれない - GIGAZINE

子どもたちとチンパンジーは研究チームが見せた手順を模倣して、それぞれ箱からおやつを取り出すことに成功しましたが、子どもたちは「棒で箱を叩く」という実際には必要ない手順まで丁寧に模倣したそうです。内部が不透明な箱はともかく、内部が透明な箱においては棒が何の役にも立っていないことは明らかでしたが、それでも子どもたちは「不合理に」目撃した手順をコピーしたとウッド氏は指摘しています。
人間が繁栄した鍵は革新的な思考力ではなく「何も考えずに他者を模倣する力」かもしれない - GIGAZINE

その一方で、チンパンジーは箱が透明であり、「棒で箱を叩く」手順が実際には必要ないことが明らかな場合、この手順をスキップして箱を開けたとのこと。
人間が繁栄した鍵は革新的な思考力ではなく「何も考えずに他者を模倣する力」かもしれない - GIGAZINE

一見すると、人間は「合理的」だから、今まで生き残れたように思われる。それは、現代の科学の発展などを考えると自明のことに思われる。そこから、功利主義者は、人間の「合理性(結果主義)」によって、今の人間の繁栄がある、と主張して、カント義務主義的道徳を否定した。
しかし、カントの言うこの「義務」という考えは、むしろ、キリスト教を始めとして、それまでの地球上にある、多くの「道徳」の特徴を整理しただけ、と思われる。
だとするなら、この功利主義者による、「義務」の否定は何を意味しているのか?
おそらく、功利主義者が言っているのとは違った意味で、「道徳」には、なんらかの

  • 社会的役割

があった、ということ意味しているのではないか?
私たちが日常的に思ってきたことに、いわゆる「社会学者」という人たちの語る言説に対する

  • 口の中で、なんか「もごもご」言っているだけで、何を言ってるのかさっぱり分からない

といった印象がある。彼らは、いわゆるエリート進学校を卒業して、東大に入って、学者になっただけあって、いろいろなことを知っているし、おそらくはそんなに間違ったことは言っていない(もちろん、そいつの「持論」なるものには、多くのトンデモがあるわけだが、それらを補強する学会の常識を知らないわけではない)。しかし、彼らには決定的に欠けている特性がある。それは、

  • 相手に「メッセージ」を伝える

という能力に、決定的に欠けている、ということだ。彼らは「正しい」ことさえ言えばいいと思っている。そうすれば、回りが、ちやほやしてくれる、と。しかし、そもそも誰も彼らの言っていることを聞いていないのだ。彼らは「正しい」ことを言うことにばっかり、全勢力注ぎ込んでいる。しかし、大事なことは

  • それによって、どういった「効果」を勝ち取るか?

なのだ。相手に、何かの「行動」をとってほしい、としよう。そうした場合、「何を言うか」は大事じゃない。なにかを言ったとして、そのリアクションとしての相手の行動が、こちらの求めていたものになったのかが重要なのだ。
その意味で、人間が本来「合理的」なのではなく、

  • 他者のコピー

の能力にたけていた、という指摘は重要である。つまり、大事なのは

  • こちらが相手に、なにをしてほしいのか?

を、「相手に伝わる」ように語れるのか、という「能力」が、人間社会にとっては重要だったのである。
なにが「正しい」かは、私たちが生きていく上で、必ずしも重要ではない。大事なことは、

  • みんなで「統一」した行動をすることによって、私たち人間が「生き残ってこれた」

というところにある。そして、それを成し遂げたのは、私たちが他者に、

  • 真似(まね)

をしてもらえた、他者にその能力があった、というところに重要性がある。
この場合、その伝えるメッセージの「内容」が最重要ではない。そうではなく、「それによって、私たちが、どう振る舞ったらいいのかが、十分に分かりやすく、<どんな人にも>伝わる」というところにある。このことは、もっと違ったふうに言うこともできる。つまり、

  • 人を見て語れ!

というこなのだ。大事なのは、今語りかけている相手に「合わせた」伝え方をしているのか、なのだ。この点で、高学歴社会学者は、死ぬまで、失敗し続ける。彼らの語っていることは

  • 学者の間で「負けない」

語り方でしかない。よって、全ての点で「曖昧」なギミックにあふれている。絶対に決めつけない。なんとでもとれるように、必ず「逃げ道」を残しておく。まさに、「国家官僚」の語り方の見本なのだw
私たち人間社会が、こういった「社会学者」のような奴らに支配されたとき、人間社会は滅びるであろう。彼らは、私たち人間社会を滅ぼす。私たちは、彼らと対抗する運動を始めなければならない。それは、別の言葉で言えば、功利主義から「カント主義的道徳」を救い出す、と言ってもいいだろう。そこには、なんらかの「役割」がある。これがあることによって、人間が今まで生き残ってきた、と言ってもいいような、重要な観点がある...。

新型コロナ・パニックをどう考えるか?

東京は、オリンピックの延期を決めるやいなや、都内の感染者が3連休明けに増加したという事例を受けて、土日の外出自粛の要請を、都知事が発表するに至った。まあ、この会見の映像を見ていたけれど、ようするに、ここでは「増加曲線」の話をしている。増加が、倍々ゲームで増えるなら、指数関数的な曲線になるわけで、その徴候が現れた時点で、早期に警戒をする、というのが意図のようだ(しかしよくわからないのが、あまりにも一日あたりの検査数が少ないので、ここで増えた減ったと言ってることになんの意味があるのかがさっぱり分からないことだろうw)。
そして、聞こえてくるところによれば、クラスターとして疑われているのが、夜の飲み屋、というわけだが、キャバクラでサラリーマンが会社の経費で落として、というのは、さすがにこのご時世なんでやりづらいと考えるわけだが、それでも、好きな人は、一人でもそういう店に行くだろうし、近距離で話すのが魅力であり、都会の換気の悪そうなビルで行うのが通常なわけで、こういった業態に対しては、あまり有効な対策というのも思いつかないわけだがw
いずれにしろ、今行われている対策は各自の「自粛」をお願いする、というもので、でも、誰もが仕事をして稼いでいかなければ日々の生活を繋いでいけないのだから、最終的には「続かない」と言わざるをえない。
ネットを見ていると、特に、海外のニュースを追っている人たちが、

  • ヒステリック

に日本の対応の遅さを罵詈雑言に批判しているのが見うけられる。こういうご時世なので分からなくはないが、少し冷静になって考えた方がいい。
まず、今のザルな、空港での人の流入はなんとか考えなければならないのは確かだ。
しかし、他方において、今のこの世界中での大拡大は主に、ヨーロッパとアメリカで起きている。対して、アジアの拡大はここ何週間に限れば、それに比較すれば、かなり抑えられている。
そして、海外から特に不思議がられているのが、今の日本の状況なわけであろう。それに対して、ネット上でも、さまざまな憶測が語られている。もしかしたら、多くの日本人にすでに免疫ができているのではないか、とか、BCGワクチンを疑っている仮説もあるそうだ。
出羽守(でわのかみ)ではないが、ヨーロッパやアメリカがある対策をやっているから、日本は一刻も早く真似しなければならない、というのは、結局は専門家が判断することであり、その専門家をこういった専門的な評価に対しては信用するしかない。いずれにしろ、長い戦いになるのだから、その分析をもとに議論していくしかない。
結局のところ、今行われている政策は「医療崩壊」が起き、本来なら救える人たちがまともな医療を受けられないことで亡くなってしまう、本来の「伝染病」において恐れられている事態なのであって、このことと

  • 一人でも死んじゃだめだ(=政治家の責任だ)

といったものとは分けて考えなければならない。
それは例えば、薬の開発ひとつとったって、ある薬を飲んだら治った。じゃあ、その薬はこの病気に効くのかは、少しも証明されていない。なぜなら、もしかしたら、その薬を飲まなくても治ったかもしれないからだ。
ある方が亡くなった。しかし、それを最終的に決定的にしたものは、ご高齢であることや、持病に関係したことなのかもしれない。今カウントされている死者は、その「症状」を現した人が、「同時」に死に至ったというケースを全て含めているわけだが、その「因果」関係はそんなに簡単ではないわけである。
むしろ、私たちは直近の「経済活動」、つまり、「不況」の問題を考えなければならない。この不況により、倒産する企業が増えれば、多くの自殺者がでてくるであろう。つまり、

  • どっちを「救う」のか?

といった難題が迫っている、とも言えるわけである。
どういった選択がいいのか? どういった行動がいいのか? それは自明ではない。ただ、どっちにしろ判断していくしかない。その場合、何を維持し、何を「緊急」の事態として、一時的な非常時対応を行うのかを選ばなければならない。その場合には、「規準」がいる。今、さかんに言われている「3密」は、少なくとも今の日本の状況に対しては、一定の合理性があるのであろう。つまり、その上で、あとは各自が選択するしかない、というわけである...。