コロナ禍でのサッカーと新潟

昨日のU24のアルゼンチン戦での、3−0の圧勝は、そもそも日本が

んじゃないのか、といったくらいに、5ちゃんねるでスレが立つほどの勝ち方だった、と言いたいようである。
この点については、どうなのだろうか? 確かに、代表でも、今までも親善試合で、国内開催で日本がアルゼンチンに勝ったりしてこなかった、ということではないわけだが、確かに、ここまで「圧勝」といった印象を見ている人に与えたことは確かなのだろう。
(初戦は僅差ではあったけど負けているだけど、そう考えると、川崎の田中碧が大きかったのだろうか。)
また、そのことは代表のこの前の韓国に勝利した試合についても、同様な印象を受けたわけだけど、つまり、

  • 新型コロナ

が、さまざまに影響しているんじゃないのか、とは思うわけだ。
それは、去年のJ1の、川崎の圧勝でも思ったわけだが、彼らのような、

  • 走らない

サッカーが、逆に、横浜との違いとして、印象を受けたわけだ。少なくとも去年は、過密な日程のため、効果的だった。そしてそれは、去年のJ2のアルビレックス新潟においても言えたのではないだろうか。
去年の新潟は、バルセロナでコーチだったという、新しい監督を迎えたわけだが、後半は力尽き、J1への昇格を逃した。ところが、今年はスタートダッシュに成功し、開幕から連勝街道をつっぱしっている。

就任2年目のアルベルト監督の下、小気味よくパスをつないで東京Vを自陣に閉じこめた。ボールを失っても連動したプレスで即座に奪回し、前線から最終ラインまでコンパクトな陣形をキープした。相手をオフサイドの網にかけた回数が6回を数えるなど、逆襲の機会も奪った。過去12戦未勝利だった難敵に付け入る隙を与えず、見事に「蹴散らした」。
https://www.nikkansports.com/soccer/column/dish/news/202103290000221.html?mode=all

下記で、「蹴散らした」と書いてあるように、見事な

  • ポゼショナル・サッカー

が確立されつつある。つまり、相手のポジションや、相手の戦術に合わせて、相手の隙にボールを配置していくことで、最終的なゴールをとる。
そもそもなんで、こんなバルセロナのコーチだったような人が、新潟に来て2年もやってくれているんですかね...。

飯田隆「綜合的アプリオリから規約へ」

ネットで調べてたら見つけた1993年の論文。
例えば、リチャード・ローティは、分析哲学は、A・J・エイヤーの『言語・真理・論理』から始まった、と言っている。
それはつまり、クワインによる、論理実証主義への批判だ、と。ヴィーン学団。もっと言えば、カルナップ批判。つまり、彼による

ですよね。

論理実証主義のこうした位置づけは、この哲学的運動がドイツ語圏から英語圏に拡大するに当たって大きな力となった書物が、その冒頭に述べるところでもある。すなわち、エイヤーの『言語・真理・論理』第一版(一九三五年)の序文はつぎのように始まっている。

この書物で述べられる見解は、バートランド・ラッセルウィトゲンシュタインの説に由来するものであり、これら両者の説は、それ自体、バークレーとデヴィド・ヒュームの経験論の論理的帰結である。

この一文を現在読み直すとき、ひとはまず、ウィトゲンシュタインの説が「バークレーとデイド・ヒュームの経験論の帰結である」とされていることに、ある感慨を覚えるはずである。しかし、エイヤーのこの書物に描かれているような論理実証主義の主張が、バークレーとヒュームの経験論の論理的帰結であるとすることに、目くじらを立てる人はそれほど多いとは思われない。
このように論理実証主義を経験論の伝統に位置づけることが現在広く行われるようになったのには、エイヤー以上にクワインの影響によるところが大きい。

でも考えてみると、これ。明らかに変だよね。だって、論理実証主義って、

  • 新カント派

なんですからw

こうして論理実証主義の一次資料が整備された結果はっきりしてきたことは、当たり前と言えば当たり前であるが、論理実証主義者の多くは最初から論理実証主義者であったわけではないということである。とりわけ、シュリック(一八八二年生まれ)、ライヘンバッハ(一八九一年生まれ)、カルナップ(一八九一年生まれ)の初期の哲学的経歴が明らかになるにつれて、つぎのような事実は否定できないものとなってきた。つまり、後年論理実証主義の中心人物となるこれらの哲学者の、一九二〇年代はじめまでの問題関心は、まさに当時のドイツ語圏の哲学のそれと同じだという事実である。かれらはいずれも、十九世紀後半から明確な形を取ってきたカント復興の流れに属する哲学者として、その哲学的経歴を開始している。

完全な

  • 歴史捏造

だよねw つまり、分析哲学って、「起源」が

  • うさんくさい

んだよね...。なんか、彼らが「自明」だと言ってやっていることが、そういった歴史の改竄から始まっていることが、かなり根本的な、この業界の

  • いんちきくささ

に、深く関係しているよね。つまり、彼らは、かなり意図的に

  • カントという「起源」

を「隠して」、自分たちの主張を、あたかも「経験論」の延長で、その未開の地から始めたかのようなパフォーマンスを行った、ということなんだよね。むしろ、彼らが「うさんくさい」のは、意図してカントを

  • 読まない

という

  • パフォーマンス

の方にこそ、その「本質」がある、ということなんだと思う。そして、「経験論」が、カントを「盗用」していく、そのチンピラとしての所作に、その深刻な学問としての「誠実さ」が問われてきたんだと思うわけである...。
http://dep.chs.nihon-u.ac.jp/philosophy/faculty/iida/doc/KANT.pdf