桐生ココの卒業

それにしても、いわゆる、日本の有識者と呼ばれるような連中が、まったく、この話題に反応しないというのは、つまりは、そもそも彼らの日常に、

がいない、ということなのだろう。つまり、VTuber の動画を見る、という日常がないのだろう。
まあ、卒業発表の動画で、その「理由」を発表できない、と言っていた時点で、いかにこの事態が

  • 異常

だ、ということが分かるだろう。今までの経緯を知っていれば、例の台湾問題が最大の原因であることは明らかであろうが、もしもそうであるとするなら、

  • 中国による「文化侵略」に日本が<負けた>

決定的な分岐点になった、と歴史を振り返られることになるのだろう。
(確かに、ホロライブの資本関係に、どれくらい中国資本が食い込んでいるのかは注意していかなければいけない視点であることは間違いない。)
宮台真司なんか、videonews.com で、中国共産党の礼賛のオンパレードだからねw 自分の大学のクラスは中国の留学生ばかりだ、とか。しかも、今週の videonews.com は LINE を使わない日本人を「異常者」扱いする始末w 中国や韓国の企業である LINE に、日本の個人情報を

  • 献上

しない日本人を「異常者」扱いする宮台は、そんなに日本を中国や韓国の資本に「支配」させたいんですかねw こういう

  • 高学歴「鬼畜」

が、日本を中国や韓国に「売る」ことで、自分たちの「上級国民」としての小金を稼ぐ、ってわけw
桐生ココは、ほぼ唯一と言っていいほど、日本語と英語のバイリンガルとして、日本語勢と英語勢の間をとりもてる、有能な存在だった。それだけに、さまざまな場面で彼女が矢面に立たされた形になったことは間違いない。
はっきり言えば、何が問題って、こういった

という「文化」の限界が示された、と言わざるをえない。つまり、「生放送」は、そもそも不可能なのだ。「生放送」で語ってしまった「事故」は、どうやったって、取り消すことはできない。これを避けたかったら、「生放送」を止めるしかない。しかし、そうすると、こういった、ライブ配信での、コメントを介した、リアルタイムのサロン文化を維持できない。
「生放送」である限り、どんな「失言」も避けられないわけで、だとするなら、誰が考えても避けなけければならないのは、それが

  • 国際問題

にならないように振る舞うことであり、つまりは、配信の「地方化」。なるべく、ローカルなラジオ局のようないでたちで振る舞えるのか、が大事だったわけだが、ホロライブは、この「サロン文化」の戦略をとるがゆえに、海外展開を選択していくわけだが、まあ、どう考えてもその選択は、さまざまな

  • <国際問題>という「地雷」

に突きあたった、ということなのだろう...。そういう意味では、彼女の存在そのものが、今の矛盾に国際社会が正面から向き合っていないことの、一番の最前線での被害者として、回りの大人たちが、彼女に全部、その責任を押しつけて

  • 逃げた

ということ、彼女を「スケープゴート」にして、自分たちの地位や金儲けの手段を守りやがった、という鬼畜たちが、なんでこれからも、うまい汁を吸い続けられると思えるのか。どんな形であれ、その「社会」の側からの

  • 責任追求

が始まるのだろう...。

追記:
例えば、以下の朝日新聞のニュース記事があったわけだが、なぜこの記事が、あまり話題にならなかったのかは不思議だ。

一通の首相親書が、日中関係の軌道を大きく変えていった。2012年に首相の座に返り咲いた安倍晋三は当初「対中牽制(けんせい)」を強調したが、徐々に「競争」から「協力」へ軸足を移す。その転機となったのが「習近平(シーチンピン)国家主席に宛てた安倍首相親書の書き換えだった」。
中国への安倍親書「書き換え」 外交で始まった側近政治:朝日新聞デジタル

二階訪中には経済産業省出身で、安倍側近の首相秘書官、今井尚哉が同行。習と対面した二階は「ここで読んでください」と笑顔で親書を手渡したという。親書には、中国の一帯一路を評価する内容が記されていた。
中国への安倍親書「書き換え」 外交で始まった側近政治:朝日新聞デジタル

政府関係者によれば、谷内に抗議された安倍は「僕もどうかなと思ったんだけどね」と語ったという。谷内は麻生や菅にも訴えたが、「(書き換えは)黙認された」(政府関係者)。
中国への安倍親書「書き換え」 外交で始まった側近政治:朝日新聞デジタル

つまり、安倍元首相は、今井という側近とグルになって

  • 日本を中国に売った

ってわけ。早い話がさ。今、日本の「資産」を中国に売る

が一番、日本で「儲かる」ということなんだよねw だから、知識人とか、必死になって、日本を中国に「献上」することで、自分だけ、なんとかして、上級国民として、中国に気に入られて、余生を安穏と過そうと画策しているわけw
まあ、あと百年もすれば、もう、日本は存在しないでしょう。その頃までには、第二の宮台真司や、第二の安倍元総理が現れて、日本の財産の全ては、中国に献上されてしまう。そして、もうそこには、日本は存在しない...。

トネ・コーケン『スーパーカブ』

現在、テレビアニメが放映されている、原作のラノベの第一巻。
主人公の小熊という女子高生は、少し特殊な生い立ちをしている。

父親は小熊が生まれて間もなく事故で死に、さほど多額でなかった父の遺産を着り崩しながら小熊を育てた母親は、小熊が高校に進学した直後、お役目終了ばかりに失踪宣言の紙切れを残して姿を消した。
高校に入っていきなり親を失った小熊。父母が駆け落ちに近い形で結婚したこともあって疎遠だった祖父母もとっくに没していて、頼れる身寄りと言える親族は居なかった。l
小熊は通っていた高校や自治体と相談した結果、奨学金の給付を受けて現在の高校に通い続けられることとなった。

そこから、奨学金をもらって、学校に通うようになる。しかし、それ除けば、どこにでもいる、少し陰キャな女の子といった程度だ。というのは、なぜスーパーカブに乗ることになるのかの動機は、どこにでもある話だ、という意味で。

軽快で耳障りな音と共に原付スクーターが横を走り抜けていった。小熊の通う公立高校は坂ん多い土地にあるため、原付に限りオートバイでの通学が認められている。

ここから、どういった「いきさつ」を辿って、このお金のない少女がスーパーカブを乗ることになるのかは、作品を読んでもらうとして、大事なポイントは、ここから先、作品の中心的な主題が、

との関係に、話の主題が移っていく、ということである。
この「いきさつ」に、とても似ているのが、ファースト・ガンダムと言ってもいいだろう。アムロ・レイは、ガンダムパイロットとなってくわけだけど、この

  • 子どもと「ハードウェア」の関係

は、日本のアニメで、何度も何度も反復して描かれてきたテーマだと言ってもいい。この「ファースト・インパクト」からの「まきこまれ」的な展開が似ている。
もともと、陰キャで、社交性のない小熊であり、アムロ・レイは、逆説的だが、この「ハードウェア」との関係を通して、

  • 社会

と関係していく。というのは、礼子が象徴しているように、世間には

たちによる、コミュニティがあって、お互いで助けあっている。廃車になるスーパーカブがあれば、その部品を欲しがっていたスーパーカブ乗りにあげるし、反対もする。それは、その地域で生きているスーパーカブ乗りたちの作法だ、と言っていい。
地方はとにかく、車社会だ。地方に行くと、圧倒的に走っている車は、軽自動車だ。なぜなら、「燃費」の関係で、合理的だからだ。
こういった延長に、スーパーカブもあると言っていいだろう。
こういった系統の作品は、アニメ「けいおん」における軽音楽器(ギター、ベース、ドラムなど)に始まって、アニメ「ゆゆ式」では、学校のパソコンでのネット検索がとりあげられ、アニメ「ロングライダース」の自転車と、まあ、ほとんど全ての作品がそういった意味でのお、この関係を描いている、と言ってもいい。
例えば、ホロライブを考えてみてもいい。各メンバーは、どう考えても、社会不適合者とでもお言うか、陰キャであり、人と話すのが苦手で、部屋に閉じこもっているような女の子ばかりなんだけど、マイクラを始めとして、

  • テレビゲーム

を徹底的に極めることで、逆に、そのネタを通して、回りとの「社会性」を獲得していく。つまり、

  • おたくコミュニティ

に入っていく。
ところで、このアニメ作品については、ここのところ、ネットで軽く炎上している、と言っていいと思う。それは、このアニメを見ていた人が、「自動二輪免許取得後、一年間は二人乗り禁止」のルールに違反しているんじゃないか、というクレームが、まあ、ツイッター辺りにあった、ということらしい。
ただ、これについては、そもそも原作で、わざわざ、その該当する場面で、この法律の存在を断っている、という複雑な関係になっている。
アニメ視聴者は、そのアニメで、この法律があるのに、まったく無視されているように見えるから、クレームをしたんだと思うが、原作には、その説明がある。
そう考えると、このテレビアニメは、徹底して、原作にある「説明的」なものを、禁欲的に排除している意図が見えなくもない。
大事なポイントは、原作はそこまでこの「青キップ違反」を重要なことだと考えていない、という扱いになっていることだろう。いずれにしろ、この「青キップ違反」は、スピード違反などを含めて、今後、バイクや自動車に乗り続けている限り、何度も切らることになることは、ほぼ絶対に避けられないからだ(それが嫌なら、バイクや車に乗らない、ペーパードライバーでいるしかない)。
ところが、ネット上の反応は「もしも、それによって誰かを怪我をさせたらどうするのか」といった、一般的な「ルール違反」による、他者加害の可能性に踏み込んだ批判が多い印象を受ける。
ただ、このラノベの一巻を最後まで読んだ印象としては、そういったポイントに重点があるのではなく、

という方に作者が強調したいポイントがあるわけで、そういったことを言うなら、礼子が富士山をスーパーカブで登ろうと挑戦して何度も転んでいることや、小熊が礼子にインスパイアされて、自分も富士山の登頂近くまでチャレンジしたこととか、もっと素朴に

  • やめといた方がいいんじゃないか
  • 危ないんじゃないか

と思うことをやっているわけですよね。ただし、そっちについては、まあ、他人に迷惑をかけなければ、みたいに見られているわけだけど、むしろ、なんでそんな「無茶」をやるのか、っていう方にポイントがあったわけでしょう。
つまり、なんらかの実存的な、本人が生きていく上で、どうしてもやりたい、といったような関係が示唆されていた。
まあ、ここが上記での「子どもとハードウェア」の関係をどう考えるのか、ということだったわけであろう。
危ないと言っている人は、そもそも、バイクには乗らないわけです。それは、自動車だってそうでしょう。でも、田舎では、これはなければ生きていけないし、そもそも

という関係にある。田舎で生きていくことと、この危険は同値の関係にある。ホロライブのメンバーが、各ゲームの深夜配信を通して、ゲームに熟達していく過程で、

  • 自分に自信をもっていく

という関係にあることと、似たような何かを示唆している、とは言えるわけだ...。