問題解決型としてのラブライブスーパースター

テレビアニメ「ラブライブスーパースター」第10話が放送され、謎の少女、ウィーン・マルガレーテについて、かなり分かってきた、と言えるのだと思っている。
今回のスーパースターを特徴づけるのは問題解決型のストーリー展開となっていることだろう。そして、その解決の過程が、少しミステリ=推理小説のテイストが入っている感じ。
最初は、主人公の澁谷かのんが「人前で歌えない」というトラウマが主題とされ、次々と、さまざまな「難問」が今度はその、かのんを中心にして解決してきた、という展開になっている。
そして、急に2期から登場してきたのが、ウィーン・マルガレーテ。お前は何者なんだ、といった感じだったわけだけど、完全に、スクスタのランジュでしょ。つまり、オマージュ。
スクスタは、ちょっと目も当てられないくらい炎上した。それで、虹のアニメ二期では、完全に、ランジュとミアの棘が抜かれて描かれて、しかも、それがファンに支持された。
しかしそれによって、虹のアニメ2期では、そもそもスクスタが問題にしたかったテーマが完全に消えてしまった。これに対して、ウィーン・マルガレーテは、もう一度そのテーマを繰り返している。しかし、スクスタの時も言われていたけど、こういうのは、テレビアニメでやればいい、っていうつぶやきが多かったわけだよね。そして、今回は、そのテーマを再び、スーパースターではテレビシリーズでやっている、ということなんだと思う。
つまり、スクスタのランジュ・ミア問題は、

  • 才能

とか、

  • 芸術

の問題として提示していたわけだよね。つまり、こうやって、ラブライブシリーズのコンテンツを消費しているラブライバーに向けて、お前たちがやっていることに意味はあるのか、って問いかけてきているわけでしょ。
ウィーン・マルガレーテは「本当の音楽」ということを言う。その時、ラブライブはそれではない、という意味で言っている。つまり、かのんたちの活動を否定している。それは、ある意味で、かのんたちが通っている学校の問題だとも言える。結ヶ丘女子高校は、普通科と音楽科で構成されている。つまり、音楽がやりたいなら、音楽科でやればいい、とも言えるわけだ。
それに対して、スクールアイドルの「価値」ってなんなんだ、と聞いてくる。それは、「おたく」がこのコンテンツを消費する意味を聞かれているのに近い意味がある。
これと同じようなことを、スクスタのミア・テイラーは言っていて、彼女は世界中の最先端の音楽を聞いて、そこから、自分の作品を作っているから、そういった「アイドル作品」と比べてほしくない、みないな態度だったわけだろう。
一方で、そういった「芸術としての音楽」を語りながら、だとしたら、アイドルとしての活動は、それに対して、どういった位置にあるものなのか。これを「明確」にすることが目指されている、ということになるのだろう...。
(ファンの間で議論となっている話題の一つとして、話の展開として、サニパがウィーン・マルガレーテに予選で負けたことへの批判があった。
まあ、わからなくはないんだよね。リエラのライブツアーにもサニパがゲスト出演していたくらいだから。
ただ、アニメ制作サイドは、一度もサニパのライブをアニメの中で描いていないんだよね。それに対して、ウィーンは2曲も描かれている。つまり、いったんアニメだけに話をしぼるなら、ここに制作サイドの描き分けの意図が示されている、と受けとる必要があると思いますけどね...。)
(まあ、昔からある問題だよね。プロというか、ハイカルチャーに対して、素人であり、サブカルチャーの価値であり意味はなんなのか、みたいな話だよね...。)

リコリコ最終回

とうとう、アニメ「リコリスリコイル」の最終回が放映され、作品は完結した。そういう意味で、最終回は、これといって特に、新しい謎が解明されるようなこともなく、たんたんと終わった印象だ。
ようするに、最終回で描かれたのは、

  • 千束(ちさと)

について、だった。このアニメの最大の謎は「千束が思っていること」だった。作品の世界構造ははっきりしている。DSがいて、その機関の一部として、リコリスと、リリベルがいる。対して、よしさんに代表される、アラン機関がいて、そのアラン機関と関わることで、千束と関わることになる、真島がいる。
そういった、それぞれの勢力が、それぞれの覇権を狙って動いている中で、問題は

  • 千束(ちさと)

だった。彼女はどう考えているのか? どっちの側に、自らをコミットメントしているのか? 言ってみれば、これだけが謎だった。
彼女は何者なのか? それは、彼女が、なにを考えて生きているのか、どう生きようとしているのか、ここについて、この作品は、あえてそれをはっきりさせることを最終回の前までは、避けてきた。
最終回。それに対して、真島に向かって、千束は、

  • それぞれが、それぞれの「正義」を主張している世界を「そのまま」肯定する

という立場について、語っている。それは、ある意味でくそったれな考えではあるが、それを真島に向かって語ることには意味があると考えたわけだ。
真島とは何か? 真島は、DSのアンチテーゼとして登場する。彼はテレビ画面に向かって、日本中の人に向かって、「DSの悪」について語った。それは、リコリスの存在形態そのものの悪だった。真島は、リコリスという存在が、国民に隠されていること自体の

  • 存在悪

を「偽善の暴露」という

  • 正義

の行為として遂行する。しかし、そのことが彼そのものの悪を否定することになっていない。言わば、DSと真島は「同類」なわけである。お互いがお互いの正義を主張していながら、別に、それぞれは自らが悪であることまで否定しようとしていない。
例えば、真島は一般国民に、拳銃を与え、それを撃つ「権利」を譲渡しようとする。なぜなら、それが

  • 人間の真実の姿

だと考えるからだ。拳銃を持つことは、個人の防衛の権利と考えるなら、その考えを否定することは簡単には難しい。つまり、彼は私たちの常識に挑戦する。
しかし、そのことが、彼そのものが「悪でない」ということを証明しない。それだけじゃなく、彼自身も、それを認める。
そこで、千束の言葉になる。彼女は、近い将来に死ぬことを約束された存在である。そういう意味で、彼女には強烈な、生きることへの「ニヒリズム」がある。彼女は、生き続けることに、まったく、執着がない。だからこそ、真島に向かっても、いつもと同じことを言う。
千束は死ぬ。もうすぐ死ぬ。そう覚悟していた彼女は、この真島との対決において、最後、真島が仕掛けた爆弾が「花火」だったことに気付き、悪態をつく。なんでみんな、嘘つきなのか、と。
そう考えると、あらゆることが「冗談」のような作品だ。よしさんは自分の心臓は、千束のための人工心臓が移植されていると言っていたが、彼のスーツには、千束のための人工心臓が入っていた。真島は、爆弾を仕掛けたと言ったが、それは花火だった。そういう意味で、そもそも彼らの

がなんなのか、なんでこんな馬鹿馬鹿しいことをやっているのか、に悪態をつかずにはいられないわけだ。なんで。なんで、こんなことをするのか。なんの意味もない。ただただ、彼らの「悪人の美学」が、彼らの行動の無意味さを際立たせながら、つくづく、もうすぐ、この世界を去ることが分かっているn彼女には、苛立たしく、神経を逆立たせる行動に思われてくる。
しかし、いずれにしろ、そういうわけで、彼女の人工心臓は移植され、彼女は生き延びることになる。ラストは、そんな彼女が、次の行動を始める場面、つまり

  • 日常回への復帰

を描いて終わる...。