友敵理論は「ポエム」である

カール・シュミットは、カントの三批判の延長として、「政治」を「友敵」を本質とするものとして定義した。
しかし、である。
そもそも、カール・シュミットナチス時代のドイツの学者であり、この前紹介した、(ジョン・ロック流の)アメリカ型社会契約ではなく、(ルソー流の)フランス・ドイツ型社会契約で考えているわけで、そういった意味では、こういった理論に私たちはそれほど真面目に付き合う必要はないのではないか、と思うわけである。
戦後の日本の憲法は、完全にアメリカ型にふれたのであって、基本的に今の日本は、アメリカ型で構成されている。そうであるのに、なぜカール・シュミットの言うことに唯唯諾諾と従わなければならないのか。
この辺りの理屈について、以下で検討していこう。
そもそも、動物自体が「弱肉強食」ではないか、という主張がある。しかし、私たちが知っている範囲において、ほとんどの動物は、同じ「種」の間では、殺し合いをしない。それはまあ、当然なわけで、お互いで殺し合って、同じ種がいなくなってしまっては、種の存続にならないからだ。
次に、太古の昔から、人間の村部族間の「いざこざ=戦争」はあったわけで、それが歴史を辿るごとに、国家の間の「戦争」として続いてきたのだから、人間同士が殺し合うのは「当たり前」だ、という主張がある。でも、よく考えてみると、国家間の戦争は、その国の「支配者集団」の、うらみや、ねたみ、自分の地位に恋々としがみつく、といったもので、それに対して、国家の支配者に国民が「抗えない」というところが本質だったわけである。しかし、そもそも考えてみると、こういった支配者集団が、なぜそこまでして、その「地位」に恋々とするのかは、あまり合理的な説明がない。
ジョン・ロック型の社会契約においては、政府体はあくまで「信託」によって、ある「仕事」を託された存在にすぎなく、その「仕事」を十全にこなさなければ、国家を「革命」する権限さえ与えられている。政府体はあくまで、各ピープルと「同列」の主体でしかなく、そこに、上下の区別はない。そう考えるなら、わざわざ、こういった政府体の一員となって、「仕事」をこなそうという人は、よほどのお人好しなのかもしれない、とは言えるわけである。
今の国連においては、そもそも「侵略戦争」は

  • 禁止

されている。そして、WW2以降、一応、建前上は自らが「侵略」戦争だと宣言して行われた戦争は起きていない(ISは例外なのかもしれないが、ISを「国家」だと認めている国連関係者はいないだろう)。
このことは、各個人の間の「いさかい」についても言える。確かに、今でも殺人事件は起きているわけで、そういう意味では、個人のレベルでは「戦争状態」なんじゃないか、と言いたくなるかもしれない。しかし、そういった事件の多くは、うらみ、ねたみ、自分の地位に恋々としがみつく、といった理由であって、つまりは、別に、それが

  • 本当の意味で、自分の「生存」に役に立っているのか?

については疑わしいわけである(あまり合理的な判断ではないとすると、一種の「病気」のようなものとして、基本的に人間はこのように振る舞う、といったものではない、と解釈できる、というわけである)。
そもそも、シュミットの言う「友敵」理論における、友とは「自分の身の周りの親しい人たち」といったものであり、敵とは「それ以外」というくらいの定義しかない。つまり、敵とは、

  • 自分の「仲間」でない人

というわけで、ある具体的な人が目の前にいれば、その人が「敵か味方か」を判断できるのかもしれないが、具体的な「敵」を列挙できない。なぜなら、自分の知らない人は全員、この定義からいけば、「敵」に分類しなければならないわけで。
そう考えるなら、カール・シュミットが言っていることとは、

  • 自分の身の周りの「かけがえのない」家族(のような人たち)
  • それ以外

といった分け方をしているのと変わらないわけで、本来的にこれは「敵と味方」ではないのだ。「敵」とは、「かけがえのない家族(のような人たち)の

  • 補集合

に過ぎない。つまり、これが具体的になんなのかを、まったく「定義していない」ということと変わらないのだ。よく考えてみよう。私がまだ出会ったことも、その存在も知らなかった人がいるとする。そして、その人がある日、私の目の前に現れたとして、なぜ私はその人を「敵」と判断するというのだろう? カール・シュミットの定義からは、その人は

に「敵」だということが定義によって決まっている。しかし、私はその出会った瞬間に、その人と意気投合するかもしれない。つまり、「敵」の定義など、存在しないのだ。
大事なポイントは、「侵略戦争」にしても、個人の殺人にしても、なんらかの公的な「法」によって禁止されているため、そういったことを意図することの「コスト」が一般的に高いと見積らざるをえないわけで、合理的にそれを選択する人が現代において、極端に少ないことは、うなずけるわけである。
確かに、「敵」を「かけがえのない家族(のような人たち)以外」と定義することは、曖昧で、意味がないことには同意するかもしれない。しかし、実際に、ある人を「敵」だと思うことは、実感としてあるんじゃないのか、と言うかもしれない。それは、補集合よりは小さい範囲で、なんらかの「敵意」を自分がもってしまっている人たちを「敵」と呼ぶことには、合理性があるんじゃないのか、と。しかし、そもそも流動性が保証された現代社会においては、嫌なら、その土地を離れればいい、とも言えるわけで、そこにいつまでもしがみついて、毎日、そんな人たちと顔を合わせなけれなならない理由もないわけである。
しかし、そうは言っても、現代国家においてさえ、国連が指導する「人権国家」の体裁をなしていないと言わざるをえない国家はいくらでもあるわけで、そういった国家においては、上記で述べたような条件を満たしていないわけだから、やはり「友敵」は存在すると言わざるをえないのではないか、と思うかもしれない。実際に、民主主義とはとても呼べないような、一党独裁の国家システムを続けている国家でさえあるわけで、と。
しかし、私が言いたかったことは、たとえそういった国家があったとしても、だったら、その国家の国民はみんな「亡命」すればいいんじゃないのか、と思うわけである。先程かた言っているように、ジョン・ロック型の社会契約論においては、国家転覆さえ視野に入れれいる。国家が、ピープルの「信託」に従っていなければ、この「契約」は成立していないのだから。
では、一般的に現代において、どういう場合に「友敵」といった表現が使われるかというと、まずほとんど

  • ゲームという「比喩」

においてである。例えば、経済において「競争」という言葉が使われる。これを、勝ち負けと考えて、「やっぱり友敵はあるじゃないか」と思うかもしれないが、そもそも、この競争や「いつでも止めていい」わけである。そして、そうやって止めたところで、人間にはジョン・ロック型の社会契約の信託によって、

があるわけで、政府体はピープルを飢えて死なせるわけにはいかない。というか、そんなになる前に、別の「競争」を始めてもいい。ゲームとは本質的に「遊戯」である。つまり、なにか自分の

  • 天職

のようなことを考えている人でもない限り、そこに「友敵」は生まれない。ようするに、「友敵」というのは、なんらかの

  • (古き良き太古に思いをはせる)ファンタジー

なのであって、この「病気」にかかっている最も分かりやすい例が「哲学者」なわけである。哲学者は「古典」を読む。しかし、その古典が書かれた時代と、現代が本質的に違っていることを、彼らは、認識しないわけである...。