トンデモ本「一般意志2.0」

例えば、柄谷行人の『探究1』『探究2』は、確かに扱っている内容は難しいのかもしれないが、少なくとも言おうとしていることは、まあ、分からなくはない。それは、そういった「言おうとしている」相手が、基本的には、そういった一般の読者を想定しているからで、つまりは、そういった人たちに「啓蒙」しよう、といった姿勢がおそらくはそこにあるからなのであろう。
他方、東浩紀先生の『一般意志2.0』は、正直、誰に向かって、何を言いたいのかが、さっぱり分からない。なんで、ここで、こんなことをこの人は話しているのか。特にいけないのが、いろいろな固有名詞を文章の中で使うのだが、それらについて

  • 読者

に説明しよう、という態度がないので、まるで、読者がその固有名詞の人に通暁していて、「言わなくても分かれ」と言われているような文章の書き方になっているわけで、ひどく「不親切」な書き方になっている。
『一般意志2.0』を読んでいくと、ハーバーマスなどの「熟議」を主張している何人かの民主主義の研究者の名前が登場してくる。そこから、この本は、「熟議」ではダメだから、違う「民主主義」を提案している、ということなのかな、と思って読んでいくと、以下のような記述に出会う。

つまりは二一世紀の国家は、熟議の限界をデータベースの拡大により補い、データベースの専制を熟議の論理により抑え込む国家となるべきではないか。

ここでのデータベースとは、この本で「一般意志」と呼んでいるもので、つまりは、

  • 統計情報

である。まあ、その統計情報の母集団と言ってもいい。ようするに、この引用は、最近はやりの「リバタリアンパターナリズム」によって、民主主義を補おうと言っているわけだけど、そんなことは「リバタリアンパターナリズム」がその典型であるけれど、いくらでも

  • 官僚

によって取り組まれてきた。つまり、なんにも革命的な話じゃないのだ。しかし、そういった「リバタリアンパターナリズム」が論争をよんでいるように、「パターナリズム」が正当化されるのかについては、なんの保証もない。東浩紀先生は、そういった統計情報は「(ルソー的な意味で)一般意志」なのだから、人民はそれに「従わなければならない」と言いたいのだろうけど、そもそもそういったルソーの一般意志を私は

  • 疑わしい

と思っているのだから、なんでこんなふうに「断定口調」でルソーに従えみたいに言われなければならないのかが、さっぱり分からないわけである。
ルソー型の社会契約論は戦前の日本を説明するのには一定の説得力があるのかもしれないが、少なくとも戦後の日本の憲法は、ルソー型の社会契約論から、ジョン・ロック型の社会契約論に変わったのだから、なんでこんなものを、ありがたく頂かなければならないのかが分からないわけである。
そもそもよく分からないのは、なぜこの本で、東浩紀先生は読者に、「ルソー」の一般意志の話をしているのだろうか。というか、なぜ読者はルソーに「賛成」しなければならないかのような文脈になっているのだろうか。読者がルソーの言う「民主主義」は自分たちの考える民主主義とは違うから、それとは違う民主主義である今の日本国憲法を守りたい、という主張をなぜ考慮していないのだろう。
ようするに、なぜこの本は、「日本人がルソーに<賛成>するのは当たり前」みたいな

  • 前提

で書いているんだろう? 一体、いつ、だれがそう言ったんでしょうか? もっと言えば、どんな「文脈」で、ここでルソーの話が始まったんだろう?

そこで、これからの政府や自治体は、それら公共事業の着工決定に際して、利害関係を強くもつ住民の陳情や専門家の意見だけでなく、現実にだれがその道路や空港を求めているのか、実際にその場所をどれほどのひとが通過し、匿名の利用者はどのような感想を抱いているのか、スマートフォンの位置情報やETCの記録からネットに投稿された呟きにいたるまで、あらゆる情報をことごとく集めて分析し----むろんプライバシーには十分配慮しなければならないが----、さらにその分析の方法すらオープンにするように試みるとしたら、どうだろうか。
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

図9-2を示された行政官や都市設計者は、経路について決定の権限をもっていたとしても、黒い太線を完全に無視して計画を進めることを----たとえば完全に白紙の領域に道路を通すことを----ためらってしまうはずだと考えられないだろうか。
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

私は先ほど、この本で書かれている内容は、最近はやりの「リバタリアンパターナリズム」とまったく同一であって、なにも新しいことを言っていないと言った。つまり、ここでの「提案」は、なにも新しくなく、この提案によって、今の問題が改善されない。
このことを典型的に示しているのが、上記の二つの引用であろう。前者で注目するポイントは最後の「さらにその分析の方法すらオープンにするように試みる」というところである。ところが、現在の安倍政権の加計問題の議論を見ても分かるように、間違いなく政府は、あらゆる「パターナリズム」の判断となったプロセスの公開を

  • 拒否

するだろう。よって、最も疑わしいのは「一般意志2.0」だ、ということになるわけである。この「計算」こそが、おそらくは、最も「悪質」な計算となる。勝手に国家が、国民の意志を「捏造」することとなる。言うまでもなく、データベースはたんなる電子情報なんだから、いくらでも「改変」が行える。どんどん、偽の行政文書が作成され、国家情報はフェイク・ニュースとなる。
後者においては「ためらってしまう」と言っているわけだが、今の加計学園のやりとりを見れば一目瞭然ではないか。安倍政権と、安倍政権に無批判に従う官僚は、嘘をつくことを平気で行う。嘘がばれても平然としているし、責任をとらない。
ようするに、東浩紀先生のこの本は、なにか政治学の「ブレークスルー」をこの本が起こしているのかと思って読んでいっても、なにも新しいことを言っていないばかりか、(上記の二つの引用にあるような)意味不明の楽観的な見通しを、なんの論理的筋道も示すことなく、主張し始めているという意味では

だということなのだ...。