子安宣邦『本居宣長とは誰か』

本居宣長。彼について、どれだけ、考察されてきただろうか。
ちょっと、最近、「玉くしげ」「玉くしげ別巻」「直毘霊」を現代語訳で読んだんですが

玉くしげ - 美しい国のための提言(現代語訳 本居宣長選集 第1巻)

玉くしげ - 美しい国のための提言(現代語訳 本居宣長選集 第1巻)

、それだけでも、いろいろ思うところがありましたね。
子安さんの著作の中で、本居宣長に関するものは、けっこうある。また、ほとんどの書籍に、少しは宣長に言及しているんじゃないでしょうか(一応、総論的、入門的なものということで、掲題にしてみました)。
賀茂真淵万葉集の研究から、漢心批判を行うようになるわけですが、宣長はそれを継承する。その流れから、宣長古事記研究、漢心批判となるわけですが、そのスタイルは、かなりのところで、荻生徂徠の流派が、儒教に向けて行った批判のスタイルに酷似するわけです。

古語註釈上の漢意批判の方法は、馬淵から宣長が継承したものであることはすでにのべた。後者の言説批判としての方法は、荻生徂徠の古学によって宣長が啓発されたものだと私は考えている。徂徠の『けん園随筆』や『弁道・弁名』などの著作を読むならば、その言語使用や言語構成のあり方の多くが、宣長の文章におけるコピーをもたらしているように私には思われるのです。

宣長学講義

宣長学講義

たしかに、儒教朱子学を批判する徂徠の言説が、漢意を批判する宣長に平行する。
こういう部分については、けっこういい部分もあるんですね。個人的には、源氏物語論など、宣長はかなり、いいことも言ってると思うんですけどね。
徂徠の場合、その朱子学批判は、先王の道、五経の評価に向かう。つまり、孔子をとび越えて、さらに太古の昔の王たちの善政に。しかし、それは、宣長ではどうなるか。つまりそれが、古事記の発見となるわけです。
太古の中国というと、白川静の漢字学が思い出されますね。それについて、前に、これは、トンデモじゃないかというエッセイを紹介しましたが、古事記も多少事情は似ている。なぜなら、それ以前に、「日本の書物」はない、とされていますから。つまり、これ以上昔には、さかのぼれないとされているわけです。
しかし、そこには決定的な違いがある。それは、古事記が作られたときには、その周辺で、中国、朝鮮半島という、かなり進んだ、文字文化が、すでに大量に存在した、ということです。つまり、この状況で、「最初」ということには、根本的な欺瞞がある。
宣長は『古事記伝』という大著を書きました。しかし、これは妙な書き方をされている。

宣長の解読作業のプロセスからすれば、まず眼前に「天地」という漢字表記の語句があり、それをどう訓むかという傍証的資料などによる究明過程があり、そして「アメツチ」という訓みが提示されるという順序をたどるはずである。事実宣長のおこなった注釈過程もそうであった。ところが『古事記伝』の注釈文の記述はこの過程を転倒させている。すなわち、まず存在するのは固有言語「アメツチ」であり、それを表記するために漢字「天地」が当てられたといっているのである。これは宣長の注釈が、彼が推定する『古事記』成立過程の再現という形をとるからである。

日本ナショナリズムの解読

日本ナショナリズムの解読

宣長は、古事記に、「古代の日本語(の発音)」が保存されている、という仮定を置きます。古事記伝は、すべて、この仮定が正しいことが前提とされて書かれています。そのことを理解していないと、なにを言っているのか分からない、ということです。
確かに、宣長のこの仕事は、かなりのレベルのものでしょう。実際、かなりの部分がおもしろくも思う。しかし、彼の、「やったこと」は彼の「言っていること」でしょうか。

宣長はしかし『古事記』テキストの成立に先立つ事前の古語「やまとことば」を訓み出そうとし、事実それを訓み出したと信じた。宣長が「古訓」だという事前の古語とは、むしろ事後的に訓み出され、あえていえば創り出された「やまとことば」だというべきものなのである。事実、「古訓古事記」は平安朝的な、宣長自身が推奨する雅な文章からなるものである。

日本ナショナリズムの解読

日本ナショナリズムの解読

宣長のやったことは、文献学的には大変興味深いが、しょせん、平安朝的訓読み文への「翻訳」なのだ。それだけなのだ。次の記述が興味深い。

漢文訓読とは、仏教・儒教経典を主とした漢籍の受容過程でなされていった漢文解釈としての日本語化した読み、すなわち訓み(和訓)の方法として発達し、様式化されていった読法である。国語学者吉澤義則が成立期における訓読のあり方を、「平安期に於ける漢文の訓読は即ち今の解釈であり、講義である。我々は今日英語を学ぶに当って先づ音読する。次に解釈する。平安期に於ける漢学は丁度それと同じ順序に於て行はれた筈である。先づ漢字を音読した。それから解釈した。解釈は申すまでもなく漢文を日本語に直すことである。かうして日本語に直されたものが訓読であって、それを漢字の字傍に記入したものが訓点であった。訓読は解釈であり、訓点は或る様式によって漢字の字傍に加へられた解釈であった」と分かりやすく解説している。

漢字論

漢字論

古事記より古い日本の文献は存在しない。よって、文献学的なアプローチでは、それ以上さかのぼれない。
しかし、白川静の場合は、「本当に」さかのぼれないのだ。そのため、彼なりの方法論によって、研究する。そして、その内容は海外を含め大きな反響を残す。
しかし、宣長のケースは、それとは根本なところで違う。

ところで7世紀後期における日本の国家建設を方向付けたのは、663年の白村江における唐・新羅連合軍との戦いによる敗北であった。多数の百済の亡命者とともに日本の軍勢は敗退した。その時から、日本は朝鮮半島との間に境界を設け、防備体制を敷くとともに国家の体制的な整備を急ぐことになるのである。672年に壬申の乱に勝利して天武が即位し、飛鳥浄御原宮に遷都して国家建設を本格化させる。天武は浄御原令の編纂を命ずるとともに、「帝紀」と「上古の諸事(旧辞)」とを記す歴史編纂作業の開始を指示するのである。この勅命にしたがってやがて『古事記』と『日本書紀』とが成立するのである。この仕事を通じて、「大王の権威とその首長たちに対する支配は、神々の時代から約束されたことであるとする神話、それを実現するために戦った大王の祖先たちの物語が、はじめてここに最終的に形を与えられることになった」と網野善彦はいっている。なお天武の没後、689年に即位前の持統天皇によって浄御原令は施行された。この令によってはじめて「倭」にかわる国号「日本」が、「大王」に代わる称号「天皇」が定められた。

日本ナショナリズムの解読

日本ナショナリズムの解読

これが、古事記がつくられた時代背景である。
江戸時代の学者、藤貞幹の『衝口発』という論文がある。有名な上田秋成宣長との論争のきっかけになったものであるが、この内容に衝撃を受けた宣長は、『鉗狂人』を書いて、一方的な糾弾を行う。
余談で脇道にそれさせてもらいますが、鉗狂人とは、「狂人に首枷をする」という意味だそうだ。こんな恐しいタイトルの本を書くところにも、宣長はやはり単なる学者じゃないですね。ミッシェル・フーコーの監獄の議論を思い出さなくもない。
また余談ですけど、宮台さんが、今の少年たちを(勝手に自分が理解できないからと)「脱社会的」とレッテルをはり、糾弾して、最近の危機管理、セキュリティの言説と平行させて、なんらかの少年たちの「管理」を叫ぶ姿にも、同じくらいの平行した怖さを、私は感じるんですけどね。どうでしょうか。
さて、衝口発の内容であるが、

日鮮同祖論 (1929年)

日鮮同祖論 (1929年)

に通じる内容であるのだが、以下の衝撃的な推測が書かれている。

本邦の言語、音訓ともに異邦より移り来れる者也。和訓には種々の説あれども、十に八九は上古の韓音・韓語、或は西土の音の転ずる也。......秦人の言語、韓に一変し、又此の邦に一変し、今此を求むるに、和訓に混じて分別しがたし。(藤貞幹『衝口発』)

方法としての江戸―日本思想史と批判的視座

方法としての江戸―日本思想史と批判的視座

日本語とハングルは、あまりにも似すぎている。文法がそうだし、訓読みは日本古来だとか言うが、これこそ、古代朝鮮語なのではないか(よく分からないが、古事記は、古代朝鮮語で「読め」るんじゃないのか)。これだけ似ているわけですから、ある種の、日本語・ハングル文化圏が、この地域にあったと考える方が普通じゃないですかね。
日韓W杯のとき、天皇が、百済の王女を嫁として迎えていることにふれて、浅からぬ縁を感じている、みたいな発言をされて、衝撃的なインパクトを与えた後、タブーのように誰もこの発言にふれなくなりましたよね。
少なくとも、日本は求めていないのに、世界の国々は、勝手にW杯を日韓共催にしたわけですが、むしろ、世界の人たちの方が、日本と朝鮮の「近さ」をよく分かっていたってことなんでしょうね。
天武天皇が日本の歴史において、王朝交代くらいの意味の存在であるということを前にも書いた記憶がありますが、彼が、百済の人なのかは分かりませんが、少なくとも、彼をとりかこむ人の中に、多くの百済からの亡命者がいたでしょう。また、そうでなければ、古事記日本書紀のようなものも、作れなかったはずです。
では、その当時、当時の古代朝鮮語とは別に、文字のなかった「日本」で話されていた言葉というものについて、古事記から考えることに意味はあるのだろうか。
風土記というものがありますが、あれは、完全に、中国が国史をつくるときの真似をしているわけですね。だから、それぞれのお国から、自分ところのお国に伝わる伝説などを朝廷に献上させるわけです。たとえば、出雲国風土記などから考えさせる出雲神話記紀との関係は、少なくないでしょう。少なくとも言えることは、上記のように、百済亡命者の文官たちが作った古事記でも、こういった形では、日本の各国のなにかが残っていることは言えるのでしょう。
さて、宣長は、批判にもならない批判を重ねたあげくに、以下の発言をする。

ひたすら強て皇国をいやしめおとすを眼高しと心得たるは、返りて眼も心も卑しくて、漢籍におぼれ惑へるゆゑ也。今一層眼を高くして見よ。その非をさとるべし。わが古学の眼を以て見れば、外国はすべて天竺も漢国も三韓も其余の国々も、みな少名毘古那神の何事をも始め給へる物とこそ思わるれ。されば漢国にてことごとしくいふなる伏羲・神農・黄帝・堯舜なども、その本はみな此神よりぞ出でつらむ。(本居宣長『鉗狂人』)

日本ナショナリズムの解読

日本ナショナリズムの解読

先程、「古代の日本語の発音」ということを言いました。私が、宣長が学者として、不純だと思うのは、太古の日本の姿(日本語の発音)が古事記にあると言ってることです。結局、これは、文献学の弱点なんですが、はるか昔の文献のない時代を、安易に仮定するわけですね。しかし、古事記は、単純に、その書物が作られた「時期」の記録なのです。そこから過去にさかのぼるのは、それはそれで、別の科学的アプローチが必要なはずです。
さて、宣長は、この上田秋成にまで続く論争に勝ったと思って死んでいったのでしょうかね(きっとそうなんだろうな、というのが、まず、間違いないだけに、憂鬱ですが)。

本居宣長とは誰か (平凡社新書)

本居宣長とは誰か (平凡社新書)