強烈なイメージの奔流

たとえば、「FATE/STAY NIGHT」や、一連の Key 作品のような、RPG、が、なぜ、一世を風靡したのだろう。そこには、間違いなく、ある、
ローカルな視座
が関係しているように思える。RPGの特徴は、「神の視点」でない、というところにある。自分が、そのヴァーチャルリアリティ内の、「誰」なのかが、明確になった後は、このゲームのプレイヤーである、自分とは、そいつの「視座」からしか、セカイを眺められなくなる。
つまり、その自分が選んだキャラとプレイヤーである自分とに、1対1、の対応が設定される。
自分が自分の視点からしか、世界を眺められないように、このゲームでは、その自分の選んだキャラが、「自分になる」。
こういった、仮想現実に、エンターテイメント性を盛り込むことが、こういったゲームの娯楽性として、支持されてきた。
しかし、こういったものを実際にプレイしてみて感じることは、その、
あまりにもローカルゆえの「狂熱」ではないだろうか。
これについては、上記で例としてあげた、RPGもそうなのだが、むし、その「テレビアニメ」版の特徴にこそ、そういったものではない、一般のアニメとの「違い」として、際立って挙げれるように思われる。
アニメ「FATE/STAY NIGHT」を見て、一体、なにに「衝撃」を受けるか、というと、この、毎回毎回描かれる、
朝ご飯風景
である。
実に、典型的なまでの、日本家屋の、おうちの畳の一室で、けっこう大きめの、テーブルのまわりに、一同が介し、朝食を取る。
主人公の、衛宮士郎(えみやしろう)。そして、幼馴染の、間桐桜(まとうさくら)、が多くは食事を作り、彼女の側に、炊飯器があり、おかわりを求めるお碗に、次々と、御飯をよそっていく。
そして、なんだかよく分かんないけど、教師の、藤村大河(ふじむらたいが)、が、毎日のように、ここで御飯を食べる。
そして、士郎の、サーバントである、セイバー、が(日本人じゃないはずなんけど)正座が似合っていて、「よく食べる」(何度も、おかわり、したり)。
(彼女は、士郎のサーバントとして、一緒に、同じ屋根の下で暮すわけだが、襖を閉めた畳の部屋で、布団を敷いて、寝るわけで、その「布団がある」姿が、あまりにも、私たちが毎日行っていた、姿を既視させるのだ。)
そしてさらに、イリヤ、も居候するようになり、たまに、遠坂凛(とおさかりん)、も泊まりにきて、一緒に食事を取る。
私が言いたかったのは、この「風景」の強烈な既視感、である。私たち日本人の多くは、こういった
日本家屋
の中で、ほんとうに、気が遠くなるような回数、
朝ご飯
を食べてきた。父親、母親、そして、兄弟。
ほんとに、毎日、毎日...。
私が言う「作法」とは、こういうものを言っている。大事なことは、こういった、振る舞いが、まったく論理的に人間が生きるために必須な所作、といったもので「ない」ことである。つまり、ただ食事をとるだけなら、別に、親と顔を合わせる必要などないのだ。しかし、
みんな
で食事をとる。このことの意味を考えなければならない。もちろん、効率を考えたら、この方がベターということはあるのだろうが、大事なことは、これが「協調」行動、であり、共同行動になっている、ということである。
そして、それ以上に重要なことは、これを「毎日」行っている、ということである。
私たちは、この、「FATE/STAY NIGHT」の、朝食風景をみると、
膨大な、どこまでも、あふれ出てくる、イメージの奔流
を抑えることができない。一体、私たちはどれだけの回数、こういった「みんな」での朝食を行ってきたであろうか。あの場面では、こんなことを話すもんだったな、といった、
数限りないロールプレイ
が、次々と、私たち自身を包み、私たちを、どこまでも「興奮」させるのだ...。
同じようなことは、Key 作品にも言えるであろう。私がプレイしてみた、「Kanon」も同様の印象が強く残る作品と感じた。
主人公の、相沢祐一(あいざわゆういち)は、水瀬家に居候することになるのだが、母子家庭の、幼馴染の、名雪(なゆき)と、彼女の母親の、秋子(あきこ)さんと、3人で、高校に行く前の、朝ご飯の風景が「毎日」、必ず、描かれる。
そして、この3人の生活の中に、ある日から、記憶喪失で、行くあてのない、という、
沢渡真琴(さわたりまこと)
が、居候を始めることによって、4人の朝食風景となるわけであるが、この、

から、ある日から、「一緒に暮すようになる」という、その、家庭生活イメージが、
リアル以上に「リアル」
なのである。なぜなら、私たちは、ほんとうに数えきれないくらいの、こういった生活を繰り返してきて、もう、こういったイメージなら、「抑えようとしても無理なくらい」に、勝手に頭から、次から次へと、湧き上がってくるからである。
もちろん、いつものメンバーのいつもの朝食は、マンネリを通りこしてのマンネリであるわけで(あまりに、突き抜けすぎると、なんとも言えない境地になる、というのが今回の私の主張だが)、ある日、「家族が増える」ことになる、という、この、なんとも言えない、
沢渡真琴(さわたりまこと)編
の印象は、あまりにも、強烈すぎるくらいに強烈に、「新鮮」なのだ。
同じようなことは、「Air」にも言えるだろう。
神尾観鈴(かみおみすず)と、義理の母親だった、晴子(はるこ)、との二人暮しだったところに、人形使いで、各地をわたり歩いていた、国崎往人(くにさきゆきと)が、居候をするのだが、この、
小さな、ちゃぶ台
の回りに、3人で座っている姿には、強烈な既視感情が沸き上がってくる。私も小さい頃は、小さな貸家で、親や兄弟と小さなテーブルの回りに、座って、朝ご飯、昼御飯、夕飯をとり、みんなでテレビを見ていたわけだから。
こういったことを考えるとき、少し前に、中森明夫さんが、近年の「視聴率」をとっているドラマが、多くの場合、「学園もの」であることを指摘していたことを思い出す。
つまり、学校というころに、行ったことがない、という日本人は「ほとんど」いないわけである。特に、日本語は漢字の学習の難しさもあり(ここは、日本と中国は非常に「似ている」はずなのだ。つまり、日本と中国における学校の役割は、その他の国と異なっていて、強烈に「共感」しあえるはずなのだ)、ほぼ間違いなく、学校に行き、教室の、机に
ほぼ毎日
坐る。この、
膨大な数にのぼる、
体験の「ぶ厚さ」を考える必要がある。
つまり、「学校」というロールプレイは、あまりに、その「経験」が、ぶ厚すぎて、どんな内容のドラマだろうと、
鉄板
にしてしまうくらいの、ネタ、になっているということなのだろう...。