レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』

今回の災害の特徴は、やはり、阪神淡路大震災と比較されなければならないだろう。今週の videonews.com での話にもあったが、比較的被害をまぬがれた地域の人たちが、次々とボランティアでかけつけたのが、阪神淡路大震災であったが、今回は、原発の問題が大きく、またガソリンの買い占めなどもあって(東京でさえ、そうですから)、燃料確保の不安があり、一般の人たちが、簡単に、近づけない状況が続いてきたことであろう。それでも、NGOを中心に動き始めていることは間違いないのだが...。
あと、インターネットの評価がある。これについては、たしかに現場では、電源が取れなくなり、なかなか使えない環境も厳然としてあることは事実だが、むしろ、被災地以外からの、身元確認で、大きな威力を発揮したことは、間違いないのではないか。
そして、今回はっきりしたことは、間違いなく、インターネットのインフラがかなり、強力だったことではないか。電話がなかなか繋がらなくても、メールは結構簡単に送れたりした。インターネットのインフラは、非常に単純な「ネット」のアイデアで構成されていて、いくらでも、一部のインフラの故障があっても「繋がる」。これは、逆に言えば、セキュリティに弱いということでもあるのだが、今回、こういった災害には、強かった。
あとは、間違いなく、津波だ。死者の9割が、津波を原因としたものだったということだったが、この避難の失敗の状況は、あきらかに、津波警報から逃げる「場所」、その、「深刻度」「緊急度」の判断を間違っている可能性がある。神保さんが、ある深刻な被害を受けた村の津波警報で「3メートル以上のおそれがある」と、アナウンスされてた、という話をしていた。実際は、15メートルはあったのではないか、と推測していたが、たしかに「3メートル以上」。間違ってはいない。しかし、これ限りなく、間違いでしょう? 3メートルって聞いたら、だれだって、「いつもくらい」と思うだろう。
NHKスペシャルでは、冬の海をたゆたい、命からがら避難できた人のかなりが、低体温症で苦しんでいる姿が報道されていた。
(いずれにしろ、今後、多くの「現場」で被災された方々からの、「発信」が始まるであろう。そして、いろいろなことが分かってくるはずである。)
しかし、ここで私が考えたいことは、そういった被害の悲惨さ、についてではない。
逆である。
むしろ、被害が悲惨であればあるほど、ある種の、
ユートピア
が実現することの意味について、である。

あなたは誰ですか? わたしは誰でしょう? 危機的な状況においては、それは生死を分ける問題だ。ハリケーンカトリーナのケースでは、メキシコ湾岸のあらゆるところで、身内や隣人だけでなく、見知らぬ人までが被災者に救いの手を差し伸べた。さらに周辺地域はもとより、はるかテキサス州からも、ボートのオーナーたちが艦隊を組んでニューオリンズに繰り出し、水上に取り残された人々を安全な場所に避難させたおかげで、何千名もの住民が助かった。

なぜ、著者が「あなたは誰ですか? わたしは誰でしょう?」と、本のしょっぱなから問いかけているのか。それは、普通の日常を考えてみればいい。普通に暮らしている時は、
功利主義
的に、なにに関心をもつべきか、は自明である。家族であり、自分にそもそも親しい人たちであり、自分が所属しているコミュニティである。彼らのことに関心をもっているだけで、ほとんど毎日が過ぎていく。
ところが、災害時において、この「自明性」は大きく揺さぶられる。まず、自分が所属しているコミュニティが崩壊する。多くのそれを構成していた人々が亡くなり、このコミュニティの
自明性
が失われる。また、家族や友達にしても、人によっては、亡くなられるケースも生まれる。

  • 自分は誰なのか。
  • あなたは誰なのか。

こういったものが、家族や親友やコミュニティの、危機に直面し、少しも「自明」でなくなってくる。自分が誰で、あなたが誰なのか。この自明性がガラガラと揺れるとき、人々はどうなるのだろう? きっと、
新たなコミュニティ
を眼前に見出そうとするのだ。つまり、
発見
するのである。
人々を。

地元新聞によるち「中年女性、小太りの美人」のミセス・アンナ・アメリア・ホルスハウザーは、サクラメントストリートにある自宅の寝室で揺れによりベッドから投げ出され、床の上で目覚めた。

公園の三日目に、彼女は毛布とカーペットとシーツを縫い合わせてテントを作った。それは子供一三人を含む二二人に、雨露をしのぐシェルターを提供した。彼女はさらに飲み物用に空き缶を一つと食べ物用にパイ皿一枚で、小さなスープキッチンを始めた。まだ建っている家々の多くにガス漏れがあり、煙突や送気管も壊れたために室内での火の使用は禁じられていたので、町中の壊れた建物から調理用コンロを引っぱり出されていた。または瓦礫で原始的なコンロを作り、人々は誰のためというのではなく、みんなのために調理をしはじめていた。ホルスハウザーのリーダーシップは特別だとしても、そういった状況下ではその気前の良さは典型的だ。
彼女はさらに、湾の向かいにあるオークランドで食器を買うための資金を募った。スープキッチンはどんどん大きくなり、まもなく一日に二〜三〇〇人の食事を提供するまでになった。災害の被害者ではなく勝者として、人気のある社交場のマダムになった彼女、”兄弟姉妹の番人”だったのだ。オークランドからの訪問者が彼女の仮設スープキッチンをいたく気に入り、<パレスホテル>の看板を出した。今回の大火で焼け落ちたが、一度は世界最大を誇った。ダウンタウンの豪華ホテルの名だ。キャンプや道路脇のシェルターでは、ユーモラスな看板がよく見受けられた。すぐ近くのオークストリートでも、数人の女性が<オイスター・ローフ>と<シャ・ノワール>を営んでいた。華麗な草書体の看板を掲げた掘っ建て小屋だ。ジェファーソンスクエアの掘っ建て小屋では、<ハウス・オブ・マース(陽気な家)>の看板に、「スチーム暖房とエレベーター付きの部屋貸します」と書き加えられていた。また別の道路脇の小さな小屋<ホフマンズカフェ>の横には「元気出せよ、一杯おごるから......入って、静かな夜を過ごそうぜ」とあった。<キャンプ・ネセシティ>という名の小屋のドアにチョークで書かれたメニューには「ノミの生目玉九八セント、鰻のピクルス、釘のフライ一三セント、蟹の舌のシチュー......」とあり、最後は「雨水のフリッター雨傘ソース添え九・一〇セント」で締めくくられていた。おそらく最も風刺のきいた店名は<アペタイト・キラリー(食欲の殺し屋)>で、一番有名になった宣伝文句は「食べて、飲んで、浮かれよう。明日はオークランドに行く羽目になるかもしないから」だっただろう。すでに多くの人々がオークランドや、親切にも避難民を受け入れてくれるバークレーに移っていたし、無料の列車がもっと遠くの町までも避難民を運んでいたからだ。
この地震では約三千人が命を落とし、少なくとも住民の半数が住む家を失い、家族は離散し、商業地区はくすぶり続ける灰の山になった。新聞の印刷が始まるやいなや、行方不明者の名前や、移動させられた避難民や散り散りになった家族の新住所の長いリストが掲載された。そんな状況にもかかわらず、いや、きっとそれだからこそ、人々は冷静かつ陽気に、感謝の気持ちと寛容さをもって地震を生き抜いていた。
エドウィン・エマーソンの回想によると、「家を失った人々のテントや、ドアやシャッターや屋根材で間に合わせに造った変てこな仮設キッチンが町のあらゆるところに出現すると、陽気な気分が広がった。月に照らされたあの長い夜には、ギターやマンドリンの爪弾きがどのテントからか漂ってきた。緑石で造ったグロテスクなキッチンの並びを通り過ぎていると、その暗い片隅に、まるで愛の小部屋ででもあるかのように逃げ込んだ恋人たちのささやき声に気づくこともあった。壁やテントのフラップにおどけた表示や落書きが現れ始めたのは、そのころだ。間もなくそれは、復興しつつあるサンフランシスコの見慣れた光景になった。結婚許可証を扱う職員は大わらわで、一九〇六年の四月と五月に彼らが徴収した手数料は、過去のどの年の同月の額よりもはるかに上回っていたそうだ」。

ホルスハウザーのスープキッチンの隣に、ネバダ州トノバという炭鉱ブームに沸く町からやっ来た支援チームが到着し、荷馬車に山盛りの支援品をテント裏に運び始めた。彼らはにわか作りのコック兼ホステスと大変気が合い、彼女にゲスト名簿をプレゼントした。その題辞の一部には、「彼女が誰に対しても、そしてとりわけ通商救援委員会トノパ連盟の人々に与えた、迅速かつ博愛的で有能な奉仕に心より感謝し......彼女の善行がけっして忘れ去られないように」とある。<パレスホテル>という名は誤解を招くかもしれないと考えた彼らは、トノパにある<ミズパサロン>から取って<ミズパカフェ>と命名し直し、新しい看板を設置した。ミズパカフェの名をはさんで、装飾的な文字で上には「ほんの少しの人情が全世界を親戚にする」、下には「一九〇六年四月二三日設立」と書かれている。

この、一九〇六年四月一八日のサンフランシスコ地震での、「ユートピア」の記録は、多くのことを考えさせられる。
災害時において、人々が選択する戦略は、間違いなく「友好戦略」が一番強いだろう。なぜなら、それを選択しなければ、死んでしまうからだ。この、あまりにも不確実な状況で、自分で自分の身を守れない。だったら、
みんなで助け合おう。
多くの人が死んでいる状況で人々は、自然によって、
背水の陣
をしかされる。しかし、気付いてみれば、それは、あらゆる日常の考え事からの「解放」でもあったわけだ。
また、災害時において、人々は、どこか「陽気」になる。平気で知らない人に、軽口のジョークを言う。日常において、日々考え続けていたルーティーンが「なくなり」、比較的、余裕が思考活動に生まれた、とも言えるだろうか。また、こういったジョークは、どこか、
新しいコミュニティ(仲間)
に呼びかけるように、友好的(他者攻撃的でない)でさえある。
こういった光景を眺めたとき、人はどこか「普遍的な」なにかが存在すると「言っていいんじゃないか」という感覚を持つのかもしれない。そして、そういった感覚が、カント哲学の底流にあるのかもしれない(地震国日本で、一番受け入れられたのが、カントだったというのも、そういうところにあるのかもしれない)。

イギリス保守党マーガレット・サッチャー元首相は「他に選択肢はない」とよく言っていたが、選択肢は必ずあり、それは、たゆまぬ努力でそれを育んだ場所だけでなく、最も意外な場所にも現れる。世界を変えるには、自分自身の救済を想像すればいいのであり、ユートピアに向かおうとする衝動は寛容なので、たとえ方向が誤っていたとしても、自分自身だけでなく他の人々をも救済する。そして、一種のユートピアは今もアルゼンチンに、メキシコに、インドに、アメリカに、ヨーロッパの無数の社会的経済的な実験や農業の新しい取り組みに出現している。ユートピアの地図は、今日、いろいろな名前のもとに散らばっていて、まさしくその理念は拡大しつつある。その中に、もうほんの少し災害時のコミュニティを含める寛大さが求められる。その驚くべき社会は、ちょうど停電のあとに多くの機器がもとのセッティングにリセットされるように、災害のあとには、人間も利他的で、共同体主義で、臨機の才があり、想像力に富み、どうすればいいかを知っている何かにリセットされることを示唆している。パラダイスの可能性は、ちょうど初期設定のように、すでにわたしたちの中にあるのだ。
社会的ユートピアの最も基本的な二つのゴールは、貧困(飢餓、無教育、ホームレス)の除去と、疎外された人や孤立した人のいない社会の構築にある。この基準からいえば、ホルスハウザーの無料の食事と温かい社交的な雰囲気は、ごく小さなスケールではあるが、この両方を達成した。そして、ミズパカフェと同様の施設は、破壊された町のあらゆるところに出現していた。

私たちは、ここ、東日本に、第二、第三、...。無数の「ミズパカフェ」を生み出したいのだ。彼らにこの、冷えきった冬の寒さの中、こごえきった体を、スープで温めたい。だって、できるのだから。こうやって、過去に、サンフランシスコで生まれたのなら、どうして、今、この日本で生まれないことがあろう。一度あったことは、二度あるし、二度あったことは、三度ある...。
しかし、こういった、ある種の、災害ユートピアは、この悲惨な事態がもたらした産物であることを忘れてはならない。
多くの人が亡くなった。
その事実が、自らを支える根底の問い直しを迫るのであろう...。