ヨアヒム・ラートカウ『自然と権力』

(掲題の本はまだ、前半しか読んでませんが、いったん、まとめます。)
柄谷さんの『<世界史>の構造』は、人と人の関係を「交換」というアイデアによって整理していくことで、世界史を再解釈するような仕事であった。この仕事は、どこか、ヘーゲル歴史学を思わせるような(もちろん、その先のマルクスを頭に思い描いた)、なんというか、「理念」の世界史のようなものになっている。
そういう視点から考えたとき、ウォーラーステインブローデルの仕事は、地球上の人間の全ての営みを通時的に捉えようとしたものであって、こういった歴史学でありシステム論の仕事に影響を受けたものであったことは間違いない。
しかし、そのように考えていくと、どうしても、その認識は、

  • 自然環境と人間の相互作用

を、過去からの通時的な視点から、「理解」していかないと、どうしようもないんじゃないのか、という印象を受けてしまう。
たしかに、柄谷さんの『<世界史>の構造』は、ヘーゲル的な意味での、人倫の体系(いわば、文系的体系)としては、ほとんど、十全に記述できているように思えなくもない。人間が狩猟採集生活から、農耕生活を始め、大河流域で、一大文明を構築していき、今日まで続いている、

  • 人と人の「間」に「交換」されている「なにか」

の記述としては。そして、人間が生きていく場合、多くのケースにおいては、それで十分なわけだ。人間が生きるには、

  • 人間を支配

すればいい。それが、自分が困ったら、「他の人に助けてもらえばいい」。これで、人間社会の問題の大抵は解決する。言わば、これが

  • 魔術

です。他者支配こそが、「人文的秩序」の全てと言っていい。実際に、ヘーゲル弁証法は、この問題に、全てを集約している(このように考えるなら、あらゆる問題を「人文的に」統合していった先に、「精神(ガイスト)」の自己運動として、人文的歴史を考えることだって、それなりに可能なのかもしれない。
(そのように考えてみれば、確かに、各国の憲法には、こういった人文的な関係についてしか、書いていない。)
ヘーゲルは、この「秩序」を、

  • 対立の緊張を「時間」の中に「投げ入れる」

形で、解消しようとした。つまり、ある対立する関係(=二元論)は、それぞれがその二つを「反省」し「内省」することで、時間をかけて、その対立の「免疫」を人類社会の側が学習し、その「二つ」を操る能力を人々が学習していくことで、二元論を

  • 長い時間のスパンで

一元論に解消していくアイデアだといえるだろう(だから、あらゆる差異が「アウフヘーベン」された先の、「唯一」(=ガイスト)が、「理念」として、どうしても想定せざるをえない、ということなのだろう)。
ところが、である。
ここに、一つの「補助線」を引いてみよう。つまり、

  • 自然

である。つまり、人間と自然の「交換」関係は、どうなっているのだろうか。
私はこの関係を、人間と人間の関係が、

  • 可算無限(濃度)

だとするなら、人間と自然の関係は、

  • 非可算無限(濃度=実数相当濃度)

といった比喩で考えられるのではないだろうか、と仮説してみる。
私たちが都市設計を考えるとき、そこで描かれるグランドデザインとは、つまりは、人々が「見ている」空間、つまり、

  • 視覚空間「モデル」

のことである。これは、人間が暮らしていく上で、身の回りに「不都合」を感じていないレベルに、秩序化されていることを意味する。人間が「あれをやりたいな」と思ったら、その思った「こと」が、弁証法的に解決されている「都市」のことを言う。つまり、人間が見て「ちゃんとしている」と
思える
かどうか、にしか関心がない。ところが、実際の「自然」は「非可算無限」である。私たちが関心を持っていない(=見ていない)裏側では、微生物やさまざまな動植物が、さまざまに活動し、さまざまな秩序の微細な変化を続けている。もちろん、この変化が「急激」であれば、私たち人間社会にも影響を与えてくる。それで、否が応でも、人々は考えなければならなくなる。しかし、そうでない限り、少なくとも

  • 日常

において、私たちの意識に浮び上がってくることはない。つまり、ヘーゲル弁証法の上に乗ってこないのだ。
私たちが、現実社会を「これ」と言ったとき、それを二つに分けなければならない。

  • 固有名的な意味での「これ」
  • ロジック上における説明体系内で「関係」として抽出され「別名」化された「これ」

古代ギリシアの哲学者としてのソクラテスを、そのソクラテスを「固有名詞的に」その人と呼ぶ場合の、ソクラテスとは、前者になる。では、後者とはなにかというと、そもそも「その」人を指示することに、関心のない、言語空間の中の「関係」として、表現される「概念」に近くなる。
もはやそこにおいて、具体的にソクラテスという個人が実際に、だれなのかは、どうでもいいわけである。問題は、

といったような、説明の体系のようなもので、バートランド・ラッセルは、むしろ、後者だけあれば、前者は不要だと主張した(それが、柄谷さんの「探究2」での論点でしたね)。しかし、ラッセルがそう言ったということは、これは、古代ギリシアアリストテレスから、ヘーゲルを経て、現代に至る、西欧哲学の伝統的な

  • 人間中心主義

的な作法だということなんですね。
もし、後者だけあればいいというなら、話はヘーゲルのように早いわけですよね。だって、ラッセルが言うように、みんな

  • 概念

で言い換えられるのですから、あとは言語上の「操作」の問題なのですから。それらを組み替えて、みんなが「思弁的に」納得がいくように、調整できれば、一丁上がりです。もし、どんなに言葉を組み替えても、合意が生まれないなら、それは
不可能
ということですから、そんな不可能なことを言っている「無いものねだり」野郎、クレージークレーマーが悪いに決まっている、となるわけです(これが「アイロニー」です)。
しかし、ここで、いったん、

  • 哲学

を「全」否定してみませんか。こんなもの、なんの根拠もない。勝手に、アリストテレスが言い始めたから、その弟子が、口パクし続けているだけで、だからって、なんでその
信者
じゃない、一般の人にまで、説教されなきゃならないんだ、と。これが、
他者
です。ヘーゲル的な作法の特徴は、人間は、人間社会に「コミットメント」してこなかったら、人間扱いしない、というところにポイントがあるわけですね。
つまり、「人間」じゃないと、人間扱いしない、と言っているわけです。
そこでは、上記のソクラテスで言えば、「それ」を後者によって、言い換えることに、同意しない人は、人間扱いされない、というわけです。つまり、もし、その言い換えに同意しないんだったら、対案を出せ、と。しかし、そもそも、そんな言い換えができるかどうかに、なんの関心もないのが、前者の作法なのでしょう。
ヘーゲル的な作法は、人間は、「感情転移」してくるから、人間だと考える(これが、柄谷さんの「探究2」でのフロイト論の要旨でした)。否定しようが肯定しようが、そういった、「対話」によって、合意形成にコミットメントしているから、人間扱いを受ける。
これは、つまりは、ルーマン社会論的に言えば、「信頼」という「情報の縮減」にコミットメントしてこないなら、人間として扱わない(人間として扱わないことには正当性がある)、と言っているに等しい。
つまり、ヘーゲル的な作法の最大の欠点は、人間と人間社会を、二分法的に対立させ、その弁証法によって、歴史法則を記述しようとしたために、むしろ、そこに、

  • 人間がいなくなってしまった

つまり、人間ではなく、

  • 人間社会(=国家)「だけ」

が「主体」となってしまった、ということなんだと思います。
なぜ、ヘーゲル的な弁証法が、最後には、あらゆる諸矛盾が「止揚」されて、なんだかわからない「唯一」の「精神(ガイスト)」に(たとえ、理念としてであれ)なっちゃうのかは、そもそもそこに、個々の人間がいないから、ということになる。
そこにおける「目的」とは、もう、個々の人間は関係ないわけである。なんらかの、独立した、意志をもつ、人間社会(=国家)なるものが、

  • ある

と言ってしまった時点で、個々の人間を、その「自己運動」のために、どうやって利用するか、その「手段」としてしか、関心がなくなる。
そこにおいて、ヘーゲル的な作法における、個々の人間の行動作法は、「かまってちゃん」となる。他人にちやほやされていると思われていること、それが炎上マーケティング的な手法であれ、みんなに「反応」されている、ということが、「主体」であるという意味となる。嘲笑されようが絶賛されようが、そのようにして、人々に「反応=承認」されていることを、確かめることでしか、自らの主体性を実感できない。むしろ、

  • 人間社会(=国家)

という「主体」に、常に、そのようなコミットメント行為によって、そこから「主体」養分を吸い取る、ことが作法となっていく。
しかし、私たちは、反哲学を宣言したのでした。こういった、アリストテレスから連綿と続く、人間中心主義という名の

に対抗して、人間社会を構想するとき、一体、なにがポイントになるのか。
言うまでもない。

  • ニセ人間中心主義

に代わる、真の

を構想するしかない。では、そのポイントはなんでしょうか。
先ほど、ルーマンのシステム社会論において、ミクロのシステムに対応するのが「信頼」だと言いました。大事なことは、ここで、なぜ、その「個人」が、「情報の縮減」に成功しているのかは、その個人が自らの過去からの実践的な「判断」によって、さまざまな諸関係に「信頼」を構築してきたから、でしょう。つまりそれは、決して、外在的に与えられたものではない。つまり、なにか別のシステムがその信頼を担保したのじゃない。つまり、情報の縮減は、
客観的に
つまり、
人間社会(=国家)の側が成功しうる根拠は何もない
ということがポイントになる。たとえ、個々の個人の中に、情報の縮減を成功させた人がいようと、そのことと、
人間社会(=国家)の「情報の縮減」
には、なんの関係もないのだ。このことは、私たちの人間社会が必然的に「アナーキズム」しか、ありえないことを意味するだろう。
(そのことと、最近の反原発デモへの市民の参加は、対応している。そもそも、日本において、デモとは、ドイツと同じく、共産主義者を意味していた。しかし、冷戦の崩壊と共に、デモという行為と、そういった反米イデオロギーに同値関係はなくなる。つまり、デモとはアナーキストとしての個人が、「政治の個人化」を実現する手法だということになる。)
デモの特徴は、国家の意志に反して、自らの身体を、国家への意志表示のために使うというところにある。つまりは、

  • 主体としての国家

を認めない、ということである。ということは、どういうことか。システム論としての国家を「特権視」しない、ということである。国家といっても、多くの中間集団と同じく、一つの中間集団なのであって、そこに差異はない。より身近か、規模が大きいか、そういった差異しかない。つまり、徹底した国家の「手段」化、ということになる。
国家を一貫して「手段」と考えるということ、主体と考えないということは、あくまで、そこには、個々の個人がいる、と考えることである。つまり、どういうことか。
国家を一つの「統一体」と考えることは、実は、国家を一人の意志の表象と考えていることを意味する。では、そこに複数性を導入するとは、どういうことか。
つまり、そこには、
複数の意志「だけ」がある
と考えるのである。みんなが勝手に意見を言っているのであって、それがなにか「統一」した見解でなければならない、という前提を棄てるのだ。そこには、勝手に生きて勝手に、いろいろなことを考えている「個人」がいるだけであって、彼らはその自らのオートノミーによって、行動する。つまり、
デモ
をする。つまり、ここで大事なことは、自分の自らの中から生まれた衝動「だけ」で、デモ行動をしているということで、それが、主体としての国家が自らの存続のために、個人の身体を使ったということとは、まったく関係ないことである。
個人は国家との弁証法的運動を拒否する、ということは、個人が国家への「コミットメント」を拒否するということを意味する。それは、個人が感情的に好きとか嫌いといった反応をすることではない。それは、むしろ、
無関心
と同値なのだ。個人はそもそも、国家を主体として認めないのだから、国家になんの感情もない。つまり、そういった「共通化(=哲学化)」を受け入れない。個人は、たんに、自分の中の「信頼」を生きる。そこで起きるのは、たんに、別の個人との
共振
である。つまり、それだけがあると考えるのだ。
個人は国家にコミットメントしてこない。そうではなくて、個人は自らを表現している。それ「だけ」がある。そこにあるのは、徹底した、個人の国家への「無関心」である。
大事なことは、「その」人個人の生活だけであり、「その」人が関わる人たちとのその人にとっての諸関係であって、なにかそれ以上の「価値」が「ある」というアイデアを認めない。「その」人は自らの内面から沸き上がってくる、不快な感情を、たんに、「不快だ」と発散する。それが、
デモ
である。言ってみれば、デモとは、

  • 個人の自然化

なのだ。ここで重要なポイントは、
自然
である。なぜ、こういった視点が重要か。それは、環境学が人間以外の諸関係を含んだ

  • 交換

を考えるとき、人間間の「哲学的=民主主義的」合意形成には、普遍性がない、普遍的に適用できない、という認識があるからではないか。
では、こういった考察を、改めて、掲題の著者による、環境の「人間史学」から考えてみよう。
現代における、資本主義社会において、あらゆるものは、人間の「権利」と「義務」によって、デカルト的に「分類」されている。
それは、環境についても同じであり、その「自然」が「そう」あるのは、人間が自らの「権利」によって、「そうしている」のであって、その関係においては、それ以上もそれ以下もない。

今日、私たちが世界の多くの地域で直面しているのは、いかなる配慮もなしに荒れ狂う私的経済活動の利己主義による破壊的な諸帰結である。だが、こうした現状によって、保証された所有権と相続権が、歴史上しばしば土壌とそこにある果樹の保護を促進してきたという事実への目差しが曇らされてはならないだろう。東南アジアの状況を分析した二人の自然保護論者は、次のように結論している。「環境問題はその確信において非常に単純である。すなわち、地元住民が自分たちの資源を管理する権限を持たず、他所者を遠ざけることのできないところでは、どこでも環境が悪化するのである」。

ある環境の破壊とは、その環境を破壊しようと、外からやって来る人の「行為」のことである。なぜ、そう言えるのか。なぜなら、その土地で生きてきた人たちにとって、その土地を破壊する行為とは、自分たちの
永続可能性
を危ぶむ行為だからだ。長く続いてきた自分たちを「止める」から、破壊するのだから。しかし、外からやって来る人にとって、そういった慣習は、そもそも内面化されていない。
中国人たちが、日本にやって来て、日本の水源の土地を、次々と買いあさっているのは、そもそも、日本の土地など、いくら壊しても、自国の中国人が必要としている水が売れれば、あとは、なんでもいいわけだ。日本がどうなろうが知ったことじゃない。だって、彼らが日本に住む必然性もないわけだから(つまり、これが、植民地主義だ)。
ある環境が保存されなければならないか、そうでないかは、少しも自明ではない。それは、「その人」の価値観でしかない。その土地を破壊して、お金儲けができれば、少なくとも、そうやってお金を儲けた人は裕福な生活ができる。だったら、その人にとっては、「幸せ」なんじゃねえの、とは言えないこともない。
このことは、逆も言える。つまり、これは「人間」そのものも、同じなのだ。

「ゼロ成長」の世界、つまり節約し永遠に廃物を利用し続ける世界が、ほとんどの場合、「自然との調和」という決まり文句が暗示するような親しみの持てる世界でなかったことに疑いはない。それは、多くの人々が子供の高い死亡率をある種の平静さをもって受け入れていた世界であった。それというのも、ほとんど増える余地のない食料をめぐって、争う腹っぺらしの数が少なければ少ないほど、生き残った者たちがより多くの食料にありつけるということを、当時の人々は知っていたからである。

江戸時代まで、いや、第二次大戦の敗戦まで、日本は、農村の過剰人口を、「口減らし」によって、調整してきた。それをいくら、道徳的に批難してみたところで、実際にそれによって、人々の食料事情が改善されていたのなら、そういう選択をした、ということなのだろう。

一方、再生産[生殖]行動は、ロバート・サラレスにとって、古代ギリシア史の秘密でもある。彼は生態学者たちが動物種に関して発展させたr戦略とK戦略というモデルを利用する。r戦略とは、膨大な数の----もっとたいていは短命の----子孫によって集団としての生き残りを確保する方法で、K戦略は、限られた数の、だがそのかわりに慎重に育て上げられる子孫によって、限定された食糧の余地に適応するというものである。

人間の人口が自律的なものなのか遠隔操作されているのか、またその再生産[生殖]行動においてr戦略とK戦略のいずれかにしたがっているのかは、多くの場合、はっきりしない。

ここで言っていることは、非常に重要だ。r戦略とK戦略の、どちらが「いい」のか、別に、はっきりした「結論」があるわけじゃない。どちらが、人間がこれから生きていく上で有利なのか。まったくそれを判断する、客観的なクライテリアはない。私たちが、これか未来を生きていく上で、実践的に選択するしかない。
環境問題というのは、こういったような関係が非常に多い。ある問題があったときに、じゃあ、どうすればいいのか、その答えが、どう考えても、よく分からない。つまり、ミクロ理論においては、いくらでも言えても、じゃあ、マクロにおける、長期的、短期的影響はどうなのかが、まったく、不確定なのだ。

環境史におけるこうした危機を孕んだ因果関係は、自然法則のように容赦なく進行するわけではない。なぜなら、多くの場合、人間は対抗戦略を立てられるからである。しかしながら、人間にとって対策の実行を非常に困難にするような出来事のパターンを構成することも可能である。第一に挙げられるのは、環境の衰退がほとんど気づかれぬまま何百年にもわたってゆっくり進行する場合である。また第二に、それとは逆の状況、すなわち、衰退が駆け足の速さで進み、様々な要因がみずから進展する悪循環へと収斂する場合にも、対応が困難になる。

どうして、こういうことになるのだろう。それは、人間と人間の「交換関係」に較べて、人間と自然との「交換関係」には、人間の側の安易な「予期」を許さない、自然の側の人間社会への
デタッチメント性
が、大きな特徴としてあるのではないだろうか。人間と人間の関係において、他方のデタッチメントは、この弁証法的過程を拒否していることを意味し、つまり、民主主義や法廷を拒否していることを意味し、つまり、そういった存在は、

をすることを、社会は「正当化」してくる。そういう意味で言えば、(哲学的)人間社会とは、自然を「精神病者」として扱っていることを、なんとか、
理論武装
するために、行われ続けてきた「作法」だと言えるだろう。
しかし、そういった「態度」はどこまで、正当性を主張できるのだろうか。というのは、往々にして、人間の「文化」の方にこそ、原因があるから、だが。

問題の核心は明らかに次の点にある。すなわち、環境問題のその都度の適切な解決戦略は、環境問題それ自体とは違って、二、三の単純な基本パターンにしたがうことが決してないのである。ここでは文化と社会が関係してくる。効果的な解決策は、問題に対する目に見える直接的反応では全然なく、文化の一構成要素であることが多いのだ。この文化的要素は、おそらく環境の強制力によって強化されてはいるものの、それによって生み出されたものではない。古代アッティカの人口過剰には、同性愛に対する一定の文化的嗜好が対応していたし、後のじだい のチベットでは、一妻多夫制と大量の未婚男性僧の存在が、狭く限定された食料供給の余地と相関していた。環境問題の解決策は、しばしば社会史や文化史のなかに隠されている。それらはそこでまず解読されねばならないのである。

この部分の大事なポイントは、人間と人間の間での「合意」が、少しも、環境の問題の解消を意味しないことだ。そういった「合理的存在」である人間たちの、合意形成が、そもそも、そういった
対話
に関与してこない存在たちの「主張」を、巻き取れていない時点で、十全ではないのだろう。
例えば、人間が自然科学の知識を駆使して、人間社会の環境を変更していくと、そこには、必然的にハイデガーの意味での「不安」が拭えない。それは、そもそもの、人間の本性が、そういった変化を「引き受け」られるようにできていないんじゃないのか、という疑問がある。

なぜ人間は、非常に有毒な一酸化炭素を五感によって知覚しないのだろうか。進化生物学者フランツ・ヴケティツによれば、理由は単純である。すなわち、「人類の歴史の大部分を占める石炭ストーブのなかった時代には、一酸化炭素が生じなかったからである」。

同じことは、原発放射性物質についても言えるだろう。原発推進派の有識者たちが、どんなに福島の放射性物質が問題であろうと、そこに住む人の権利を犯すことはできない、原発を動かす人の権利を犯すことはできない、原発を使って放射性物質を作る人の権利を犯すことはできない、と言っても、それは結局のところは、

  • 人間社会における「権利」の問題

であるにすぎず、ようするに、人間が他の人間の権利を侵害することは、人権社会においては許されない、と言っているにすぎない。つまり、これは、一見、自然科学における「トンデモ」の問題のように思えるが、そうではなく、トンデモは間違った知識であるのだから、近代合理的な価値観から受け入れられないのだから、それを理由にした、人間の権利の制限は不当だと言っているにすぎないのだ。
しかし、それは言わば、「人間の間の契約がもたらす都合」にすぎない。
つまり、人間の間で、「自分はもっと自由に生きたかった」と言っているだけのことで、じゃあ、その人間の権利が制限されたからって、この環境の破壊は回避されるわけだから、それだけのこと、とも言えるわけだ。
原発放射性物質の現代の科学による、被害の証明が不十分であることから、原発推進の正当性が担保されると考える、こういった原発推進派は、そもそも、自分がそうやって「判断」することが、未来に「責任」をとれるわけではない、ことを分かっていない。
私たちにとって、お前が正しいことを言っているのか違うのかに、まったく興味がない。お前の自尊心なんて、どうでもいい。勝手に、不快に思ってればいいんであって、大事なことは、環境問題の未来における「影響」なのだ。
そう考えるなら、各個人が分からなくて恐いと言っている「感情」に、まったく、手当てができていない時点で、原発推進派は敗北している。恐いという感情をどんなに「トンデモ」だと嘲笑しようと、そう感じる感情はリアルなのであって、それによって、脱原発することによって、一切のリスクから免れるなら、
たんにリスクがなくなる
ことを意味するだけで、勝手に人間が自分たちで、歯噛みをしていればいい。

おそらく根本的な誤りは、哲学者たちに影響されて、「自然」という言葉を概念と勘違いしてしまったところにあったのだ。それは実際には、概念ではなかった。ノルベルト・エリアスは、この言葉を「非常に高いレベルの綜合をあらわす象徴」と呼んでいる。すなわち、長期間に及ぶ集団的な経験と反省の綜合である。確かにそれは抽象である。

この指摘は非常に重要である。もし「自然」が「概念」ならば、ヘーゲル的に対象化して、手なずけていけばいい。しかし、「自然」とは「環境」であり、つまりは、
外部
のことであり、つまり、人間社会の「システム」の外部のことを言っているにすぎない。つまり、自分たちが内部化できていないものを、「自然」と指示しているにすぎないのであって、なにか、未来において、どのように振る舞えばいいのかが、確立されているようなものと考えること自体が、人間社会の傲慢さ、だと言えるだろう。

そもそも、成田の闘争と、[ドイツの国際空港である]フランクフルト空港を拡張する「西滑走路」に反対する西ドイツの闘争は、環境運動の一部だったのだろうか。なぜ、これら以外に、航空運輸の拡大や航空機用燃料の免税に対する抗議が世界中でわずかしかみられないのだろうか。航空による排気ガスが大気圏を脅かしているというのに。

環境問題に「人間の都合」は関係ない。どんなに、それが「人間の利便性」に脅威を与えることになろうが、たんに、環境問題は環境問題にすぎない。
柄谷さんの『<世界史>の構造』が、人間と人間の間の「交換」関係を、整理するものだったとするなら、私たちには、人間と自然の間の「交換」関係を、
それと「類似」した形
で見つけ出すことが、求められているのではないのか。そうしたときに、おそらく、人間以外の生物に対して、人間における「権利」や「義務」に
類似
したものとして、認められていくのではないかと考えている。それは、上記で検討したように、

を含んだような、人間にコミットメントしてこない対象を、
ハイデガー的な意味での)存在
として、そのまま、「表出=意志表示」として、理解していくようなものとして。
(この認識は、おそらく「いじめ」問題を考えるときにも、重要となってくる。イジメはヘーゲル的な弁証法では解決できない。なぜなら、コミットメントをすればするほど、そのハイコンテクトがいじめ的暴力をエスカレートさせるから。むしろ、必要なのは、
デタッチメント
なのだ。お互いがお互いに干渉しない。しかし、干渉しないお互いの間に「政治」をどのように導入できるのか、が「いじめ」問題の、それぞれの主体には、要請されているのだろう...。)
おそらく、その認識論的なキーワードが

  • デモ

なのだろう。柄谷さんはデモを古代ギリシアにおける集会と同一視して、「歩く集会」と比喩的に述べたそうだが、言ってみれば、それは「生活」ということに等しいのだろう。地球上の生物はみな、毎日、
デモ
をしていると言えなくもない。そうであるなら、彼らも「政治的存在」なのであって、むしろ、このデモの形態によって、人間とそれ以外の生物との「同等」性を考えることができる。
環境問題の特徴は、結局のところ、その影響を、「決定」できない。自然科学によっても、「推測」しかできない、というところに特徴がある。どんなに細部のミクロ的因果関係を「決定」しても、
マクロ
な動きを「決定」することはできない。どんな不確定因子が隠れているとも限らない。それは「推測」の域を出ることはできない。だれも本当の意味で、その責任をとれない。
そして、もう一つの環境問題の特徴こそが、「しょせん、人間の自由の部分的制限を受容できるかどうか」であって、人間の側がそのリスクを避ければ、それだけのことにすぎない、とも考えられる、ということである。
これは、原発も同じで、おそらく、原子力ムラの人たちであろうと、今の大飯原発のような、どう考えても、311を受けての、安全対策が、まともに行われていないような再稼働に反対することには、合意のコンセンサスは十分理解されるんではないか。
なぜなら、お金と時間をかければ、安全対策は、いくらでもやれるわけであり、原子力ムラの技術者だって、できるだけ、住民と合意できる安全策をとって、安心してもらって動かしたいに決まっているのだがら。
(こういった技術者の「祈り」を、実現させようとしない、
野田総理の国民「脅し」会見
を絶対に許すことはできない。)
果して、現代の科学技術のレベルで、(実験機を除いた)原発での発電を禁止するかどうかが、それほど合意が難しいかは、全然別の話のように思われるわけである...。

自然と権力―― 環境の世界史

自然と権力―― 環境の世界史