鶴見済『脱資本主義宣言』

完全自殺マニュアルの作者が、こういった本を書くようなことを考えてきていたというのは、ちょっと、意外な気もしたが、ある意味、これが、著者の論理的帰結だったのだろう。バランスよく、よく考えて書かれている印象を受ける...。)
利便性と浪費は、どこか鏡の裏表の関係にあるようなところがある。
たとえば、家の水道の蛇口をずっと開いていたとしよう。すると、私たちが手を洗いたいなと思ったとき、

  • 蛇口をひねる

という行為を「やらなくても」手を洗える。疲れる行為を毎回やらなくても洗えるのだから便利だ。しかし、これを「合理的」だと言う人間は、どうかしている。蛇口がずっと開いているのだから、ずっと、水が出ているのであって、いくら、水道代がかかるか分かったものじゃない。
便利だなーと思うことと、無駄なことをしてるなーと思うことは、大きな相関関係を想定できる。
しかし、中には、ものすごいお金持ちがいて、ずっと水道を出しっぱなしにしていたくらいの、水道代など、自分の財産に較べれば雀の涙だ、と。じゃあ、もう面倒だし、やっちゃわね? と。
これが、バブル以降の日本のインフラの考え方なのではないだろうか。
インフラと同じく、日本の近年になって「流行」している、変な作法が「リサイクル」だ。

ペットボトルを例にとって見よう。七七年に醤油の容器として登場したペットボトルは、八二年からは飲料容器としての使用が認められた。それでも一リットル未満の小型容器はゴミを大量に出すことがわかっていたので、業界の自主規制で使われなかった。しかし九五年に容器包装リサイクル法が制定されると、リサイクルすることを口実に自主規制が解かれ、今では五〇〇ミリリットルやそれ以下の小型ボトルが隆盛を極めている。

???
なにを言っているのだろう。なぜ、「リサイクル」をやるから、一リットル未満の小型容器まで、ペットボトルOKなの? それって、明らかに、大量ゴミですよね。
そもそも、ペットボトルは「リサイクル」なんてやってないじゃん。詰め替えて売ってないじゃん。せいぜい、溶かして、別の用途に使っているように見せかけることくらいでしょ。どっちにしろ、大量のエネルギーで、「加工」して、それって、普通、

  • ゴミ

って言うんじゃないの、そのまま、土に埋めてないだけで? なんで「一リットル未満の小型容器」が「OK」になるって論理になるの?
なんというか、「ロジックが変」でしょ?
本来なら、「それまで」以上にゴミを出さないようにして、「さらに」リサイクルしよう、って言うなら分かりますよ。そうじゃなくて、

  • リサイクルするからゴミ増やしてOK

って、どう考えても、論理破綻してるでしょう?
だいたい、リサイクルって、どういう「定義」なんだろう? なにが「サイクル」になっているんだろう? すみません、私。エントロピーの法則は知ってますが、それはどうなったんですかね。なにかがサイクルしたって、人間活動なんですから、エントロピーは増大しますよね。リサイクルによって、一切の「ゴミ」が出ないって、

  • 語義矛盾

なわけでしょう。リサイクルすれば、ゴミが出る。だったら、そのリサイクル品が増えるようなことをやっちゃあ、なんの意味もなくないですか?
ようするに、なんかが、おかしいのだ。資本主義が、この国では、あまりに、ナイーヴに受け取られすぎている。資本の側の論理を、まるで、日本中の老人たちが、次々と、オレオレ詐欺に、たらしこまれるように、

  • あんな立派な企業の人が、そんな人を騙すようなことをするわけがないでしょ。なんでも人を疑うんじゃないの(プンスカ
  • いや、それをやっちゃうのが、資本主義なんですけど...orz。

だから、普通に、水道の水を飲んだら、どーなんですかね。
だって、料理のときは、水道の水を使ってるんでしょ? 水道の水を一滴も使わずに、料理してるバカっているの? だったら、いーじゃん。水道の水で。違うのかな?
去年の夏だったろうか。東西線飯田橋駅で、ベンチに座って本を読んでいたら、小学生の女の子が、目の前を通った。なにをしているんだろうと、ちらっと見たら、ベンチの隣にあった、噴水型の水道の水を飲もうと、少し、背伸びをして、顔を近づけて、ぐびぐび飲んでいた。
確かに暑い日で、私は普通に、自販機で、冷えたお茶でも飲んでいたからだろうか、私にはその光景が、新鮮だった。そういえば、子供の頃は、こうやって、水道の水を、当たり前のように飲んでいたな、と思ったからだ。もちろん、自分が過した少年時代は、田舎であったし、もう、はるか昔なのだから、簡単に比較はできないが、しかし、状況はまったく変わっていないだろう。
子供はお金がない。しかし、こういった夏の暑い時期は、子供こそ、水分補給が非常に重要だ。なら、当たり前のように、公共水道の水を飲むんじゃないのだろうか。自分たちが小学生だった頃、普通に、グラウンドの脇にあった、水道の水を飲んでたじゃないか。
私が言いたかったのは、水は、私たちの「インフラ」にとって、電気以上に重要だということである。ところが、東京では、ほとんど、こういった公共水道の飲料水を見かけない。もちろん、トイレに行けば、手洗い所の水はあるだろうが、いずれにしろ、他では、ほとんど見かけかない。
その代わりに、やたら気になるのが、自動販売機だ。
しかし、である。こんな高価なものを小学生が買えるのか? なにかが、おかしい。
東京の道路、一キロごとくらいには、子供が口つけて飲めるような、公共水道の蛇口を作ったらいーんじゃねーの。よく考えたら、なんでそうなってないのだろう?
夏の暑いときも、タオルで汗を拭きながら、しっかり水分補給をして、歩道の脇に植えられている木の影をたどって、歩けば、意外と、しのげるものだ。
近年は、グローバル化が、かまびすしい。「フラット化する世界」という本を、以前紹介したが、あの本は、インドがアメリカの、アウトソーシングのメッカになっている、という本であった。しかし、私が読んで思ったのは、

  • 当たり前じゃねえのか

ということだった。だって、インドって、ずっと、イギリスの植民地だったのだから、みんな、英語ペラペラなんだろうから。同じ言語を話している人たちは、言わば、同じ国に住んでるのと、同じようなものだろう。
そして、「フラット化する世界」では、普通に、インド人が、サポセンの作業を、アメリカ人向けにやっていた、という紹介だったわけで、「そりゃ、やれるだろう」ということだ。
しかし、日本で「フラット化」うんぬんとか言ってる人たちって、ユニクロとか、日本の工場が、国外で生産するようになったことを「フラット化」って言うんですよね。よく分かんないのは、それのなにが新しいんですかね?

東アジア・東南アジア諸国で使われている電力は主に工業・産業向けであり、多くの国では家庭向けを凌いでいる。電気が通っていない地域もまだまだある。そしてこれらの国の工業化はもともと、日本をはじめとする「北」の国々の工場が、安い労働力を求めて進出したために起きたのだ。
つまり「北」がこれらの国に原発を輸出するのは、自分たちの工場に電気を供給するためとも言える。実際にベトナムなど東南アジアに進出した日本企業の工場では、電力不足や停電問題点に挙げるケースが目立っている。結局原発を作って儲けるのも、その電気を使うのも製造業を中心とする大企業であって、原発とは彼らのためにあるものだ。

日本の企業が、東アジアの各地で、工場を作って生産しようとする。そうすると、何が起きるか。まず、考えられるのが、
現地の電気が足りなくなる。
まあ、そうですよね。だって、工場のなかった、素朴な生活をしてらっしゃった方々の所に急に、電気をやたら食う施設が、できちゃうんですから。
じゃあ、どうしましょうか。
安定電源。
はぁ。原発ですか...orz。
ある企業が、工場を作る。大量の電気がいりますね。また、別の企業が、別の工場を作る。また、大量の電気がいりますね。
でも、普通に、今までのような現地の発電量だったら、足りませんよね。じゃあ、どうするんでしょうね。言うまでもないでしょう。現地の国に、発電所

  • 作らせる

んでしょう。というか、
日本って、それを「ずっと」やってきたんじゃないんですか? なにを今さら。

さて、日本はインドネシアとの共同事業としてスマトラ島のアサハン川に巨大なダムと水力発電所、アルミ精製工場を、七五年から八四年にかけて、四千億円以上をかけて建設した。その費用のほとんどは日本側が貸し付け、工事も日本の建設会社が請け負った。発電した電気もほとんどがアルミの精製に使われた。
さらにここへは、地元で採れるものより質のいいオーストラリア産のアルミナが運び込まれ、精製されたアルミはすべて日本に輸出されることになった。インドネシアが請け負うのは電力と工場労働と、日本への借金である。アルミの輸出で稼いだカネも、その借金の返済に使われるのだ。日本国内で公害問題を巻き起こしていた精製過程で出るフッ化水素という有毒ガスも、当然インドネシアに押しつけられた。それなのに、現地の生活にはアルミ缶やアルミサッシはもちろん、自分たちで発電した電気すら行き渡っていないのだ。
これが日本による世界最大級の政府開発援助(ODA)と言われる「アサハン・プロジェクト」であり、今ではインドナシアの副大統領から「まったくの損害だった」と非難されながらも、日本では成功例として賞讃されている。やっかいなものを海外に押しつけたうえ、利息まで取れるのだから、確かに大成功なのかもしれないが、どう見てもこれは”援助”ではない。
さらに日本はブラジルのアマゾン川にもまったく同じ”援助”として、発電用のダムと、日本などへ輸出するアルミの精製工場を作った。こうして九千億円をかけてできたのが、東京二三区がスッポリと入ってしまう世界最大級のトゥクルイ・ダムだ。

だから、これって、フラット化、関係ないですよね。グローバル化と言うのは勝手だけど、ようするに、

のことでしょう? 日本で「フラット化」とか言ってる連中って、本当に、東アジアの現地で、取材してるんですかね。現地の声を、どこまで聞いて、そういった、軽はずみな「レッテル」を貼ってるんでしょうか。
例えば、日本は恐しいまでの、農業輸入国だが、そもそも、つい最近までは、大豆だって、けっこう自給してたんでしょう? なんで、やめちゃったんですかね。

大豆は日本人にとって、コメに次ぐ重要な農作物だった。和食に欠かせない、味噌、醤油、豆腐、納豆などはどれも大豆からできているし、枝豆、豆腐、きな粉なども大豆だ。
それなのに日本の自給率は一九七〇年頃から、大体五パーセント前後で推移している。五二年には自給率六四パーセントだったが、六一年には輸入が自由化され、七二年には関税が撤廃され、国産大豆は輸入大豆に完全に敗れた。アメリカ大豆は政府の巨額の補助金によって生産費より安く(!)輸出され、国産大豆の三分の一以下の値段で流れ込んできたのだ。

私なんか、素朴に思ってしまうんですけど、日本国内の農家や企業が作った「国産」の製品を買いませんか? 多少高くたって、なるべく、国内の、極端なモノカルチャーをやっていない、なるべく、自然な生産方法で、がんばっている所を「応援」していかないと、日本「自体」が「不健康」になってしまいますよね。
確かに、道端で、喉が乾いて、近くに水道もなくて、手元に水分補給できるものがなかったら、そりゃー、自販機が売れるんでしょ。でもこれって、変じゃないですか。なんで、我慢させられて、仕方なく買わなきゃなんないの。そもそも、嗜好品って、「ぜいたく」する気分のものでしょう。我慢させられて、喉を乾かされて、売るって、ちょっと違うんじゃないですかね。これのどこが、理想社会なわけ。
資本主義社会って、こういうことが多いですよね。
つまり、利便性と浪費は、それを一度、お金に「還元」してしまうと、同一の価値尺度で比較してしまうことになる。つまり、そこに、

  • 必要

というアイデアが、完全に抜け落ちてしまう。だから、いくら電気を使おうが、電気を「無駄使い」しようが、

  • それと同じ金額の、なにかを我慢すればいい

という話にしかならないんですよね。だから、資本主義では、まったく、「無駄使い」をなくすインセンティブが働かない。
これは、逆も言えますよね。簡単に、国内生産拠点が、外国のモノカルチャー攻撃に、国内市場が占拠されて、衰退していく。だって、上記の大豆なんて、補助金攻勢ですよ。各国、そこまでやって、相手国の生産拠点を、ボロボロにしようと、

  • ハゲタカ・ファンド

よろしく、狙っている。そんなことで、いいんでしょうか。
掲題の著者は、こういった象徴として、ビタミンCに注目する。

六五〇〇万年以上も前から、我々ヒトやサルなどの霊長類は、主に熱帯地方で樹上生活を送ってきた。熱帯雨林の樹上で豊富な食べ物は木に生る果物である。果樹にとっても、実を食べて種を排泄し、広くばら撒いてくれる動物は、自分たちの繁栄のために都合がいい。そこで果樹は、動物に食べてもらいやすい果肉に、消化されない硬い殻を持った種を隠して、果実を付けるようになったのだ。こうして果樹と霊長類は、互いに恩恵を与え合いながら双方が繁栄すうという「共進化」の関係を結んだ。
そうするうちに多くの霊長類は、緑のなかから熟れた果物を見分けるために、色覚が発達したと言われている。霊長類以外の哺乳類は、色の見分けがつかない”色覚異常”なのだ。
そしてこれと引き換えに、哺乳類のなかでもヒトを含むある種の霊長類だけが別の能力を失った。豊富なビタミンCを含む果物を食べ続けるうちに、我々はどこかの時点で、ビタミンCを体内で合成するための採集酵素を作る遺伝子を欠いてしまったのだ。つまりビタミンCを体内で合成することができなくなった。ビタミンCは我々が生きるうえでなくてはならない栄養素なので、我々は今も食べものからビタミンCを摂り続けなくてはならないのだ。

こうした都市化と並行して人類は、柑橘類など果樹の大栽培地を拡大し、果物そのものや果汁ジュースなどを大量生産、大量輸送を行うようになった。
しかしビタミンCは「新鮮さ」の指標のようなもので、収穫して時間がたったり、加工したりすると、失われやすい。それなのに都市部では、取れたての果物や野菜を口にできる機会は少なく、食べ物の輸送距離も伸びる一方なのだ。

しかし少なくとも今、我々ヒトはなんと面倒なことをする生き物になったのか、と驚くには値する。ビタミンCの補給に、一体どれだけの資源や労力を費やしているのか。いい加減に、直接ミカンを枝からもぎ取って食べる方向に戻していくべきだ。

たしかに、学校の畑を果樹園にして、昼休みに、生徒たちが、実をもいで、むしゃむむしゃ食べればいいんじゃないですかね。
私は本気で思うんですね。こういった、柑橘類もそうですけど、食事などは、もっと、国が公共サービスとして(「インフラ」として)、ほぼ無料に近い形で、市民に提供していいんじゃないのか。形の悪い野菜や、賞味期限とかの関係で、棄てられる寸前のものとか、そういった国内の農家の余ったのを使ってもらって。
なんていうか、資本主義は、

  • 嗜好品

だけを対象にする、とか、はっきりすればいいんじゃないんですかね。上記の公共サービスの食費は、どうしても、量が少ないし、ワンパターンでもあるし、という人は、市場で、買えばいいんで。
「インフラ」として、PCやスマホアイパッドを配っていいじゃないですか。そういった試供品で、飽き足らない人が、市場で、より高機能のものを買う、と。
これの、なにが悪いんですかね...orz。

脱資本主義宣言―グローバル経済が蝕む暮らし

脱資本主義宣言―グローバル経済が蝕む暮らし