遠藤慶太『東アジアの日本書紀』

私たち日本人にとって、日本書紀という書物は、一言で言えば、「謎」の塊のような存在である。
この漢文で書かれた書物は、日本の「正史」として、最初にして、唯一の存在というのは、一般に「正史」とはそういうものであることから、理解できなくはない。しかし、

  • 最初

とは、どういうことなのか? それは、それ「以前」に、歴史書が書かれなかったということなのか? もちろん、そんなはずはない。はずはないが、ある「意味」において、そうだとも言える。つまり、それ「以前」の歴史書は、

  • 歴史書の程を成していなかった

と考えるのだ。つまり、歴史書とはなにか。歴史書とは、「これが歴史書だ」と言われているように書かれているなにか、のことにすぎない。
例えば、中国において、司馬遷史記が書かれる以前に、歴史書がなかったと思っている人がいるなら、どうかしている。むしろ、歴史書が「あった」から、司馬遷は歴史書を書けたのだ。むしろ、司馬遷は、

  • 歴史書を「自己言及」した

とも言えなくもない。司馬遷の意識において、自らが編纂する以前に存在した歴史書と

  • 違う

ことを書いている自覚はない。むしろ、その記述と「同じ」ことを書いて「いる」という自覚において、その記述を「解釈」する。それが、

である。書いてあることは、そのまま、そのことを意味するわけではない。周縁的な状況証拠と照らし合わされることで、その意味することは、重層的に意味を形作っていく。
私がここで、こだわっているのは、なぜ日本書紀以前の、日本の歴史書が残っていないのか、である。それは、なぜ歴史書は「残されるのか」に関係している。
なぜ、歴史書は残されなければならないのか。これは、言ってみれば、不毛な論争である。そもそも、韓国(=百済)のこの時代の歴史書は残っていない。実際に、存在したはずであり、日本書紀で何度も何度も「引用」されているのに。
歴史書が現代に残るか残らないかは、たんに、「運」の問題だ。だれかが、残そうと思えば残るし、残そうとしなければ残らない。
そもそも、なぜ日本書紀は、残されたのか。それは、それ以降の歴史が証明している。つまり、それ以降、日本は、ほぼ一つの政体が続いている。そして、日本書紀以降も続けて、幾つものその歴史を「続ける」歴史書が書かれている。つまり、日本書紀が「歴史書」の地位を獲得したことによって、日本も中国における、史記のように、歴史を過去から再編成するプロセスを意図するものでない、

  • その時代

を編年していく種類のものとして、フェーズが移った、ということなのだろう。
このプロセスの移行を、どのように、決定できるだろうか。なにが、この移行を分かつのだろう。
まず、歴史「書」が、書き代わらない、とは、どういうことなのだろうか。一度書かれた歴史書が、

  • その「文言」の通りに、「保存」される

とは、どういう事態なのだろうか。まず、こう考えよう。ある政権が存在していた状態で、革命が起きるとする。まったく別の、コミュニティが中心となって、まったく別種の政体に交代したとする。
しかし、この新たに生まれた政体にとって、それ以前に存在した歴史書が、いちいち、気に入らないのは必然ではないのか。君が代ではないが、以前の政体が、千代に八千代に、と願って書かれていた一言一言を、ぶっつぶしたことが、革命の意味なのだから。
しかし、反対に、こうも言えるのだ。過去の歴史を、どんなに否定してみたところで、過去の記録は残っている。だとするなら、それをなかったことにする

  • 努力

に、どれほどの人間の労力を注ぐモチベーションとなるだろうか、と。
革命政権が、過去の政権を「否定」するということは、国民に「過去の歴史を忘れさせる」ということである。革命政権は、焚書坑儒を行い、それ以前に存在した、一切の、人間の記録を焼き払う。モニュメントを壊し、

  • 過去の歴史の抹殺

を行う。つまり、革命政権から歴史は始まった、と。しかし、もし革命政権がそう言えるためには、なにが必要か。

  • それ以前に政権は「なかった」

と国民に言わせなければならない。国家は国民を武力で脅し、それ以前に別の正統な権力は存在しなかった、と口裏を合わさせなければならない。

ただ面白いことに、「天壌無窮の神勅」は『日本書紀』の本書にはなく、天孫降臨のくだり(神代下 第九段)に引用された「一書」、つまりは異伝として処理されている。降臨を指令するのがタカムスビなのか(本書)、アメテラスなのか(一書第一)といった違いもある。
また皇孫ホノニニギに配された五部の神は、中臣・忌部・猿女・鏡作・玉作のように実在する古代氏族の祖とされていることが特徴である。たしかに『日本書紀』での神話の主旋律は皇室の起源を語ることにある。作為もあるであろう。しかし作為された政治神話が天皇側の一方的で強制的なものであったならば、神話が定着することはありえない。

天孫降臨という、現政権の「正統性」を正当化するとき、なかなか周到な手続きがされていることに注意がいる。天孫降臨には多くの異伝が並列されている。そこには、その土地で伝承されていた、おそらく、オリジナルの形のものがあるわけである。それと「並列」される形で、現政権は、都合のいい「物語」をでっちあげる。しかし、ただ、でっちあげるのではない。そこに、自分たちが「統合」して協力してもらいたい、氏族たちの

  • 祖先

を並列するわけである。そうすることで、自政権への求心力を強めるとともに、この強引なまでに、でっちあげた、「正統性」神話への、

  • 異議申し立て

を封じるわけである。
こういった「革命」精神と似た構造の歴史を日本で探すとき、隠れキリシタンの歴史があるだろう。キリスト教を信仰するということは、

  • 日本の正統性を否定する

ことを意味する。本当に世界を支配するに値する正統性の存在するのは、キリストであり、その意志を正統に受け継ぐ「教会」である。だからこそ、日本のキリシタンたちは、宗教弾圧に対し、踏み絵に対し、「隠れた信仰」を、何百年と世代を超えて続ける。
隠れキリシタンにとって、世界において、唯一正統な権威は、キリスト教である。キリストを語るから正統なのであって、だからこそ、日本は、キリスト教国家にならなければならない。それだけが、正しいのであって、それ以外は

  • なんだかよくわからない状態

というだけの意味になる。つまり、キリシタンにおいて、歴史はまったく違った意味におきかわる。歴史とは、過去の聖人たちの言行録、どう振る舞ったのかの記録のことになる。
それは、ある意味、司馬遷においても変わらない。史記の、ほぼ大半を占めているのが、史記列伝である。むしろ、歴史とは、

  • その人

の歴史なのだ。ある人が、なにをしたのか、なにを考えたのか。

  • それだけ

が重要なのであって、それ以外の歴史を認めない。つまり、司馬遷史記には、そういった歴史の「読み替え」の萌芽が読み取れる。
ある、革命政権が、どんなにその土地の国民の口を封じ、資料を焼き、過去の政権の

  • 痕跡

を、しらみつぶしに抹殺したとしても、過去において、その土地には、多くの人々が住んでいたわけで、つまりは、土を掘り返せば、なんだって、出てくる。さすがに、紙で書かれた媒体は、保存されるには、それなりの「梱包」がされていなければならず、難しいとしても、石碑などは、ほぼオリジナルのまま、掘り出されないとは限らない。
いずれにしろ、はっきりしていることは、こういった「記録文化」が、大衆レベルに普及すればするほど、歴史の抹殺は、難しくなるということだろう。
中国の歴史とは、「夷狄」が「文明化」を次々と繰り返す過程のことを言っているように思えます。それは、日本が日本書紀を書くことになる歴史との相似性が指摘できないでしょうか。
しかし、この場合「文明化」とは、なにか、ということです。それは、中国の王朝の側が「夷狄」を認識していく過程を意味します。彼らが、

  • 対等(とまではいかないが、それに「類似」した相手)として扱い始める

プロセスを意味します。ここで、「対等(と類似したもの)」とはなんでしょうか。まず、その国の成り立ちが、記録されねばなりません。その国の「かたち」が説明されなければなりません。つまり、

  • そういったものが「ある」

ことが、「相手」である必要条件となるわけです。

四三九年に鮮卑(せんぴ)系の北魏華北を統一すると、高句麗は北方に領域を拡大することは困難になる。そのため広開土王から長寿王にかけて高句麗朝鮮半島で南進を続け、その結果百済との対決はいっそう熾烈なものになった。百済は軍事的な同盟相手として倭を必要とし、高句麗と対抗し続けるのである。
日本書紀』には百済系の史料を引き、朝鮮半島に将軍を派遣したこと、百済王との交渉の経緯を伝えているが、大勢として高句麗の優位は覆せない。過酷な条件の中でしのぎを削りながら、逸早く国家形成に成功した高句麗の実力に圧され続けたのが実情である。そこで倭が立てた対策のひとつが、江南の中国王朝へ使者を派遣して官爵を得ること、国際的な承認を得ることであったと考えられる。同時に倭王は自身が任じられた官職の属僚に倭国内の有力者を任用し、中国王朝の官職体系を国内に適用しながら国家統合を進めた(府官制)。倭の五王の中国との交渉とは、外に向けては列島側の半島権益確保の目的を持ち、内に対しては大王を頂点とする王権構成を秩序化したといえる。
ところがこれも壁があり、江南の中国王朝へ百済はもとより、高句麗が使者を派遣している。遣使を重ねて倭王の官職は次第に昇進するが、とうとつ高句麗百済がもらう官職の序列を超えることはできない。倭は百済の軍事権を要求し続けたが、中国からは拒否され続けた。それが五世紀代の「国際社会」が倭へ下した冷徹な評価なのだろう。
高句麗の長寿王は実力もあり、外交もしたたかで境界を接する北魏北朝)と宋(南朝)の両方に使者を派遣する。それで高句麗の南下に苦しむ百済は一度だけ北魏に使者を派遣したことがあった。「高句麗は無道である。高句麗がいるのでわが百済北魏へと行くことができない。また高句麗北魏の背後の異民族と秘密で交渉をしている。どうか懲らしめて欲しい」と訴えたのである(『魏書』百済伝・孝文帝紀上)。これが西暦の四七二年で、『日本書紀』では雄略天皇十六年にあたる。ちなみにその前年が辛亥年、稲荷山鉄剣の銘文にみえるワカタケル大王の年記である。

そして、四七五年に百済の王都(漢城)が高句麗によって落城する。また、この頃から、倭王武(=雄略天皇)以降、南朝への朝貢による官爵を受ける戦略をとらなくなる。
日本側の視点において、この時期、日本が百済にさまざまに軍事協力を行っている自覚がある。それと、引き換えに、多くの百済の文官が、日本側で働くようになる。
こういった人たちが、日本書紀編纂に、大きく関与していることは間違いない。それは、単純に、日本書紀に、百済の歴史書の引用が、あまりに多いことからも分かる。
いや。
むしろ、日本書紀は、百済の「作法」によって、作られた、と考えるべきだ。
言うまでもなく、日本にだって「歴史」はある。しかし、それは、その時代で言えば、何百年の間の話である。もちろん、つい最近の親やじいさんの世代なら、その「伝承」は残っているだろうが、何百年も前となれば、ろくに語れる人もいなくなる。しかし、そういった時代が残っていないか、というと嘘になる。
言うまでもなく、神功皇后とは「卑弥呼」を意識している。しかしそれは、著しく「政治的」扱いであり、言うまでもなく、その当時、まともな伝承が残っていたとは思えない。しかし、それが「中国の史書にある」ことは、彼らも知っているわけである。
他方、倭王武(=雄略天皇)となると、それほどまでは、前ではなく、今の、日本の百済へ及ぼす関係の始まりともいえるものが、ここから始まり、今に至っているという感覚が彼らも自覚はしている。
そこから、大化の改新や、白村江の戦いを経て、百済が滅亡していく歴史こそ、日本書紀の歴史となる。
さて。日本書紀はどのように書かれたのか。間違いなく言えるのは、日本書紀の「前」には、「帝紀」。またの名を「日嗣(ひつぎ)」と呼ばれる、天皇の位の継承関係を記した「系譜」があったことである。
つまり、日本書紀とは、この系譜の「意味」を埋めたなにかにすぎない、ということである。もちろん、はるか昔のことなど分からない。しかし、分からないが、「系譜」はあるわけである。つまり、言いたいことがないなら、なにも書かなければいい。ただただ、「系譜」だけ書いておけばいい。それだけは、

  • 書かれるべきこと

なのだから。
しかし、問題は、なぜ「このように」書かれたのか、である。別のようにもありえただろうし、そもそも、「書かれない」という選択肢だってあったはずだ。しかし、このように書かれた。
「なぜ書かれたのか」の理由としては、上記にあるような、国際関係の中で、その必要を感じていたことが実際にあるのだろう。
では、なぜ

  • このように

書かれたのか、についてはどうか?

そこでふれておきたいのは、『日本書紀』の最初の紀年が「是年也、太歳甲寅」であったことである。神武天皇が東征を決意した年にはじめて干支の表示がなされることで、『日本書紀』は神話の時代から歴史の時間へと切り替わる。天皇年代記は、神武紀の「太歳甲寅」から歴史的時間がスタートするのである。その最初の干支が「甲寅」であったのは偶然ではない。
「太歳甲寅」と『日本書紀』の関係では、呉・徐整(じょせい)『三五歴記(さんごれきき)』という三国時代の文献に注目が集まる。

芸文類聚』天部は、天地開闢を記した『日本書紀』の冒頭「古に天地未だ剖れず、陰陽分かれず、混沌にして鶏子の如く、溟けいにして牙を含めり......」とそっくりである。『三五暦記』の逸文を引く唐・欧陽しゅん『芸文類聚』は、唐のはじめにまとめられた事典(類書)であり、『日本書紀』の文章をつくるときに利用された。これは膨るよりの定説である。
次の帝王部をみると、『三五暦記』の逸文で「歳は摂提に起き......」とある。『爾雅』釈天で「大歳、寅に在るを摂提格と曰ふ」と解釈されるように、「摂提」とは十二支の寅のことである。十支の方は木・火・土・金のうちの「木」の兄で「きのえ」(甲)であるため、甲寅を干支の最初とみる考えがあった。『史記』の天官書への唐・司馬貞注(『史記索隠』)では、「万物陽を承けて起こる。故に摂提格と曰ふ」とあるように、干支の最初の甲寅には万物が生起すると考えられていた。したがって『日本書紀』の最初の紀年が「甲寅」の干支ではじまるのは、意図的な設定であろうと思われる。
問題はそれだけではなく、『三五暦記』の逸文には天皇について説明したくだりなのである。中国でいうところでは、太古の帝王、三皇五帝のうちのひとりを「天皇」という。そうであるならは、初代天皇の巻に最初の干支として記されている「是年也、太歳甲寅」には、実年代の表示というよりも、循環する干支の始まりに初代天皇が出現したことを表現したものであろう(東野治之「天皇号の成立年代について」『正倉院文書と木簡の研究』はにわ書房、一九七七年。一九六九年初出)。
それほど重要な意義を持つ太歳紀年が『日本書紀』の引用した「百済本記」にみえることは、何よりも百済史書と『日本書紀』の切り離しがたい関係を表している。

日本書紀に対する日本人の正直な感想を一言で言うならば、

  • あまりにも「高度」な「歴史書」が「突然」あらわれた

という印象にある。つまり、あまりに「ハイコンテクスト」なのだ。こんなものが、突然、日本の「内部」から現れるわけがない。
そして、読むと、実際に、日本の歴史なのか百済の歴史を書きたいのか分からないくらいに、朝鮮半島の状勢の記述に偏執的な印象を受ける。
つまり、日本書紀は「百済人」が書いた。だから、そこには、彼らの人生観、彼らの歴史観、彼らの真理観。彼らの

  • 願い

が書かれている。彼らは日本の高官たちの命令に従い、「天皇」の「系譜」という「がら」の隙間を埋める作業をやりながら、その「間」に、自分たちの

  • 本当に書きたかったこと

を書いたはずなのだ。実際に、日本書紀の記述は、大いに百済寄りの、百済側の主張に沿ったものだったわけだが(それは、日本と百済の同盟関係から考えれば当然だとしても)、

は少しも自明ではない。つまりこれは、日本の歴史書を「借りた」

という側面が、込められている。
ここまで書いてきて、私は、はたと思うのである。「歴史」とはなんなのか。歴史書とはなんなのか。なにが書かれていることが、歴史書を意味する、というのか。歴史書を書いた人は、どんなことを「願って」これほどの努力をしたのか。そこに、どんな意志を込めようとしたのか。
一つだけはっきりしていることは、こういった百済の文官が、この、あまりのハイコンテクストで、膨大な量の記述の

を、こうやって日本の公式歴史文書という「体裁」をまとったもの「を」介して、後世に残した(後世に残すことに成功した)、という事実である...。

東アジアの日本書紀―歴史書の誕生 (歴史文化ライブラリー)

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