山川賢一『Mの迷宮』

日本のアニメの歴史において、1997年に放送された、アニメ「少女革命ウテナ」の存在について知っている人はどれくらいいるのであろうか。
この作品の特徴は、その内容が、「子供向け」ではないところにある、と言えるのではないだろうか(その特徴は、言わば、「純文学」に似ている)。一般に、日本のアニメは、徹底して、子供に見てもらうことを前提に作られているところがある。言わば、こういった「慣例」をこの作品は破っているわけである。
しかし、その意味するところを、一言で言おうとすることは難しい。というのは、ある意味では、子供向けの普通のアニメと違わないと言えないこともないからだ。つまり、何が「大人向け」かと言うと、

  • 意図されている表現の意味

が、どう考えても一意に読めない。つまり、最初から最後まで、「何をやっているのか分からない」ということである。こういった特徴をもつ芸術として、一番分かりやすいのが、純文学であろう。純文学の作品は、それが、SFの設定を使っていようが、ファンタジーっぽくなっていようが関係なく、「純文学」と呼ぶしかないようなものであろう。
このことは、「純文学」だから、「傑作」という判断をするかどうかということとは関係ない。つまり、「おもしろくない」と言うことは簡単なのだが、じゃあ、具体的にこれは「おもしろいのか」と問うたときに、その「おもしろい」の内容を説明することが、著しく困難なわけである。
では、アニメ「少女革命ウテナ」は「傑作」であろうか? そう断定することは難しい。むしろ、「失敗作」と受け取ったと告白する方が、「正確」な表現なのではないか、とさえ言いたくなる。
掲題の著者は、この「ウテナ」の世界を分析するにあたり、宮崎駿の「ナウシカ」、特に、漫画版のナウシカの世界観を、重要視する。

ハラス&バチュラーによるジョージ・オーウェル原作のアニメ映画『動物農場』(一九五四 再公開二〇〇八)の公式サイトに掲載されたインタビューで、宮崎はこう述べている。

独裁者がいなくて、みんなそこそこ幸せにやっていくことができるようにするには、どうしたらいいのか。それにたいする人類の最大の賭けが、社会主義だったんですよ。十九世紀のヨーロッパのなかで育てられて二〇世紀にかけて実験した結果、見事に敗北したんです。楽園は地上にはないんです。

ただし『ナウシカ』は、独裁の連鎖という絶望的なヴィジョンを描いてはいるけれど、そこに救いがないわけではない。宮崎はさきのインタビューで、こう述べている。

......クーデターなり革命をおこして独裁者を追い出して、理想の社会を時限しようとしても、結局、気がつくとまた次の独裁者があらわれる、というのも、人間の歴史を見ればわかることです。それでもやっぱり立ち上がざるをえないんです。(中略)人間はいつでも愚行をおかす危険があるってことをわかりながら、それでもなにもやらないよりは、やったほうがいいと思います。

これは、一種の「全体主義」的な世界観であることが分かるであろう。あらゆる、革命は「ヒーロー」から始まる。素朴な理想から始まる。ところが、その革命が、「成功」し、理想の社会を実現していけばいくほど、その英雄は自らが倒した独裁者に似てくる。つまり、こうである。

  • 善である英雄による革命によって、悪の独裁者が打倒される。
  • 時が経つにつれ、善であった英雄は、「堕落」し、彼が憎み、打倒した「独裁者」と、どこも変わらない存在になる。自分も「独裁者」という悪になる。
  • すると、新たな、善である英雄があらわれ革命を行い、自分は倒される。

日本共産党の機関誌である赤旗で、特定秘密保護法案を推進してきた政治家の親や祖父に、戦前の特高と関係していた人が見受けられると書かれていたそうだが、つまり、権力の腐敗とは、こういうことなわけである。日本は、そもそも、戦前の反省をしたのだろうか? 日本人の多くの人が、特高によって逮捕されたし、殺されもした。皇国教育もまともに反省しなかったし、大本営もまともに総括していない。だったら、そういった「亡霊」が、ぞろぞろと湧き出してくるのは、当たり前なんじゃないだろうか。だって、実際に日本には、そういった活動をしていた子孫が、たくさんいるのだから。彼らは、パパ、ママ、じっちゃん、ばっちゃん。彼らの名誉回復のことしか考えていない。彼らは悪くなかった、ということを言えるなら、今の日本を、戦前と同じにすることさえ厭わない。むしろ、戦前に戻れば、やっぱり、じっちゃん、ばっちゃんは悪くなかったんだ、という証明になる、というわけであろう。つまり、あらゆる権力は「堕落」する。それは、必然の結果のようにさえ、思えてしまう。)
ナウシカの世界は、ようするに、「ペシミズム」である。上記のような、

の中で、人々は「あらゆる行動に意味はない」と考える。それに対して、宮崎駿の主張は、

  • だとしても、それでも、

抵抗しないより、した方がまし、というレベルの言及にとどまる。
こういった世界観を受け入れて、後の世代がどのように考えたのか、が問われているわけである。
アニメ「少女革命ウテナ」において、ある日、ウテナは、ある学園に入学してくる。ひょんなことから手に入れた、薔薇の刻印と呼ばれている指輪はめることで、彼女は、姫宮アンシーをめぐる、決闘ゲームに引き込まれていく。
このゲームにおいて、勝者は「革命」の権利を手に入れる。しかし、そうであるためには、勝ち続けなければならない。次々とあらわれる、デュエリストを相手に、ウテナは勝ち続ける。
確かに、ウテナは勝ち続ける。つまり、革命の権利を目指しているという意味では、そこには「希望」があるように思われる。しかし、その意味は限りなくグレーだ。彼女の前に現れる敵は、言うまでもなく、「悪」である。しかし、その悪は、

  • 以前は違った

のである。つまり、彼らは以前は、今のウテナと同じように、善の希望を抱き、革命を目指していたわけである。つまり、彼らは「堕落」したのだ。ということは、どういうことか? いずれ、ウテナもそうなることが予想される、ということである。
次々のウテナの前に現れる敵は、まさに「悪」と呼ぶにふさわしい存在であるわけだが、彼らは、なぜかウテナに、「善」をあきらめて、悪を選ぶことを誘惑する。それは、彼ら自身が昔は、善だったから。彼らは、むしろ、その「不可能」性を十分に理解するからこそ、そのウテナの無駄なあがきを、たしなめるように、教え諭し、変えようとする。

根室の言うとおり、ウテナを今のような人間にしたのは、過去の「王子様」と出会った日の思い出である。そこを突かれ動揺しつつも、彼女は根室を拒絶する。

僕と決闘しろ! 今日の夕方、決闘広場に来い! お前を叩きのめして、僕がお前とちがうことを証明してみせる!
(第二三話・デュエリストの条件)

ウテナは、そういう意味では、現実に向き合い、革命を目指す「希望」を失っていない存在として描かれる。
ところが、この関係は、姫宮アンシーという、非常に興味深い存在との関係において考えるとき、そんなに単純な話ではない、ということを理解させられる。

榎戸洋司はあるインタビューで、ウテナは「理想」、アンシーは「現実」をそれぞれ省庁するキャラクターだと答えている(徳間書店アニメージュ」一九九七年一〇月号)。彼によれば、世界を「革命」しようとするウテナたちデュエリストに、「現実」の残酷さを突きつけるのがアンシーなのだという。
当初、決闘によってデュエリストたちのあいだで「モノ」のようにやりとりされながら文句も言わないアンシーは、自分たちが一人の人間であるということをいまだ知らない、哀れな少女のように見える。しかしじっさいには、アンシーは、このシステムの、いや決闘ゲームに限らず、この「現実」の仕組みをすみずみまで知り尽くしているからこそ、自分がそこからいつの日か解放されうるなどという甘い希望を、はるか昔に捨ててしまったのだ。

姫宮アンシーは、この作品において、なんと表現していいのか分からない、

  • 気持ち悪い

としか言いようのない、存在である。彼女は、常に、口元に微笑を浮べている。どんなに、虐待を受けても、ゴミ屑のように扱われても、いつも、笑っている。その笑いは、「ニヒル」な笑いである。彼女は、まさに、理想や某といったものの

  • 対極

にある、「現実」を象徴している。彼女の気持ち悪さは、この作品をとても、象徴している。

ウテナは最後の決闘で、たとえ裏切られ傷つけられても、けしてアンシーの解放をあきらめなかっ。ウテナが「革命」を起こせたのかどうかはわからない。しかし少なくとも、アンシーは結末で、とうとう鳳学園を出ていこうと決意するのだ。

ウテナの革命は、上記の、ナウシカの世界の「全体主義的ペシミズム」に「対抗」するものとして、ありえたのであろうか? しかし、そもそも、そんなことは可能なのか? だって、宮崎駿自身が、「たとえそうえあったとしても、あえて、そう振る舞うしかない。なぜなら、そっちの方が、まだましだから」という、とても「消極的」な形でしか、答を呈示できなかったわけである。
実際、ウテナの世界は、非常に「両義的」である。ウテナは勝ったのか。ウテナの革命は成功したのか。ただ一つだけ言えることは、アンシーが鳳学園を出ていくということが、この学園という、

  • 内と外

の、内向的世界観からの逸脱であり、「外」を意味している、ということであろう(全体主義的世界観が、ペシミスティックであり、ニヒリズムなのは、それが、「内」の思考だからである。つまり、共同体に閉じた思考であることを意味する)。
これに対して、同じ監督による、2011年に放送された、アニメ「輪るピングドラム」は、たんに、ウテナの世界構造と対応しているだけでなく、より、問題の焦点が、クリアに呈示されている、という印象を受ける(少なくとも、ウテナに比べると、見て、おもしろいと思った人は多いようだ)。そういう意味では、比較的、分かりやすい物語構成になっている、とは言えるのかもしれない。
ウテナの世界は、たとえ、それが本当に可能なのかが疑わしいとしても、ウテナが「希望」をもち、前に進むという体裁をとっている分、希望のある話の形になっている。他方、ピンドラには、そういった「希望」が見つからない。ピンドラにおける「ウテナ」は、おそらく、苹果であろう。しかし、そう言われて、ピンとくる人は少ないのではないか。というのは、苹果はウテナのように、最初から、この世界の「革命」が可能であるかを示すような位置にいない。つまり、すでに、そういったことが、後景に退いている印象を受ける。苹果は、闘わない代りに、ストーカーをする。つまり、最初から、どこかパロディアスに、ウテナを風刺している印象すら受ける。
ピンドラの世界は、オウム真理教(=企鵝の会)のテロの世界である。三人兄弟の、冠葉は、企鵝の会のメンバーの、テロの実行犯の父親の子供であり、社会からの冷たい視線から逃げるように、隠れて、子供たちだけで生きている。兄の晶馬は、妹の陽毬の病気を治すために、企鵝の会のテロに加担する。加担することで、大金を受け取り、それを、妹の陽毬の治療代にする。妹を救えるような大金は、こんなことでもしない限り、集めることはできない。
そういう意味で、ピンドラの世界は、ウテナに比べても、より具体的で、分かりやすい世界設定になっている。ピンドラの世界は、ウテナに比べて、より、絶望の色が濃くなっている。ウテナのように、運命を切り開いていく、その一瞬の「可能性」に賭けていたのに比べても、さらに、後退している。彼らは、より、

  • 運命

という言葉を重視するようになるし、生き残ることは、「生存戦略」の問題として、より選択不可能な中で、なんとして、生き続けることを最優先に考えるような、色彩を帯びる。
冠葉と晶馬と陽毬の関係は、どこか、より救いようのない絶望を思わせる。

桃果はゆりに「一つの運命が変わると、世界の風景が変わってしまう」と語っていた。論理学でいう対偶をとってみると、この言葉に隠された意味がわかる。彼女は「世界が変わなければ、一人一人の運命も変わらない」といっているのだ。つまり、物語後半になると、「運命」と「生存戦略」という二つの言葉は、変わらない世界を生きることの苦しみと強く関係付けられていく。

ウテナの世界における「革命」に対応するのが、「生存戦略」である。つまり、理想や夢に進むことを選ぶ問題の前に、この罪深き、透明な自分たちが、どうやって「生き残るのか」、そちらの方が、より大きな問題となっている。

世界は残酷で、変えようがないのだとしたら、陽毬の言うとおり、生きることは一種の罰である、という事実からは逃れようがない。この認識は『ピンドラ』の根底にあるものなのだ。地上で最初の男と女とは、もちろんアダムとイヴのことである。二人は、ともに果実を食べたために神から罰をうけた。だから「運命の果実を一緒に食べよう」とは、生きることの罰をともに引き受け、分かち合おう、という意味になる。

冠葉と晶馬と陽毬にとって、世界は理想や夢ではない。世界とは、

  • 罪を分かち合う

こと、となる。罰と共に。では、ピングドラムとはなんなのか?

彼らが語っているのは『銀河鉄道の夜』の一シーンについてだ。鉄道に、二人の子どもを連れた青年がいつのまにか乗車している。彼は家庭教師で、子どもたちを親元に送るため船に乗っていたところ、海難事故にあったのだ。一度は他人を押しのけてでも子どもたちを救命ボートに載せようとした彼だった、他の、多くの子どもたちや、自分は犠牲になっても子どもだけは助けようとする親たちの姿を見ていると、どうしてもそれが出来なった。そして気がつくと、この鉄道に乗っていたのだという。
そんな彼と子どもたちに、乗客の一人である燈台守がリンゴを与える。またジョバンニとカンパネルラにも。このときのジョバンニはまだ知らないのだが、じつはカンパネルラも、川で溺れたザネリを助け、自らは命を落としていたのだ。
つまり、青年やカムパネルラは、「愛による死を自ら選択した者」だったからこそリンゴをもらえたのだ、というのがK少年の解釈である。

ピングドラムとは、こういった特別な自己犠牲の死を選んだが「ゆえに」、なんらかの、特別な力を秘めることになった、「象徴」である。それは、その選んだ自己犠牲が、尊いものであるからこそ、より、重要な意味を秘めていく。
そういう意味で、やはり、この作品も、どこか両義的な印象を受ける。自己犠牲が輝くのは、この現実の絶望が深いからであり、子どもたちが、夢や希望に未来を託せることを意味しているわけではない。
(掲題の著者も言及しているが、この作品のそこらじゅうで、企鵝の会の広告がはりつくされているのは、すでに、この世界が、こういった勢力によって、覆い尽されてしまった後であることを示唆しているわけで、まあ、似たような状況は、今の日本も変わらないところはあるのであろうが。)
しかし、そういった子どもたちの未来の絶望が深く、深刻であればあるほど、ピングドラムという「自己犠牲」の特異点は、その意味を大きく、重要な象徴となるわけで、そのかすかな狭間に、なんらかの可能性を見出す、ということなのであろう...。

Mの迷宮 『輪るピングドラム』論

Mの迷宮 『輪るピングドラム』論