笙野頼子『レストレス・ドリーム』

特定秘密保護法が成立したということで、日本中がお通夜ムードである。平成の治安維持法が成立したことで、

  • 次の敗戦

まで、この国は、全体主義的な、

  • 悪夢

を生きることになる。まさか、そこまでは、ひどくないだろうといった雰囲気の学者や知識人が散見されるが、治安維持法ができたときだって、そこまでひどくない、と多くの人たちは思っていた。
結局、いい所のエリート学校の出身だったりすると、回りは、親や先祖が、昔、アウシュビッツアイヒマンのように、特高の警察官として、何人もの市民を牢屋にぶちこんだ、という「勇名」を残して、この世を去った人なんて、日本中数えたら、いくらだっている。
しょせん、お金持ちは、「どういう手段」で、そういった小金を手に入れることができたのかと考えたとき、普通に考えて、「やばい」ところに、手をつっこんだから、それだけの、小金を懐にできたのであって、そういった、ポット出の、金持ちほど、人間的に信用のできない連中はいない。
そして、そういった、小金を怪しい懐に手をつっこんで、手に入れた連中の子どもが集められて、親の言うことを素直になるまで調教する場所が、エリート進学校である。彼らは往々に、人間的には、最低のクズであるが、

  • 進学

する。彼等の性根は、腐りきっているが、なまじっか、小金があるだけに、いいものを食っていて、栄養もありやがって、頭がいい。そして、こういった、へたに小金なんかを手にしちゃっているだけに、その小金を守るためなら、貧乏人を飢えて殺すことさえ、なんの痛痒も感じることなく、平気でできる。
福島で今も多くの人たちが、避難生活をして苦しんでいるその脇で、放射能遊びで、キャッキャ、キャッキャ、と「軽薄」に、辺りに、放射能がばらまかれている光景を見て、

  • 「自分は不幸じゃなくてよかった」と、不幸な福島の人を眺めて、他人の不幸は蜜の味と、愉悦にふける

というわけか。そんなに、国に賠償してもらえない、福島で避難をしている人たちを、「見世物」として、さらしものにすることが軽薄に、楽しいか。
そういったエリート進学校の出身の連中は、彼ら同士で、秘密結社的なネットワークをもっていて、鉄の結束を築いている。もちろん、その鉄の環の、かなりの部分は、日本における最も権力をもつ、国家官僚の中枢を占める。というのは、だから、エリート進学校なのだから、だ。こういった人間関係を生きている限り、そもそも、彼らに、特定秘密保護法を批判することは不可能なのだ。というのは、彼らは、そういった

  • 自分たちの仲間

である、この鉄の結束の一翼に、こういったエリート国家官僚が、多くを占めているのだから、彼らを批判できないのだ。
安倍首相が握り拳を作って、「力」を強調し、「日本を取り戻す」を連呼する姿は、ナチス・ドイツヒットラー総統において、彼も、

  • 力(ちから)
  • 実行力

を強調していた姿と、どうしても重複してしまう。
安倍首相は、間違いなく、ナチスの映像を何度も見ているのではないか。ヒットラーが、拳を握り、国民を「脅す」ように演説する映像を何度も何度も、摺り切れるように見ているのではないか。
彼は、近いうちに、ナチス式敬礼を、国民に義務化させるのではないか。あの、喝采に包まれた中を、一糸乱れぬ、ナチ党員や、SSの、軍事行進を、今後、安倍首相は、何度も国民に見ることを強いてくるのであろう。
ハンナ・アーレントは、官僚制を、「凡庸な悪」と言ったが、私はそれを疑っている(多くの人は、リチャード・ウォーリンの『ハイデガーの子どもたち』を読むべきだ)。もしも、ナチス・ドイツの行為が、「凡庸な悪」であるなら、彼らが「妄想」した、

  • ドイツ民族とユダヤ民族の「来世紀への生き残り」を賭けた<最終決戦>

の意味を、とり逃すとしか、私には思えないからだ。むしろ、悪は「凡庸」なのではなく、たんに、

  • 殲滅

するのである。眉毛一つ動かさず、一つの民族を「絶滅」させる。そして、そうやって絶滅させたエリートは「出世」する。彼らは、凡庸を

  • 演じる

わけで、彼らは自分の罪を軽くするためなら、自分がいかに、「つまらない」一人の小役人にすぎないかを、「演じる」であろう。つまり、ハンナ・アーレントは、アイヒマンのつまらない演技を、

  • 彼の意図通り

に、世界中に、彼の代弁者として、広告してやっていた、にすぎない。
悪は、凡庸なのではなく、

  • 人々に、まるで「凡庸」であるかに見せかけて、人々の「油断」を誘い、その隙を狙って、民族を抹殺する

わけである。言うまでもなく、アウシュビッツ収容所という、ユダヤ民族絶滅収容所は、

  • 特定秘密

である。アウシュビッツ収容所のことをリークしようとした、ドイツ国内のレジスタンスは、ことごとく、特定秘密保護法によって、逮捕され、帰らぬ人となった。おそらく、安倍首相は、自分に逆らう日本人を、かたっぱしから牢屋にぶちこむだろう。彼には、昔からためていた、

  • 絶対許さないリスト

には、もう数えきればいほどの、呪いの言葉を浴びせられた人と、彼らへの呪詛の数々が書かれているわけだが、こういったものは、ナチスが、なんのためらいもなく、ユダヤ人をアウシュビッツに送りこんだように、彼は「粛々」と、「凡庸」なまでに、

  • 事務的

に、「処理」するだろう。
彼は、最終的には、憲法を改正する、と言っているのだから、早い話が、

を、特定秘密保護法で牢屋にぶちこむと言っているのと変わらない。つまり、ある意味において、特定秘密保護法で逮捕され、10年、牢屋に入れられることは、

  • 名誉

なことなのである! 逮捕された人々は、勇気をもって、この法律が「憲法違反」の法律であり、この法律自体が「無効」であることを主張すべきだ。そして、安倍首相に、日本中の民衆を、特定秘密保護法違反で逮捕させることで、むしろ、「どちらに正義があるのか」を分からせるしかないであろう。
安倍首相は、この法律を使って、民衆の憲法改正の主張を

  • 黙らせる

ことで、だれも反対してこないように民衆を「恫喝」することで、憲法の改正まで強引に押し進めようとするであろうが、果して、そんなにうまくいくのか、ということであろう。
今の自民党政権は、前の民主党政権が方針を決めた、原発ゼロ政策を「転換」して、原発「推進」に梶を切ると言ってるらしい。民主党がさまざまに作った、原発反対派も含めて構成されていた委員会を次々と壊し、3・11以前の、原子力ムラの住人だけによって作られていた<談合>委員会に戻して、原発の夢よ、もう一度、ということらしい。
国民の8割が、もう原発はやめてくれと言っているのに、むしろ、国民のあえて嫌がることをやって、国民を、SMのように、鞭(むち)で叩き、相手の嫌がることをやればやるほど「喜悦」するサディストのように、安倍首相は、国民に原発を押し付ける。原発を動かし、大量の放射性物質を作りだし、それを、無理矢理、国民の毎日、当たり前のように、吸い込んでいる空気の中に、それを混ぜ込んで、毎日、当たり前のように、飲んでいる水に混ぜ込んで、毎日、当たり前のように、食べている食糧に混ぜ込んで、まさに、忍者が、敵を「毒殺」するときのように、じわじわと、国民を真綿で絞めるように、中毒死させることを「喜悦」しているようだ。安倍首相を馬鹿にした人たちをメモし続けた、絶対許さないリストには、彼以外の全員の、日本国民が書かれているのであろう。彼は自分を馬鹿にした、すべての日本人に「復讐」をするためなら、なんだってやる。つまり、原発から放出される、放射性廃棄物は、彼を子どもの頃から、「いじめ」た日本国民に

  • 復讐

をするために、放射性廃棄物の放出をやめられない。彼の最終目的は、この放射性廃棄物によって、日本中の日本人を全員、中毒で苦しませることであって、それが「完遂」するまで、この原発を動かし、増設し、日本を、誰も立ち入れない廃墟の危険地帯にし、そこに住む彼の憎き、日本人を全員、蝕み尽すまで止めない。
彼にとって、放射能とは、彼を子どもの頃から、「いじめ」た日本人に、その「復讐」を果たすための、最後の「ヒーロー」。彼に

  • 力(ちから)

を与えてくれる、「偶像崇拝」なのである。日本人が、はるか太古の昔から、太陽を崇拝してきたように、彼は日本人は、放射能の前に、平伏せと言うわけだ。私たち日本人は、まるで、四国八十八ヶ所巡りの、お遍路のように、福島第一に、必ず、一生に一度は、福島第一という

  • ご本尊

に巡礼に行かなければならない、と言う。そして、そこで、放射能という、霊験あらたかな「効能」ある、呪い(まじない)として、福島第一の大量の放射能を体に取り込むことで、「日本人として信心深い」、より愛国心の強い殉教者として扱われる、と。
西尾維新の、<伝説>シリーズが、四国を舞台にしているのは、偶然ではない。彼は明確に、3・11以降の、原発を止められない日本を「風刺」している。四国は<観光>としての地域として描いておきながら、

  • 住民が誰もいない

という反語は、言うまでもなく、福島第一周辺の、避難地域に「だれもいない」ことのパロディなのである。)
この、「放射能教」に足りないのは、「巨大仏像」だ。奈良の大仏のような。それが、言うまでもないであろう。福島第一原発復興計画なるものの(きっと、彼らは、福島第一原発を「再建」して、再度発電事業を始める「復興」を目指しているのであろう orz)、岡本太郎太陽の塔を模した、醜悪なオブジェだ。私たちは、あれを目指して、聖地巡礼をさせられるようになるのであろう。
無宗教だった日本人は、この「放射能教」によって、「放射能は体に良い」と、毎日、<健康のため>に、放射能を取り込むことを「宗教教義」として、イスラム教徒が毎日メッカに向けてお祈りをするように、放射能の入った「聖遺物」を体に取り込む、というわけだ。
言うまでもなく、「放射能」は、<男(おとこ)>の象徴である。マッチョな連中が、太陽にあこがれるように、彼らは、放射能で、まるで、子どもの火遊びのように、キャッキャ、キャッキャ、とはしゃぐ(石原元都知事が、原発好きなのは有名だ)。つまり、原子力は「家長」そのものなわけだ。日本において、「家長」とは「偶像崇拝」だ。天皇は国の「家長」であり、日本の右翼が天皇が男性であることにこだわるのは、ここにあるわけで、

  • 家長=天皇(日本国の家長)=アマテラス(天の家長=太陽=放射能

となる、と(右翼の理屈の中で、アマテラスは男になっているのであろう orz)。
前回、アニメ「少女革命ウテナ」について書いたが、あのアニメは、主人公のウテナが、王子様にあこがれる少女が、王子様に守られるお姫様になろうとするのではなく、

  • 自分が王子様になろう

とするという、どこか逆説的な話であった。つまり、あのアニメは、一種の「男性優位社会」に対する、ウテナの<抵抗>を意味していたわけである。それに対して、姫宮アンシーは、その「男性優位社会」を

  • 現実

として、従順に従う、日本の女性たちの「象徴」である。姫宮アンシーが気持ち悪く、人々に、吐き気をもよおさせるような、醜悪な嫌悪感を与えるのは、彼女があまりにも、日本の「男(おとこ)」に従順であり、この社会構造に対して、

  • なにもかもを、あきらめている

からであろう。
このように考えたとき、掲題の小説は非常に重要なことが分かってくる。

さて、もう一つ、『ウテナ』の世界観に大きく影響を与えたのではないかと、ぼくが推測している作品がある。笙野頼子の小説『レストレス・ドリーム』(一九九二年発表)。確証はないけれど、同書の出版が九四年、『ウテナ』と比較的近い時期であることからしても、影響関係がある可能性は高いと思う。
この小説は、『薔薇物語』と同じく、主人公が見た夢の世界を舞台にしている。彼女は毎晩、夢のなかで自分の分身「桃木跳蛇(ももきとびへび)となり、ゾンビの支配する街「スプラッタシティ」で戦いつづけなければならない。夢のなかで死ねば、現実でも死ぬまで目覚められないのだ。この「スプラッタシティ」は男性優位社会の劇画となっていて、女性である主人公の戦いは、そのグロテスクな秩序を解体する過程とも重なる。
主人公以外の登場人物はほぼすべてゾンビだ。彼とのやりとりは、語の断片をつなぎ合わせ男尊女卑的な文章を作っているだけのもので、論理も意志疎通もない。『レストレス・ドリーム』の魅力は、醸し出される不気味なブラックユーモアにあり、いわゆる人間ドラマは描かれていない。その意味では、こみいった人間ドラマを描く『ウテナ』とはまるで異質な作品だが、世界設定には多くの共通性が見られる。
まず、どちらも閉塞し社会(鳳学園、スプラッタシティ)かの解放テーマとなっている。そのうえ興味深いことに、「スプラッタシティ」を支配するゾンビは「王子」と呼ばれているのだ。また、この「王子」に媚びる共犯者的な女性ゾンビ「アニマ」も登場する。この二人と、それに立ち向かう主人公の跳蛇、という構図が、暁生、アンシー、ウテナに重なるのは言うまでもない。
ウテナ』では暁生とアニマが兄妹とされていたけれど、『レストレス・ドーム』では跳蛇とアニマが姉妹だとされている。二人は敵同士だが、跳蛇は物語の後半で、アニマが王子に捨てられてゴミのようなものになってしまったことを知り、涙を流す。アニマは跳蛇の「シャドウ」でもあるからだ。つまり、夢を見ている主人公の人格のうち、社会の性規範に反抗する面が跳蛇、打ち負かされ迎合してしまう面がアニマにそれぞれ反映されているということだろう。これもウテナとアンシーの関係を思わせる。
またすでに見たように、最後の決闘で暁生はウテナに、君は女の子なのだから「王子様」を目指すのはやめて自分の「姫君」になるべきだ、と持ちかけるが、『レストレス・ドリーム』でも、王子は、ゾンビ特有の関節の外れた言い回しではあるが、一見ものやわらかに、自分に都合のいい規範を跳蛇ん押し付けようとする。

----戦って勝つ......戦いはよくないよ。女性は平和と環境保護に貢献しなくては駄目だよ。それにボクは勝ち負けなんかにこだわらない。ボクは君のことを考えてあげているんだ。
(河出書房『レストレス・ドリーム』p97)

もうひとつの重要な共通点が、作中世界のゲーム性だ。『ウテナ』では、決闘ゲームに勝ち抜くことが「世界を革命する」ための鍵を握っていたが、『レストレス・ドリーム』でも、「スプラッタシティ」から脱出するために、次のようなゲームをクリアしなければならない。

悪役で醜い姉娘の桃木跳蛇は、世界を破壊して廃墟の女王になり、最後には新世界の蛇と呼ばれなくてはならない。敵はソンビ、アニマ、大寺院、王子、後ろに行く程どんどん強くなります。なお、このゲームはゲーム魔鏡マンダラに繋げて戦いを続行することが出来ます。......最大敵王子を倒すと、新世界を設定するシミュレーションゲームが始まります。さやってみましょう。
(河出書房『レストレス・ドリーム』p132)

見てわかるとおり、この説明テレビゲームのパロディだ。また、王子を倒せば「新世界を設定」できるとあるが、これはようするに「世界を革命する」と同じような意味だか、ここにも『ウテナ』との類似性があるといえる。
似ているところは、これだけではない。ウテナは毎回長い階段をのぼって決闘広場へ向かう(後半ではゴンドラに変わる)。同じように、『レストレス・ドリーム』でも、跳蛇は「階段地獄」と呼ばれるゲームをクリアし、階段の最上階にある「舞台」と呼ばれる広い場所でアニマや王子と対決する、という過程を毎晩夢でくりかえす。

Mの迷宮 『輪るピングドラム』論

Mの迷宮 『輪るピングドラム』論

姫宮アンシーの気持ち悪さは、「ゾンビ」の気持ち悪さだ。「男性優位社会」に従順に従う、姫宮アンシーの行動は、どこか「ゾンビ」に似ている。というか、男社会に安穏と暮す男たちは、そもそも「ゾンビ」に似ているし、その男たちに嬉々として、従順に従う女性たちは、やはり「ゾンビ」にしか見えない。
それぞれに共通しているのは、(カントが強調した意味において)「吐き気をもよおすような生理的な不快感情」をもたらす、ということである。
もちろん、ゾンビたち同士は、そのことになんの感情もおきない。男性優位社会の醜い部分を目の前にしても、むしろ、男である自分が

  • 優位

なのだと自己確認して、「喜ぶ」というわけだ。

ダカラサー、オマエ、ソウイウトコ、素直ジャナイトサー、馬鹿ニナレル女ガホントーニ賢クテサア......軍服めいた上着の、表情だけ妙に幼い中年過ぎの男が、ごましおのチョビ髭を震わせながら、十五歳くりの女ゾンビの、プラスチックで補強された首を絞め続けている。男の前髪はごましおのんまこってりとマッシュルーム形に固まっており、そこからは古臭いポマードの臭いがしている。ゾンビの道徳では女は殺されて喜ばねばないのだが、先程から相手はどう見ても本気で抵抗している。が、そう言われると彼女は苦痛と怒りで顔を引き攣らせながら、なんとか笑い顔を作ろうとする。叫び声じゃないな笑い声なんんと男が威嚇しつつ囁くと必死で、首を横に振った。よく見ると顔立ちは完全に少女なのに首から下は八十歳くらいの男だった。顔も表情はまったく初老である。女のノーはイエスだからな、と、絞めている方は勝手に納得し満足する。被害者の口から流れる血は本物に見える。

つまりは言葉だけで出来た階段世界の、馬鹿女に関するあらゆる文章や単語の集まっている一画である。----階段のただ中で跳蛇はともかく戦うしかない。絞殺を免れて考察の刑に処せられるのである。取り敢えず馬鹿女という単語を使った言葉がどんどん飛び掛って来る。
「馬鹿女だ」----「馬鹿女がいる」----「馬鹿女を殺せ」----「男を困らす馬鹿女だ」----「馬鹿女はどこだ」----「馬鹿女ですって」----「あらっあたしは絶対馬鹿女なんかじゃないわ」----「馬鹿女」----「馬鹿女」----「馬鹿女」----「馬鹿女......」
単なる罵りや噂話ではなく、肉体や生命を脅かす呪いの力を持ち、刃物よりも鋭い断面を光らせ、あらゆる角度から襲い掛かる言葉。まずはありとあらゆる形容が来る。馬鹿女という言葉と接合した、ごく短い階段が大量にばばら降る。
「ミニスカートの馬鹿女」----「パンツスーツの馬鹿女」----「めくじら立てたよ馬鹿女が」----「怒りもしない馬鹿女」----「免許も取れない馬鹿女」----「浮気も出来ない馬鹿女」----「ベンツに乗った馬鹿女」----「本屋に来やがる馬鹿女」----「タバコ吸ってる馬鹿女」
階段の攻撃はどこから来るのか予想が付かない。最初は手に当たり足に当たるそれを払いのけながら、逃げまどう度に落ちて行くしかない。激痛が走る。無意味な音節だったものもいきなり繋がり合って跳蛇を囲む。
いつの間にか一続きの階段の上と下が円形に繋がり、棺桶のように跳蛇を取り囲んでいた。それは、こんあふうに読めた。----
「あらっ、あたしは政治に関心のない馬鹿女どもとは違うわっ、同時にいつでも女である事を忘れたくはないし......」
そいつはくねりなら次第にその円形を薄い楕円に凹ませ、跳蛇を押し潰すように迫って来る。無意識にその中の馬鹿女という組み合わせの一箇所を蹴る。それはばらばらになるが、すぐにまた戻って来ようとする。
避けるだけで精一杯の状態である。避け切れないものを蹴りながら落下を最小限にくい止めるしない。この階段ではいつも、まず馬鹿女というひとつの単語だけを跳蛇はターゲットにする。それは一番多いし、どんな長い階段の中にも必ず一箇所は含まれているのだ。例えば右上ら「男と張り合うような馬鹿女が結局男を駄目にしてしむのです......」で始まって海蛇のようにくねりまくる数百段が飛べば、左下か「資本主義のメスブタ、あの香水の匂いをぷんぷんさせた馬鹿女共」という数十段が急浮上して来る。総ての馬鹿女という単語を、ともかく足が当たる限り蹴り続ける。階段の縁に足を切られぬよう蹴る。文脈は見ない。

日本のアニメは、こういった「男性優位社会」を正当化する女性の「作法」にあふれている。そもそも、男だけで<仲間>とかいって、まるでホモ仲間のように、女が一人もいない集団を作って、「思想」とかいってるのだから、たんに、

  • 気持ち悪い

わけだ。気持ち悪い。吐き気がする。嫌悪感を抑えられない。それしかない...。