井上智徳『コッペリオン』

私たちは、「本音」で話そうとするとき、「方言」を使う。つまり、方言を使っていないということが、それが、

  • 本音

でないことを意味していると解釈する。標準語は、いわば、(公理主義的)論理語だということである。そもそも、公理主義は、違った出自の人たち同士で、意志疎通をする場合の

  • 自明

という形による、説明の省略から起きる「誤解」を避ける狙いをもって、普及してきた作法だと考えられる。
しかし、言うまでもなく、言葉とは、私たちが毎日の日常の中で、日々使っている「何か」であるわけで、ということは、言葉の「目的」が、たんなる、論理的推論の「正しさ」だけに求められることは、おかしい。
私たちが言葉を話すとき、そこには、もっと多くの意図が込められている。相手の体調を気付かっていたり、自分の弱さをちょっとさらけだして、理解してもらいたがったり。
むしろ、言葉とは、そういった論理的「構造」の合間をぬって、それを媒体として、

  • 感情

を吐露するものであると考える方が、正しい。言葉は私たちが生きる

  • その場所

に、そのままある。生きるということ、そのものであるわけで、この二つを区別することはできない。
はるか昔に学校を卒業してから、まったく、学校という所と縁のない生活をしているが、よく考えると、学校という所は不思議なところだ。
子供は学校に行かなければならないだろうか? もし行かなければならないと言うとするなら、イジメなどで、学校に行けなくなった子供は責められなければならない、ということになってしまう。
じゃあ、行かなくていいということになると、今度は、では、なぜ子供は学校に行っているのかが不思議になる。実際、明治時代の貧しい農家の子供たちは、家の手伝いをしなければならない事情もあり、学校に行かないケースも多かったわけで、つまり、当時はまだ、その「自明」性が薄かったわけである。
学校の特徴は、行き続けていると、そこでやっていることが分かる、ということであろう。つまり、授業をさぼると、そのさぼった時の内容がテストに出題されれば、当然、それに答えることはできない。しかし、しょせん、学校が教えていることなど、教科書に書いてあるのだから、そこまでして、学校に行くという「行為」に意味があるのかと言われると怪しくなってくる。
しかし、長い人生の中で、あれほどの大人数の同世代を、同じ場所に集めるという行為は、ほぼ

  • ありえない

というくらいに、めずらしい、<貴重な>時間であることが分かってくる。
大人になると、基本的に、人々は、「自分の都合」で生きている。今日やりたいことがあれば、勝手にやるし、そういった行為が他人と「同調」していなければならないなんていうルールはない。
みんな、独立自尊で勝手なことをやっている。でもそれが、大人ということである。
そのように考えると、学校という制度が、人々の情操教育において、非常に重要な役割を果している、ということが分かってくる。
人々は、そこに集められることで、その同世代の人々は、

  • お互い

を知るようになる。お互いが、どういった「特徴」をもっているのか。どういった、自分との違いがあるのか。
以前、ミハイル・バフチンドストエフスキー論について考えたことがあるが、ドストエフスキーの小説の特徴は、その登場人物たちが、それぞれの

  • 視点

から考え行動し、対立していることで、それらを統一した視点から

的に、語ろうとする<思想>のようなものを見つけられにくくなっているところではないだろうか。

ドストエフスキーの関する厖大な文献を読んでいると、そこで問題にされているのは長編小説や短編小説を書いた一人の作家=芸術家のことではなくて、ラスコーリニコフとかムィシキンとかスタヴローギンとかイワン・カラマーゾフとか大審問官とかいった、何人かの作家=思想家たちによる、一連の哲学論議なのだという印象が生まれてくる。文学批評家の頭の中では、ドストエフスキーの創作は、彼の主人公たちが擁立するそれぞれの別個の、相互の矛盾した哲学体系に分裂してしまっているのである。作者自身の哲学思想は、そこではけっして中心的な位置を占めているわけではない。ドストエフスキーの声は、ある研究者にとっては彼のあれこれの主人公たちの声と融け合っており、別の者にとってはそれらすてのイデオロギーの声を独特に総合したものであり、さらに別の者にとっては、結局はただ他の者たちの声によってかき消されてしまうのである。人々は彼の主人公たちと論争し、あるいは彼らに学び、あるいは彼らの思想を完結した体系にまで発展させようと試みる。主人公は、そのイデオロギーに関しては権威ある自立した存在であり、自らの確固としたイデオロギー概念の創作者として受け止められているのであって、作者ドストエフスキーの総括的な芸術ヴィジョンの生んだ客体として捉えられているわけではない。批評家たちの意識にとっては主人公の言葉のまっすぐで掛け値のない意味が小説のモノローグ的な平面を斬りさき、直接の答えを要求しているのである。あたかも主人公は作者の言葉の客体ではなく、れっきとした価値と権利を持った自らの言葉の担い手であるかのように。
B・M・エンゲリガルトは、ドストエフスキーに関する言説のこのような特性を、次のようにきわめて正確に指摘している。

ドストエフスキーの作品に関するロシアの批評を読んでいてすぐに気づくことは、少数の例外を除いて、批評がお気に入りの主人公たちの精神的レベルを越えていないことである。批評が当面の批評対象を支配しているのではなく、批評対象がすっかり批評を支配してしまっているのだ。批評は依然としてイワン・カラマーゾフラスコーリニコフやスタヴローギンや大審問官に学ぼうとして、主人公たちを困惑させたのと同じ矛盾に困惑し、彼らが解き得なかった難問の前で立ちすくみ、複雑で苦悩に満ちた彼らの経験に対してうやうやしく頭を下げていのである。

J・マイヤー=グーフェも同様な観察を行なっている。

いったいかつて『感情教育』[フローベール]の中の無数の会話の一つに自ら参加しようと思い立ったような者がいるだろうか? しかるにラスコーリニコフとは我々は議論を交わす。いや彼のみではなく、どんな端役ともだ。

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

ドストエフスキーの小説には、多くの人物が登場し、彼らはみな、それぞれで、独特の「思想」をもっていて、それらは、当然、

  • 対立

している。実際に、作品内で、論争をしていることもあるが、大事なことは、それらが、少しも「統一」されていないことである。
しかし、よく考えてみると、人それぞれ、言っていることが違うのは、当たり前なのだ。だって、人それぞれ、出自も違うし、考えてきたことも違うのだから。それを、

  • この考えでない他人は「馬鹿」だ

と言い始めたら、全員が「同じ」になってしまう。つまり、「フラット」になってしまう。
掲題の漫画では、2016年10月2日に、東京の御台場にあった、新都電力台場原子力発電所の爆発によって、東京都民の90パーセントが死に、東京がゴーストタウンとなった、その20年後、2036年10月1日に、成瀬荊(なるせいばら)、野村タエ子(のむらタエこ)、深作葵(ふかさくあおい)の三人の女子高生が、大阪から、東京に到着したところから、話は始まる。
彼女たちは、自らを「人間ではない」と自称する。それは、彼女たちが、科学者たちによって、作られた

  • クローン

であることを知っているからである。物語の設定として、20年後の東京においても、東京は、重度の被曝をする箇所が多くある、マスクなしで生活するには危険なエリアとされていて、普通の人間でマスクなしで、行動している人はいない。しかし、そんな中、彼女たちは、マスクもせず、学校の制服のまま、この高濃度汚染地帯を歩いていく。それは、彼女たちが、人体改造によって、放射能に対する「耐性」があるとされているからである。
以前も書いたことがあるが、そもそも、人間が放射能に対して耐性をもつことは不可能である。というのは、この反応は、人間が今まで慣れ親しんできた、通常の「化学反応」とは、まったく異質の性質のものであるからである(このことは、人間がはるか未来においても、宇宙で生活することはできないことを意味する)。
だとするなら、私たちは、この物語設定を「嘘」「矛盾」と考えるべきであろうか。彼女たちは、その他にも、さまざまな超常能力をもつ設定と共に、最初から子供を産めない体であることや、ある日、突然死にみまわれることが、知られているなど、彼らの負の性質も認識されていることで、なんらかの設定上の「バランス」をとっていると考えられるかもしれない。
しかし、作品の最初の方で描かれていたように、彼女たちは東京に隠れて住む人間たちによって、

  • 天使

として見られる。つまりこれは、なんらかの「比喩」として読まなければならない、ということである。本来、彼女たちコッペリオンは存在しない。しかし、私たちは、どうしても、この廃墟と化した土地に、彼女たちコッペリオンの存在を見ずにいられないのだ(そうでも妄想しなければ、あまりにも、理不尽に思えてしょうがないからだ)。
この作品において、なぜ、この東京の原発が事故を起こしたのかを、当時の現場の技術者が述懐する場面がある。

五次郎:お台場原子力発電所。当時、私は、あの巨大施設の現場チーフを任されていたんだ。ところが......。表向きの、クリーンな印象とは異なり、内部の実情はひどいものだった。国は年間、莫大な予算を原子力に投じてはいたが......。本来、安全対策に遣われるべき費用のほとんどがカットされた。噂では、利権に群がる官僚や政治家たちにむしり取られ......。意味のない公共事業(ハコモノ)へ回されたとか------。果ては原子炉の管理業務までもが外部へ委託され、会社の人間は1人また1人......。危険な現場から立ち去っていった。その時思ったよ。これがこの国のシステムなんだってな。とっくに歯車は壊れていたんだ。にもかかわらず......、誰もが見て見ぬフリをし続けた。そのツケが......あの原発事故だったというわけさ......クク! そう......私も------私も歯車の一部だった。原子炉の定期点検は金がかかる......だから......社の命令で回数を大幅に減らしたんだ! そのせいであんなことに。あれは......あの事故は人災だったんだ!!
遥人:五次郎さん。あなたは------あなたは最後まで残ったんですね? 危険な現場にただ1人......。

遥人:確かに今後......世界中で災厄が繰り返されるかもしれません。だからこそ、五次郎さん。あなたの力が必要になるんです。
五次郎:私が......なんでだ?
遥人:あなたならできるはず......たとえどんなに危険な現場であろうと......そこから逃げずに立ち向かう......そんな勇敢な人がいるならば------もうあんな事故は二度と起こらない......だからこそ今度こそ五次郎さん。あなたが人類を救ってください!!

五次郎が、今も東京にい続けているのは、自分に向けられる人々からの当然の責めを、東京にいる限り、受けなくて済むからである。このように、なぜ、ゴーストタウンと化した東京に、20年近く生活している人たちがいるのかには、さまざまな事情がある。そして、そういったさまざまな諸事情の中を生きている人々を、統一的に解釈する、超越点は存在しない。
しかし、だとするなら、彼らを「救う」、東京から救出するという、成瀬荊(なるせいばら)の情熱には、どんな意味があるのか。一つだけはっきりしていることは、彼女の言葉を聞き、多くの東京に暮らしていた人たちが、実際に、彼女と共に、東京を脱出することを目指すことに「情熱」をもつようになる、ということである...。

COPPELION(1) (ヤンマガKCスペシャル)

COPPELION(1) (ヤンマガKCスペシャル)