前島賢『セカイ系とは何か』

私事でなんだが、つい最近、桜庭一樹の小説の漫画化の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を読んで、少し考えさせられた。もちろん、この原作については、けっこう以前に読んでこのブログでも、それなりに考察をさせてもらったのだが、私がここで言いたかったのは、

  • 電波系

であり、

として、この作品は読まなければならない、といった側面についてであった。私がなぜ今さら、この作品について考えてみようと思ったかについて、今アニメ化が放送されている、『四月は君の嘘』における、主人公の有馬公生の、その亡くなった母親に対する「トラウマ」について考えていたからである。そして、中二病と言えば、アニメ「AURA」においてはそれは、「いじめ」との関係で語られていた。いずれにしろ、ここにある「関係」について、考えてみたい、と思った、ということである。
さて、掲題の本についてであるが、私はなぜこの本には「電波系」とか「中二病」という言葉があらわれないのかな、という非常に素朴な疑問をもった。なぜ私がそう思ったのかと言えば、つまり、これは「何が批評的な態度なのか」に関係している。

そもそも、『エヴァ』を制作したガイナクスは、ダイコンフィルム、ゼネラスプロダクツというアマチュアとしての、一オタクとしてのファン活動が高じて、1987年『王立宇宙軍 オネアミスの翼』というアニメ映画でプロとなった映像集団である。彼らの作風について、マンガ編集者、評論家のササキバラ・ゴウは『教養としての<まんが・アニメ>』のなかで、

ガイナックスは、マニアックな会社として知られる。そのマニアックさは、単に作ったものが凝っていることだけではなく、おたくと呼ばれる層に「同類意識」を持たせる種類のものだという点で、他のアニメ制作会社と大きく違っている。
(中略)
ここにあるのは、子どもに見せるという意識ではなく、自分たちの仲間の目を意識して、彼らに「すごい」と言わせたいという感覚だ。
おたくによる、おたくのためのアニメ。それがガイナックスのスタートラインであり、この会社の本来の力なのである。

と評している。だから、もし当初の路線通り『エヴァ』が完結したとしたら、後に「エヴァっぽい」作品を意味するセカイ系という言葉が誕生うることもなかったし、そしておそらくセカイ系と名指された作品のいくつかも生まれなかったずである。

私は、いわゆる「おたく」という概念はダメなんじゃないのか、と思っている。それは同じく「セカイ系」や、同じようなものとしての「ゼロ年代」というのもダメだと思っている。
なぜダメなのか。
それは、一言で言えば、「中の人」による「印象批評」だから、ということに尽きるであろう。結局のところ、なぜ、「オタク」であり「セカイ系」であり「ゼロ年代」であり、といった言葉が、

  • 結局のところ何が言いたいのか分からない

のは、これらの言葉を「使っている」のが、実際に自分を「オタク」と呼んでいる人であったり、「セカイ系」という言葉によって、なにか積極的なことが言えていると思っている「オタク」自身であったり、同じように「ゼロ年代」という表象に「意味がある」と思っていて、実際にその言葉を、積極的な意味で「自分で使ってしまっている」人たちの

  • 自己弁護

の用語になり下がっているからであろう。
例えば、上記の引用は非常にさりげなく指摘をされているが、ここでの「オタク」の定義は、非常に典型的な、柄谷行人が「探求」において批判した「共同体」そのものの特性をあらわしていることが分かるのではないか。
つまり「オタク」的コミュニティには、<外部>の視点がない。ウチワのコミュニティの傷の舐め合いのような様相をぬぐえないわけである。

すでに紹介したように、岡田が定義するオタクの態度には、作品を、一歩引いて客観的に、シニカルに眺める視点が必要である。
そんな「エリート」としてのオタクの視点からすれば『エヴァ』の終盤の展開は「制作スケジュールが破綻してメチャクチャになった作品」として笑うべきものっである(実際、岡田は『オタク学入門』のなかで、業界事情に精通することをオタクの条件のひとつにあげている)。

ここで「オタク」は「エリート」であることを意味しているわけだが、このことは逆に言えば、「エリートは、どこかしら<共同体主義者>」といった特徴があることを示唆しているとも考えられるであろう。
オタクたちの語っていることは、まさに「オタク共同体」の中でだけ通用する「ジャーゴン」であった、外の一般社会では、そのハイコンテクストは理解されないだけでなく、それらの「ジャーゴン」は、外の世界からの厳しい「批評」の洗礼を受けてこなかったために、どうしても「概念のグズグズさ」が目立ってくる。つまり、それらのジャーゴン

  • 自分が相手に印象付けたい何かに誘導するためのツール

になり下がってしまい、「結局何が言いたいのか分からない」印象がどうしても拭えない、というわけである。

たとえば評論家の大塚英志は、最終話放送直後の1996年4月1日に『読売新聞』紙上で、

小出しにされた謎や設定の大半が解明されなかったことは百歩譲って仕方ないとしよう。
(中略)
全登場人物に囲まれて、自分を発見した主人公シンジが拍手され、人々は口々に彼に「おめでとう......」と言う。このラストシーン、思い当たる人もいるだろうが、自己啓発セミナーのカリキュラムの最後と見事に同じなのだ。

と厳しく批判している。

私は世間では、エヴァンゲリオンについて、さまざまな議論がされてきたことを認めないわけではないが、完全にこの一言に尽きていると思っている。エヴァは間違いなく「自己啓発セミナー」として

  • 消費

されてきた。彼らがエヴァに「読み込もう」とした、「過剰な意味」は、完全に「自己啓発セミナー」と同型であった。そして、「自己啓発セミナー」は「オタクコミュニティ」の性質(=エリート性)と非常に関係している。むしろ、彼らが真面目に考え、考察すべきだったのは、ねずみ講であり、自己啓発セミナーであり、こういった「マーケティング」的手法の、野蛮な手口への懐疑を可能にする地平についてであったのではないだろうか。
エヴァはよくできた

であった。つまり、マーケティング的によくできていた。だから、「オタク共同体」のエリートたちは

  • 安心

してエヴァについて語ったわけである orz。
しかし、エヴァには、そういった「オタク共同体」的な「ナルシシズム」しかなかったのか、そういったものの「外」にでる可能性はなかったのか?

しかし一方で本書は、ハルヒ自身が作中で「萌えよ、萌え!」と自己言及的に語るように、ポスト・エヴァのもうひとつの(そして主要な)パラダイムである、萌えのフォーマットにも忠実な作品である。同シリーズでもっとも人気を集める長門有希というキャラクターは、あきらかに『エヴァ』の綾波レイの系譜を受け継ぐ存在だ。

エヴァの「可能性の中心」は、綾波レイの「外部」性にあった、とは言えないだろうか。それは、ハルヒにおける長門有希という外部についても考えられる。この二人の登場人物の特徴は、徹底した「不透過」性にある。周りの登場人物は、多くの場合に、簡単に「感情移入」を許さない彼らの「外部」性に、常に「ぎくしゃく」した緊張感を与えられる。それを、上記の引用では

  • キャラ問題

としている。しかし、「キャラ」とは上記の文脈で言うなら、「共同体」の中で通用する「共同体」を活性させ、「共同体」の中で消費される「ジャーゴン」である。つまり「キャラ」は絶対に他者に出会わない。むしろ、綾波レイ長門有希に指示されている

  • 外部

に出会わないために、その外部性を「共同体」の中に内部化するために、「キャラ」という「記号化」が

  • オタク共同体

によって行われるわけである。
私は上記において、「オタク」「セカイ系」「ゼロ年代」といった言葉が、まったくの批評性をもっていないことを強調してきた。それは、これらの言葉が「中の人」である、当事者自身による、「自己定義」として流通しているために、どこかナルシシズム的な「無定義性」を抱えているからである。
それに対して、明らかにそれらの「対局」にある言葉として現れたのが、「電波系」であり「中二病」だと考えている。
なぜ後者が重要なのか。それは後者は、

  • 他者による「定義」(=嘲笑的な対象との距離)

をもっているから、である。つまり「客観的」なのだ。
ようするに、私は、

と言いたいのである。前者の「オタク」「セカイ系」「ゼロ年代」とは、当事者たちが「自分かっこいい」と自己イメージができる「<自称>用語」だとするなら、それを、少し距離を置いて眺めている<他者>からは、「電波系」「中二病」に

  • 見えている(=「<他称>用語」になっている)

という構造になっているのであって、

  • その二つは「まったく同じ」ことを指示している

と私は言いたいわけである。もっとはっきり言えば、「電波系」「中二病」という「客観的用語」の登場によって、始めて、オタク、セカイ系ゼロ年代とは「何か」が

  • 定義

された、と私は考えているわけである。
言うまでもなく、綾波レイ長門希有は「電波系」であり「中二病」である。しかし、人々はそう言われると驚く。それは、「電波系」であり「中二病」を一種のネガティブなものと考えているからで、もっと言えば「キャラ」と考えているからで、そういったカテゴリーに対してうまくあてはまらないからなのだ。
こういった視点で、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』をあらためて見直してみると、この問題が集約して現れているのが分かる。
主人公の山田なぎさの地元の学校に、海野藻屑は、父親のDVにより、体中があざだらけで転校してくる。しかし、逆説的であるが、海の藻屑は父親を虐待されるが「ゆえ」に絶対的な愛情をもっている。それを、山田なぎさの兄は「ストックホルム症候群」と言うわけであり、このキーワードを中心にして作品は描かれる。
この作品は後味の悪い作品である。なぜなら、海野藻屑は父親に殺されるから、である。
山田なぎさにとって、海野藻屑の最初の印象は最悪であった。世界中に人魚がいて(=電波系)、自分も「人魚」だと言いはり(=中二病)、そして、一月後の十月三日に、大嵐がやってくる(=セカイ系)、と彼女は言う。
しかし、次第に山田なぎさが認識していくように、こういった彼女の態度が、彼女が父親から、慢性的に受け続けたDVと非常に関係していたことが分かってくる。確かに、こういった彼女の話すストーリーは、SF的な空想的なものであるが、しかし、なぜ彼女がこのように語らなけばならないのかが分かってきたとき、そこには山田なぎさの抱えるルサンチマンを矮小なものに見させるくらいの

  • リアル

な切実さをもっていることが山田なぎさに迫って感じられるようになっていく。
そして、問題の十月三日、海野藻屑は父親に殺され、山に埋められる。そういう意味では、ここは黙示録的な予言的な発言として解釈される。海野藻屑が山田なぎさに示唆する十月三日に大嵐が来るという「予言」は、同じく前の大嵐において、亡くなった山田なぎさの父親の死を示唆するものであることが分かる。他方において、ここで言う大嵐は、セカイ系的な「このセカイの終わり」を示唆するような、視点がある。つまり、この山田なぎさにとっての、毎日の学校生活という「日常」と、直接に、「このセカイの終わり」という概念が、なんの間接的な媒介を介すことなく、結びつけられる。
作品は、少しずつ山田なぎさが、海野藻屑を理解し受け入れていく過程として描かれる。そして、この因果の不合理に対し抗うには、「逃げる」しかないと、やっと悟り、山田なぎさが海野藻屑との「家出」を決意し、海野藻屑が「山田なぎさがそう言うなら」逃げてもいい、と言うところで、彼女の父親による殺害によって、作品は終わる。
アニメ「AURA」における佐藤良子は、その中二病的な様相において、常に「いじめ」との相対的な関係において、そうあることが示唆されている。つまり、中二病はたんなる「選択」の問題ではないわけである。中二病であることと、自分が「いじめ」られることは非常に深く関わっている。つまり、たんに中二病であることをやめられない。なぜなら、それを選択することが、自分が「いじめ」られることには「正当な理由がある」ことを認めることと深く関わっているからである。中二病は、その人の自尊心に関係している。中二病「だから」その人は、「人間」なのである。
四月は君の嘘』における、有馬公生と、母親の関係も間違いなく、「ストックホルム症候群」と言えるであろう。有馬公生にとって、母親が亡くなった今も「あらゆる」ことが、この母親との相対的な関係によって縛りつけられている。この作品は長い時間をかけて、母親の亡霊から、距離を起こうと「あがいて」いく物語だと言えるであろう。有馬公生にとっての「電波系」であり「中二病」とは、ピアノを弾かずに、安穏と日々を過している、その逃避の形態そのものにあると解釈できるであろう。
多くの作品は、この構造を反復しているようにも思われる。
このように見てきたときに、むしろ「セカイ系」とは、電波系であり中二病における「リアル」かつ「深刻」な問題における派生的な属性であることが分かってくるのではないだろうか。つまり、どこに、この問題の「本質」があるのか、と問うことの必要性が問われているわけである...。