ファシズムと対決する「国民主権」

戦前の大日本帝国と戦後の日本の違いを、憲法に求めるなら、主権が天皇から

  • 国民

に移ったことと言うことが単純であろう。しかし、ここで主権が「国民」にある、という意味はどういうことなのだろうか? なぜなら、国民とは「複数」を特徴にしているわけで、複数の主体が「日本」の主権であるとは、何を意味しているのか?
これをルソーの一般意志に対して、ハンナ・アーレントが批判したように、そのルソーの一般意志を、なんらかの意味の「全体主義」として解釈するなら、ここで言う「国民主権」は、法律に媒介されることで、

  • 国家官僚共同体

が「国家の主権」だと、ルソーは言っている、とも解釈できるであろう。それは、法律とは、この国家の「意志」が唯物論的に結実した「社会契約」と解釈されるからだ。ただし、その場合、一つの条件がある。それは、

  • 国家官僚は「法律を守る」

ということである。つまりこれは「条件法」の構造になっている。もしも、国家官僚というものが、「法律を守るならば」、国家官僚が国家の「主権」である、と。
これに対して、ハンナ・アーレントは、ルソー批判の延長において、つまり、それを「全体主義」として批判した、というわけである。なぜ、国家官僚共同体が、国家の「主権」だと言ってはならないのか? それは、そもそも

  • 国家官僚「ならば」法律を守る

という命題が、たんに「偽なる命題」だからだ。それは、国家官僚が常に、法律を破っていることを意味しているのではなく、絶対に守っているということを保障するものはなにもない、という意味で。
そのように考えてくると、おそらく、ここにおいて最も重要なポイントは

  • 「国民」主権

という最初から、国家の主権が「国民全員」に分散されており、その軽重の区別がされていない、というところにポイントがある。
どんなに最難関の大学に受かった「エリート」でも、高校中退のヤンキーでも「同じ」割合において「国家の主権」を媒介している、というところにある。
こうやって考えると、国民主権とは、まさにカントの純粋実践理性批判における、「他者をたんに手段としてでなく目的として扱わなければならない」という命題に、必要十分に対応していることが分かるのではないか。
ようするに、どんな田舎の、なんの価値もないように思える一般の庶民も

  • 同等

の主張する「権利」のある存在として扱わなければならない、というのが、「国民主権」の意味だ、ということになるだろう。
しかし、である。
一般に、エリートたちはこの「猥雑さ」に耐えられない。受験勉強の回答が常に、正解か不正解の二択であるように、このような複数の主体によって、重層的に意志が決定されるということが、なにかの矛盾のように思われる。なぜ、受験問題を間違え続けるような連中の話を真面目に聞かなければならないのかが分からない。頭の悪い連中に、国家の意志決定に関わる権利などあるわけがない。無能な連中が関われば関わるほど、国家の

  • 純粋

な「意志」が穢れるw 国家が「完璧」であるとは、完璧な頭脳が、まるで受験問題を全問正解するように、結論づけるものでなければならない。
そういう意味では、エリートは「独裁」以外の政治を認めない。独裁でないものは、意志が「汚れている」と考える。
私は戦後民主主義は、そういう意味では十分な役割を果たしてきたのではないか、と思っている。
戦後政治の特徴は、まさにこの「国民主権」に現れている。
まず、国民は自らの一切の「主権」を、国家の代表(与党)に与えることができない。それは、ヒットラーナチス政権の失敗を教訓にしているわけで、全権委任法は「憲法違反」であることを意味している。時の与党に与えるのは、次の選挙の間までの、政策実行の権限に過ぎず、その期間を過ぎで、次の選挙で負ければ、また別の主体が、次の政策を考える、という「からくり」になっている。
つぎに、国民は必ずしも専門的な細かい事実を知っているわけではない。つまり、国民が「選んでいる」のは、そういった専門の細部ではない。国民が求められているのは

  • 自らの社会的な立ち位置から、そういった政策集団が構想している政策の「ポジション・トーク」が、どこまで、フェアだと判断できるか

というポイントだと言える。いくらエリートが大衆を差別する政策を作っても、選挙で「庶民いじめ」の政策の「臭い」をかぎわけられたら、エリート・マニフェストは次々と落第点をつけられる。明らかに、民主主義政治は、こういった「政策の質」のチェックにおいて優秀さを発揮してきた。
これは、なかなか興味深い課題だと思っている。つまり、この「集合知」は、逆説的だが、より

  • 多様

でればあるほど、その決定の「品質」を担保する。よって、ここに「国民主権」の肝がある。

  • 国民の全員

が、完全に平等に(フェアに)、その政策の決定に「関わる」というところが興味深いわけである。この決定において、一切の学歴に差をつけない。中卒だろうが、高校中退だろうが、学者さんだろうが、平等に「決定」に関わる。
ここで、議論の目先を少し変えてみたい。
伊藤計劃の「ハーモニー」は、今読んでもとても示唆的で考えさせられるのだが、ようするに「管理社会」ということが、実際に、現実味を帯びてきた現代において、どのように考えたらいいのか、についてなわけである。
国民はこの国に産まれ、この国の戸籍を作る。
つまり、この国の国民になったわけであるが、だとするなら、どうであろう? 私たち国民が「生き延びる」ことを、国家は保障すべきだろうか?
もしも保障すべきと考えるなら、そこには必然的に「管理社会」があらわれる。なぜなら、国民が「死にそう」であるというアラートを国家はキャッチできなければ、国民の生存を国家は保障できないからだ。
しかし、そうした場合に、ここで言う「管理社会」とは、すでに上記で検討した

  • 全権委任法

によって少しずつ侵食されていることを意味するわけである。
「管理」とは、だれかがだれかを管理する、という意味である。つまり、国民を管理している、なんらかの「主体」が想定されている。それは、コンピュータなのかもしれない。いずれにしろ、この

  • 主体

は、私が「死にそう」となったときに私の「生の文脈」に介入する「権利」が与えられていることを意味している。つまり、この「主体」には、そういう行為を行う「権利」をもっている。つまり、国民はその「権利」を、その「主体」に移譲している、ということなのだ。
そうして少しずつ、私たちがもっている「主体」性は、その「管理システム」に移譲されていく。
例えば、こんな例について考えてみよう。
私たちが夏休みを利用して、山にキャンプに行こうとしたとする。ところが、この「管理システム」は、私たちの生命を維持することを、一定の割合で「権限」として与えられている。つまり、私たちは、山にキャンプに「行ってはいけない」ということになる。なぜなら、山は危険だからだ。一定の割合で、死ぬようなトラブルに巻き込まれる可能性がある。そうである限り、「管理システム」は、それだけ、国民の生命の維持を保障することが難しくなる。
当然、海にも行けないし、スポーツもできない。ロケットを作って宇宙に行くなど、なおさら無理、というわけであるw
まさに、伊藤計劃が「ハーモニー」で描いた「管理社会」である。お酒を飲んではならない。食事の趣味をもってはならない。絶対に、体に良いものしか食べてはならない。早寝早起きしなければならない。健康的な、日々の体のトレーニングをしなければならない。当然、毎日本ばかり読んでいてはならない。なぜなら、

  • 不健康

になるから。ナチス・ドイツがしきりに国民の「健康」にこだわったのも、これである。
国民が健康であれば、その分、国民が医者にかかるお金を国家は「節約」できる。よって、国民は「健康でなければならない」というわけである。太っていることは「悪」だ、というわけであるw 太っていることは、「非国民」であることを意味する。管理社会が最初に行うのが、この「非国民」の摘発と駆除である。
管理社会ということは、国民の全ての一挙手一投足を国家は「見ている」わけである。つまり、すべて記録されている。反国家的な行動や思想は、この「管理社会」においては、すべて「記録」されているのだから、反乱分子は必然的に、摘発される。
国家が国民を「管理」する、とはどういうことでしょうか?
まず、国家は「国民の模範」を、抽象化する。
天皇陛下のために、毎朝、何時間も、お祈りを行っている国民が「理想化された国民」である。まさに、二宮金次郎というわけである。国民は、この「金太郎飴」の通りに行動

  • しなければならない

となる。なぜなら、「それ」が国民の「理想」なのだから。理想通りに行動しない国民は、

  • 非国民

である。なぜなら、それによって、本人が「不健康」になることは、その分だけ、国家に税金の投入という形で、国家の迷惑となるわけだから、理想的な国民なら、「模範通り」の行動をしない「わけがない」というわけである。
まあ、

というわけですよね。ようするに、これが「エリート主義」なんですよね。エリートは頭がいいから、理想的なベストな解を、すぐに算出する。エリートはこれが正しいことを知っているから、ここから離れてしまえばしまうほど、それを「ノイズ」として無視する。すると、何が起きるか?
あらゆることが「金太郎飴」になる。つまり、この「金太郎飴」から遠いか近いかの差でしかなくなる(まさに、「フラット革命」であるw)。
怖いね...。