人命第一と「国民主権」

北海道の児童置き去り事件は、なんというか、なぜ自衛隊は自分たちの施設をまず最初に疑わなかったのか、という謎は残ったが(なんらかの縄張りが、自衛隊内部にある、ということなのだろう)、ひとまず、無事救出されてよかった。
ああいった行為を親が「しつけ」なのか、については、いろいろ議論があるようだが、ようするに、私が子どもの頃も、「これをまたやったら、今度は家に入れません」とか、そういうことはよく言われたし、何度も言うことを聞かなければ、親も「なめられる」と考えて、一生に二、三度くらいは、家の外に出されて、鍵をかけられる、ということがあったように思う。まあ、だからといって、遠くまで旅立ったりはしないものだが。
最近の親だって、こういったことは子どもに言っているはずだし、そういった文脈の中で、今回の「行き過ぎた親の行為」もあったはずなのだから、あまり、どうこう言ってもしょうがないようには思う。この親の行為が「児童虐待」になるのかどうかは、そういった専門家が、一定のルールにあてはめて判断するしかないわけで、他人がどうこう言う話でもないのであろう。
最近起きた、地下アイドルのストーカーによるナイフ事件については、むしろ、専門家がわざわざ

と言っていたことが印象的だった。

--今回の事件で、ツイッターのブロックやプレゼントの送り返しは、加害者の感情を逆なでさせてしまったのでしょうか?
決定的だったのは、ツイッターのブロックだと思います。加害者はその前に「なぜブロックしないのか」という内容の書き込みをしています。あれは、「ブロックされたくない」という心理のあらわれでしょう。ブロックされるのが恐いんです。ところが、本当にブロックされて、絶望的になったんだと思います。
一般的にいっても、ストーカーに対して着信拒否やブロックをしてはダメです。着信拒否するなら、その前に別の連絡窓口を作っておいたり、ツイッターをブロックするならツイッターそのものをやめないといけない。
他の人にはリプライしているのに加害者だけを無視している状況でした。書き込み内容からして仕方ないのですが、加害者からすれば、どんどんストレスがたまっていく状況。ブロックは良くなかったと思います。
--プレゼントについては?
プレゼントも渡されたときに、受けとらないでほしかったです。そうでなければ、送り返すときがチャンスだったと思います。可能であれば、彼女ではなく、誰か別の人が、直接プレゼントを返す。その際に注意をするという方法です。
「贈り物はいただかないことにしています。でも、あなたがあまりに熱心なのでいったん預かりました。が、そのあとあなたからの返信の要求や感謝が足らないなどの苦情が強くなってしまい、彼女も実はずっと苦しんでいるのです。プレゼントはお返しいたしますが、これは悪意ではありません」と説明してあげたら、自分は歯牙にもかけられていないという渇望感が少しは癒えるし、本当は好きなのだから反省も期待できます。
いずれにせよ、窓口を開けるというのは非常に大事です。プレゼントだけ送り返したら、「迷惑だ」「嫌いだ」「眼中にありません」というメッセージのように伝わってしまう。それは、相手を怒らせてしまいます。
ただ、被害者のほとんどは、初めてストーキングを経験する人です。こうした指導・アドバイスできる人が回りにいればよかったと思います。とても残念です。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00004696-bengocom-soci

ようするに、この専門家が言っていることは、この事件は「ストーカー事件」なんだ、という前提がある。つまり、この専門家が何を言っているのかを正確に理解する必要がある。まず、今この時点において、ナイフ事件が起きてしまい、ツイッターでブロックした人はナイフで刺されてしまった。言うまでもなく、その全責任は、加害者にあるとしても、そうやって被害を受けてしまえば、このように、被害を受ける。ストーカーを逆上させれば、このような結果が想定されうるとするなら、被害者の「合理的」な行動としては、できるだけ、ストーカーを刺激すべきではなかった、とも考えられる。
この「専門家」が言っていることは、「あるべき論」ではなく、人が

  • ストーカーとなったときの「心理状態」

を説明している。人間がストーカーになるとは、どういった心理状態になることなのかを説明している。確かに被害者は怖かったのだろうが、ある一定の割合で人間がストーカーになる「確率」があるとするなら、そういった「心理状態」になってしまった相手とどのように対峙することが「合理的」なのかは、また別だ、ということなのだろう。
この二つの事件について、一般にそれほど騒がれていない理由は、ようするに、この二つは典型的な昔からある事件だった、というところなのではないだろうか。
ようするに、この二つの加害者と被害者は、昔からの長い「ハイコンテクスト」を踏まえた上で、つまり、なんらかの「痴情のもつれ」によって、行きがかり上、もう「こうするしかない」と一方が考えを突き詰めすぎたことが原因だ、と。
言わば、こういった事件は私たち「一般の人」でも、なんらかの「心理的な行きさつ」によっては、ならないとも限らない。
ストーカー事件も、加害者は何度もナイフをふるっているのに、明らかに急所を避けている。しかも、犯行後、自分で警察に通報しているというわけで、なんと言うかな。両方に共通して、(起きた事実の悲惨さに比べて)非常に「人間くさい」結果だったという所に特徴があって、なんていうかな。日本というのは、しょせん起きても、このレベルの「事件」なんだよなー、平和だなー、といったところだろうか。
なぜ、こんなことをつらつらと書いているかというと、ちょうと、世紀末において、社会学者の宮台真司さんが提言し、それに呼応するように、東浩紀さんが発言した一連の議論において、その中心的な議題は

  • 脱社会的(東さん流に言えば「動物化」)

というところにあったからなのだ。つまり、通り魔殺人において「だれでもよかった」と答えるような、そういった、ある意味における、「サイコパス」が、その当時において、最も、これからの人類にとっての課題だ、となっていた。
しかし、どうだろう?
こうやって時代が下ってきて、この日本で考えてみても、そういった脱社会的犯罪がほとんど起きていないだけでなく、そもそも、一般的な犯罪自体も非常に少ない。この日本の「平和」の理由はなんなのだろう?
例えば、ISを考えてみても、彼らがあそこまで過激化していった原因には、どう考えても、アメリカのグアンタナモ刑務所や、イラク戦争などの「いきさつ」が関係しれいることは自明に思われる。確かに、彼らの「暴力」は問題ではあるが、彼らの「主張」は、ずっと昔からのイスラム教における、文脈が意識されているわけで、上記でふれた

  • 脱社会的

と呼べるようなものではない。アメリカや、その他の先進国が、サイクピコ条約以降、自国の利益になると思えば、介入しては、放り投げて、自国の利益だけを目的として、めちゃくちゃに、その地域の共同体を壊してきた「いきさつ」があって、その延長の、この地域の暴力連鎖があることを考えるなら、むしろ、問題は

  • 国家に集中されている暴力の「正当性」

にあるわけで、まったく「脱社会的」の問題ではない。
こうやって考えてみると、明らかに、宮台真司さんも東浩紀さんも、ほとんど、最近は何も積極的なことを言っていない印象を受ける。保守化しているのは昔からだとして、ほとんど「影響力」がなくなっている。というか、なにかを影響させるような、積極的なことをほとんど言っていない。
なぜ「脱社会論」は、ここまで衰退したのだろうか? なぜ、こういった考えは流行しなかったのだろうか? なぜ現実は彼らの「予言」の通りにならなかったのだろうか?
なぜ「ポストモダン」は、まるで流行が去ったかのように、だれも言わなくなったのか?

国家が一人ひとりの生き方に承認を与えるとします。でも、それは日本という国に忠誠を誓えという運動に限りなく近くなります。いわゆる「公」に忠誠を誓い、承認を与えられる臣民たちの集まりですね。だから僕は、国家は生存のみを保障し、承認は保障すべきではないと考えます。リチャード・ローティが「リベラルアイロニスト」と論じていますが、ポストモダンのリベラル社会においてはアイロニーしか倫理として使えません、その場合の「アイロニー」とは、私的な原理と公的な原理を分けるということです。つまり、公的な保障と私的な「よき生」を分ける社会にしていかざるをえないわけです。
それはなぜかというと、僕たちの社会が非常に多元価値的になって、多様な生き方を認めるようになってしまったからです。すべての人間の承認を、社会が一元的に提供することはできなくなりました。だから、個人はそれぞれ、その属するコミュニティで承認してもらって、それぞれの信じるよき生き方を送ってもらう、という方法しかありません。
東浩紀「情報公開型のベーシックインカムで誰もがチェックできる生存保障を」)

ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

ポストモダンとは、アメリカの文脈で言えば、ほとんど、リチャード・ローティのこと、特に、彼の「懐疑論」のことを言っていると考えられて間違いはなかった。上記の引用で、東さんがローティの重要なキーワードである「アイロニー」を中心にして論じていることは、そのことと無関係ではない。
ローティの「ユートピア構想」は、彼の懐疑論ポストモダン(=哲学批判)と密接に関係している。なぜ、公私をローティは厳密に分けなければならない、と主張したのか? それは、彼の徹底した「不可知論」が関係している。
まず、ローティは哲学の「不可能性」を論じる。それは、一般的な主張は、そもそも「ありえない」ということに関係している。あらゆる主張は「私的」にしかありえない。つまり、「意味」は「私的」なものとしてしか論じられない。だれにでも「通じる」文章はありえない。だとするなら、私たちは、「公的」なものをあきらめなければならない、という結論に至ってしまう。
それに対して、ローティは、自らの立場を、「リベラル」と規定するわけだが、上記の文脈から分かるように、「リベラル」という「公的」な立場は、そもそも、成立しえない。そのことを彼は

  • リベラルを選んだのは「偶然」だ

と言った。本来なら、偶然に選んだにすぎない、自らの「リベラル」という立場を、普遍的なものとするなんの根拠もない。しかし、たとえそうであったとしても、「あえて」このリベラルという立場を自分が選ぶんだ、という、この態度を彼は

  • アイロニスト

と呼んだわけである。
私たちは「公的」な発言ができない。なぜなら、私たちとはしょせん、地域的、歴史的な文脈の中で位置付けられるものの「範囲」でしか考えられないし、話せないのだから。つまり、私たちは「私的」な世界の外に飛び出せない。絶対に私的であることしかできない。しかし、私たちがそういった地域的、歴史的な文脈の中でしかありえない何者だということを理解した上で、それでもなお

  • あえて

自らが「リベラル」であることを選ぶことを彼は自らに認めるわけだが、それを彼は「アイロニー」と呼ぶ。
こうやって見ると、まさに、アイロニーとはプラグマティズムであり、もっと言えば、カール・シュミットの言う「決断主義」と言ってもいいわけで、彼の主張にはなんらかの意味での「保守性」が深く関わっていることが分かる(自民党支持者が、「自民党に問題があることは分かりながら」あえて、自民党の支持を撰ぶ、と言うのと、ほとんど同じ態度であることが分かるであろう)。
さて。そもそも、ローティの言う「リベラル」とは、なんなのか? 彼はリベラルを独特の意味で定義する。つまり、リベラルとは

  • 残酷さ・苦痛の減少を目指す

そういう運動のことを言う。そして、ローティは「残酷さ・苦痛」のことを「共通悪」と呼んだ。彼の言う「ユートピア」は、この運動を目指すリベラルたちが、結果として、この運動の果てに「連帯」をするようになる未来を言っている(こうやって見ると、ローティの言うリベラルは、一種の左翼革命運動家の「一変種」であることが分かるのではないか。リベラルは、「共通悪」をこの世界から無くすために、闘い続ける「永久革命論」なのである)。
これは、どういう意味だろうか?
ローティの不可知論が、宮台さんの言う「脱社会的」であり、東さんの言う「動物化」と平行していることが分かるであろう。ローティは、哲学の不可能性の延長に、人間の「言語的共通理解」の不可能性を推論する。公的な、一般的な命題というのは「ありえない」。人は(文学的な意味で)分かり合えない。そういったことができると思われたのは、ポストモダン以前の、通俗的哲学においてであったにすぎない。そういった素朴哲学が木っ端微塵にポストモダンによって滅ぼされた今、もはや、文学的な「語り」に、社会の可能性を見出すことはできない。
そこで、ローティは、一気に自らの「前線」を撤退させる。

  • 動物

にまで。もはや、彼の「積極的な主張」は、人間の使う文学では維持できなくなってしまった。文系の道具の「無力」さを自覚したからこそ、彼は、動物的な「感覚」の共感のレベルにまで、下がって、考えざるをえなくなった。
例えば、「共感」という言葉がある。それは、たとえ動物であったとしても、なにか痛がっていることを、私たち人間はそれを「見て」いれば、分かるわけであろう。そこまで撤退戦を行えば、

  • だれでも分かり合える

わけだろう、と言うわけである。文学的な言葉は、ローティに言わせれば「哲学の不可能性」に還元され、なに一つ、一般的な(どんな部族の出自の人でも理解できるような)ことは言えない。しかし、「苦痛」とか「共感」といった、生物学的な感覚のレベルのものは、唯物論的に、まさに科学的にアプローチできる。
一見すると、あらゆる意味で「無敵」の理論のように思えるかもしれない。
しかし、そうだろうか?

そうですね。それはある意味で、超生権力国家とでもうべきものになる。ただ、僕がいっているのは、オープンになるのは結局ギリギリの生存のお金だけであるような世界です。すべてを丸裸にする監視社会の話はしていない、オープンネスとセットになったBIなんて気持ち悪い、自分は絶対匿名的なところに行きたいんだという人は、それとは別の市場で調達し、プライバシーを買ってもらえばいい。これも、いまだって実際にはそうなっていると重いますけどね。
生存は絶対的に保障するから、生活情報は渡してほしいという、究極のサービスプラットフォーム。生存を保障するために最適な手段をいまのテクノロジーを前提として考えたら、結局こういうBIのかたちがありうるんじゃないのかなと。
東浩紀「情報公開型のベーシックインカムで誰もがチェックできる生存保障を」)
ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

ローティのリベラルは、そもそも「残酷さ・苦痛」の除去を「目的」とする運動である。ということはどういうことかというと、「残酷さ・苦痛」の除去ができるなら、

  • 他を犠牲にしていい

と言っているように聞こえる。つまり、彼の主張は「生命第一主義」の亜種なわけである。
上記の事件を考えてみてほしい。北海道の児童にしても、地下アイドルにしても、ISの犠牲者にしても、「死んでしまったら、元には戻せない」わけです。だとするなら、リベラルが目指しているのは

  • 生存の絶対的な存続

だということになる。つまり、ローティは、逆説的であるが、「自由より生命の方が価値が大きい」と言っているのと変わらない。
宮台さんの脱社会的存在の問題を提起したとき、ようするに、国家は国民の自由を制限しろ、と言っていたのと変わらない。国民を自由にしたら、無差別テロを行うのだから、国民に自由を与えてはならない。国民に自由を与えないことによって、国民の「生命」を維持すべきだ、と言った。つまりこれって、ある種の

なわけですよね。ようするに、何を言っているのかというと、ローティにしても、宮台さんにしても、東さんにしても、

だと言っている、と受けとれるわけです。国民に主権なんて与えたら、その中の脱社会的存在が無差別テロを行って、日本人が滅びてしまう。だから、国家は国民を「奴隷」にしなければならない。そうしなければ、国家を維持できない。
よく考えてみましょう。なぜ、動物園の動物が檻の中にいるのか。それは、動物が飼い主である人間と、会話ができないから。しかし、そういう意味では、ローティは、公的な一般的認識に、だれもが到達できると考えることは「不可能」だと言ったわけであろう。不可能であるなら、人間も動物と同じように「牢屋」に入れるしかない。なぜなら、そうでなければ、自分を守れないし、自分の家族を守れないのだから。
しかし、だとするなら、「自由」の問題はどうなったのだろうか? 言うまでもなく、リベラルとは「自由」のことなのだから、どこかしらに「自由」が担保されていなければ、それを「リベラル」と呼ぶことは矛盾と言わざるをえないであろう(そういう意味で、ローティのリベラル・ユートピア構想は破綻しているw)。
これについて、一つの「答え」を提示したのが東浩紀さんで、上記の引用に、その思想がよく現れている。それをここでは「資本主義的自由」と呼んでおこう。
まず、私たち国民は、産まれたときには、国家の「奴隷」である。なぜなら、産まれたとき、国民はお金をもっていないから。自由とは、この場合、「国家から国民がお金を払って買うもの」という定義になる。逆に言えば、お金さえ払えば、「なんでも」買える。あらゆる「欲望」はお金を払えば満たされる。
国民が国家の奴隷でわるという意味は、国家は国民の「生命」を守るためなら、あらゆる他者への「強制」が許されている、という意味になる。その国家の「強制」から「自由」になりたければ、上記の引用にもあるように、国民は国家から、その「自由」を

  • 買えばいい

ということになる。買えば、なにをやってもいい、というわけである。
だから、「お金持ち」は何をやてもいい、ということになる(やっていい権利を買えるのだから、という意味で)。逆に、「貧乏人」は何もしてはならない、という意味になる。なぜなら、貧乏人はアプリオリに「自由」を買えない、ということが分かっているから。
東さんの構想する「ユートピア」構想における、最も重要なポイントは、宮台さんの言うような意味での「脱社会的存在」に対して、なんとしてでも「自由」を与えてはならない、というところにある。なんとしてでも、彼らを「牢屋」に入れ続けるシステムを考えなければならない。そう考えたとき、ようするに

  • 貧乏な家庭に産まれた子ども

は、ほとんどの確率で、学歴社会からこぼれ落ちる。そして、脱社会的存在のほとんどが、そういった貧困層から現れると考えるなら(なぜなら、そういった教養を身につけることができない「頭の悪さ」が、犯罪を行うことを結果する、と判断できるから)、最初から貧乏人に「自由」が与えられないことは「しょうがない」と考えられる、と。
逆に、お金持ちが自由を「買え」ば、そのお金で、国家は貧困層に福祉ができるわけであり、お金持ちはその「お金」を失うという「リスク」を引き受けているのだから、等価交換、と。
この社会の何が問題だろうか?
それは、この国家が「国民主権でない」ところにある。つまり、パターナリズムなのだ。国家は私たち国民の生命を「維持」してくれる。それは、国民を「奴隷」にする、という方法ではあるが、

  • 国家がやってくれる

わけである。だとするなら、当然、国民には選挙権を与えることはできない。なぜなら、国民がこのパターナリズムを止めると決定したら、国民の生命の「維持」システムは、そこで終わってしまうから。
国民主権とは、国民が自らの主権をだれかに譲ることができない、というシステムである。だから、国民は、たとえ選挙に行かないことは選べても、だれかに自分の一票を代わりに投票してくることを任せることはできない。また、自分がもう死んでいることにもしてもらえない。
ようするに、国民主権とは国民が、

  • 自分の選択を、<誰か>に(どんな割合であろうと)全権委任をできない

ようにシステム上されている、ということを意味している...。
(以前も、このブログで書いたが、私はローティの不可知論的哲学をブレイクスルーしたのが、分析哲学の文脈では、ロバート・ブランダムの「論理主義」だと思っている。それは、言わば、形式論理という

が、意外にも私たちの日常を覆っている、という認識だと思っている。例えば、上記の二つの事件にしても、加害者と被害者は、さまざまな「言語ゲーム」を、その悲劇に至るまでに行っている。それは、宮台さんの言うような意味での、「脱社会的存在」かどうかといったような「絶対的」な「ものさし」で、始めて、なにかを言えるようなものではなくて、なんらかの「理由」を介して、さまざまにお互いが「説得」を行っている事実性が最初にある、ということであり、そういう意味で、ローティは勘違いをしていた。この言語ゲームは「完全」ではなくても、お互いはなにも問題にならない。どんなに話が通じなくても、その言語ゲームを続けることで、「結果」として、自分になんらかのゲインがある、と思えている限り、意外とこの言語ゲームは、「使われる」というわけである...。)