広瀬巌『平等主義の哲学』

フランシス・フクヤマは、ヘーゲルのアナロジーとして、資本主義国の社会主義国に対する「勝利」をもって、資本主義によって

  • 歴史の終わり

を語ったわけだが、どうだろう? 資本主義は社会主義になる。事実、そうなっているのではないか?
日本の金融緩和政策において、日銀の株購入は、実質、国内の大手企業のかなりの割合の「筆頭株主」になってしまっている。それを私たちは「社会主義」と呼んでいたのではないのか?
しかし、逆に考えてみるなら、あらゆる「平等政策」は、社会主義なのであり、国家はそれをやらずにはいられない。「資本主義は社会主義になる」のだし、この問題に正面から向き合うことなしに、社会を論じることはできない。
というのは、私たちはある「欺瞞」を常に内部に抱えているから。

例えば、X'=(1,9)とY'=(5,5)を比較してみよう。古典的功利主義と平均功利主義は、二人の福利の総計と平均が同じなので、X'はY'と同程度に善いと判断する。だが、X'にはどんでもない不平等が存在するのに対して、Y'では完全な平等が成立している。

功利主義者の言っていることは、こういう「嘘」なわけであろう。しかしなぜか、彼ら功利主義者はその自らの「嘘」に自覚的にならない(まさに、認知的不協和だw)。功利主義こそ、政治であり哲学と同値だ、と主張する連中は、実はその裏の本音として、アメリカ資本主義的な「お金持ち」と「貧乏人」の不平等の

  • 肯定

への野望(=ポジション・トーク)を隠している。例えば、功利主義者は次のようなことを言う。

私がスポーツカーを追加的に所有するにつれて、限界快楽は逓減する。

このように、一部の功利主義論者は、最も有名なところではピーター・シンガー(Singer 1972)が、限界効用逓減に基づいて、先進諸国からより貧しい国々へ資源を移転することは、そうした移転が総快楽を増大させるという理由から、正しいのだと主張している。

もちろんあなたは、スポーツカーを一台もって日常的に使っていたとして、そこからさらに一台、一台と、買い続けたとき、いつか、

  • もうスポーツカーは、これ以上いらない

と言うだろう。つまり、じゃあそれ以上は、世界の貧しい人にあげればいいよね、とピーター・シンガーは言っているわけであるがw どう思うだろうか? ちょっと無理のある理屈だなあ、と思わないだろうか? よく考えてみてほしい。私たちは寄付をする。困っている人を助けようと思って。それに対して、「功利主義者」は、

  • 困っている「から」助ける

のではなく、限界効用逓減だから、あなたは「寄付」をするはずだ、となるわけである。つまり、彼らは「最大多数の最大幸福」目標を決して手放さない。功利主義者にとって、

  • なぜか

平等は「二次的」な副産物に過ぎないのだ。
こういった功利主義の非倫理性を私たちはどう考えればいいのだろうか?
そもそも、経済学とは「功利主義」の一分野に過ぎない。そういう意味では、経済学は「平等」に興味がない。ピケティの『21世紀の資本論』も、本質的には平等を追及しているわけではない。
それを彼らはアダム・スミスの「トリクルダウン」理論で正当化した。つまりは、「功利主義」である。さまざまな「成長」。つまり、イノベーションが、いずれは一般大衆にまで、その「恩恵」が「したたり落ちる」のだから、不平等かどうかなんて瑣末な問題なんだ、と。
成長の無限遠点での「キリスト教千年王国」において、世界はキリストの「復活」と共に、人々の「救済」と、無信仰者への天罰が完成する。彼らの「平等」への無関心が、彼らが

  • エリート

としての進学コースを歩いてきたことと同値だと考えるなら、どういったオールタナティブが可能だということになるだろう?
掲題の本の特徴は、以下に集約されている。

本書での分配原理に関する私の分析は、あらゆる特定の被平等化項概念から独立である。たとえば、私が目的論的平等主義にコミットするとしても、私はなお、自分好みの福利概念を選ぶことができるつまり、目的論的平等主義を想定する場合、福利の概念は、快楽、資源、社会的基本財、機能へのケイパビリティ、所得、等々でありうるのだ。

一般に私たちは、「何の平等」の<選択>なしに、「平等システム」の考察はありえない、と考えている。ある意味において、その前者の「不可能性」が、功利主義の「理論的優位性」を担保してきたと考えることもできる。つまり、

  • 「平等」にさせるように目指すべきなのは、一体なんなのか?

と聞いているわけである。私は今の日本社会を考えるに、

  • 国民の健康(=雨露をしのげる住宅&栄養を考慮した食事&医療へのアクセス)
  • 教育&研究(=大学までのアカデミズムへのアクセス)

の、この二つの<提供>の「平等」が重要だと考えているが(その「豪華さ」ではないところが注意点)、おそらくこういったものは「それぞれの時代の、それぞれの社会システム」の中で、その様相は違った角度から追及できるはずで、ここを「確定」できないから

  • 分配的正義について論じることは不可能

と嘲笑してきたのが、功利主義者だと思っている。そういう意味では、掲題の本は非常に重要である。おそらく、この本は、これからのこの分野を決定的に発展させる「きっかけ」になるかもしれない。
ちなみに、掲題の本の著者の立場は以下となる。

私にとって好ましい分配原理は目的論的平等主義の集計説である。ロールズの格差原理は実践において最も境遇が悪い集団以外にとっての便益を無視してしまうので、社会の基本構造の安定性を担保しえないとするハーサニ(Harsanyi 1975)の見解に同意しているので、格差原理を支持する気にはなれない。これは、格差原理は----その他の正義の原理と相俟って----満足のいくミニマムを保障することで基本構造の安定性を担保する、というロールズの主張は対立するものである。

目的論的平等主義とは、以下の形において、定式化される(二人の人の福利W_1、W_2についてのモデル)。

  • G=1/2(W_1 + W_2) - a|W_1 - W_2|、ただし、a>0

言うまでもないが、第2項がないものが、功利主義であるわけだが、この等式は一見すると、私たちが一般的に呼んでいる「悪平等」(つまり、みんなが貧しくなれば、幸福が上がるとか、成長しなければ、幸福が上がるという評判の悪い主張)のアポリアを含意しているように思わせるわけであるが、いずれにしろ、「集計説」は、「a=1/4」とした場合の次の式によって典型的に表現されるものと解釈できる。

  • G=1/4W_1 + 3/4W_2、ただし、W_1 > W_2 の場合
  • G=3/4W_1 + 1/4W_2、そうでない場合

この等式は、ある意味において、アダム・スミスのトリクルダウン論の一つの批判にはなっていると考えることはできるだろう。つまり、なんらかのイノベーションによるトリクルダウンがたとえあったとしても、

  • なんらかの平等

を、時間軸において、または、なんらかの義務論的なものを含めて、要請しない社会は「非倫理的」なんじゃないのか、という非常に素朴ではあるけど、直感的には「当然」に思われる主張、というわけである...。

平等主義の哲学: ロールズから健康の分配まで

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