ロジカルの条件

例えば、小保方さんのSTAP細胞の件にしても、彼女は記者会見で「何か」を謝っていたのだから、おそらく、彼女を含めてなんらかの「責任」の意識があったのであろう。実際、論文は取り下げにもなっている。
しかし、そのことと、世間が「問題」と考えたことにはどうもそれなりの差異があったようで、彼女は理研を辞めたわけであるし、まあ、なにをか言わんや、ということであった。
つまり、結局のところ、誰がどう悪かったのかは、なんとも言えない「曖昧」な闇の中に消えてしまった。実際、自殺者まで出ているわけで。
同じようなことを、欅坂46の衣装がナチス軍服に似ているとして問題とされた件にも見出されるわけで、確かにこれによって、「プロデューサー」の秋元康は謝罪をしたわけであるが、よく読むと「自分は悪くない」と、ひたすら逃げているような内容にも思われる。確かに「何か」を悪いと認めているのだから、おそらくこれは「謝罪」なのだろうが、それは一体、何を意味しているのだろうかが、よく分からないのだ。
同じようなことは、なんば寿司という、大阪の寿司屋が、外国人のお客にわさびを多く入れていたという件について、店側が「謝罪」をした、ということがニュースになっていたはずなのだが、結局のところ、今に至るまで、なにがなんだかさっぱり分からない情況になって今に至っている。
これと同様の案件として、東京五輪のエンブレム問題で取り下げとなった、佐野氏の問題を考えることもできる。この件についても、何回か、佐野氏は「謝罪」をしているわけであるが、この騒動「全体」の構造において、彼の「謝った」とされることが、実際のところ、なにについてだったのかは、非常に曖昧なままであると言わざるをえない。
こういった一連の「炎上」案件の特徴は、どうも「加害者」側とされている側が、なんらかの「謝罪」の態度を、一旦は示すことになるわけだが、それが結局のところ何を意味しているのかが、最後まで「曖昧」だ、というところにある。
どうして、こういうことになるのだろうか?
例えば、このことは、日本の「戦争責任」と呼ばれる現象についても、同様だと考えることもできる。A級戦犯とされ、東京裁判で裁かれた日本の軍人は、しかし、なんらかの意味において「謝罪」をしたわけであろう。ところが、今に至るまで、

  • 彼らは悪くない

といった言説が次から次へと現れ、そのことが、靖国A級戦犯を合祀していいのかといった議論を混乱させる。ようするに、いつまでたっても、なんの評価も「確定」しない。
どうも「おかしい」わけである。
一体、どうしたら、「ファクト」は確定するのだろうか? というか、そもそも「ファクト」を確定させようという「意思」を私たちには、内在的にもっていないのではないのか。
なにか確実なことを言おうという動機を私たちはもっていないのではないのか。
これと同じようなことは、アニメ「君の名は。」についても感じざるをえない。結局、このアニメは何が言いたいのか。よく分からない。ずっと、ふわふわとした言葉の羅列が続き、それで何が言いたいのか。このアニメで何を伝えたいのか。なにがはっきりしたことなのか。なにが決して変わることのない確実なことなのか。そういった一切が、はっきりしないまま、ふわふわとした言葉だけが、浮遊している。
欅坂46の問題に対して、秋元康はそもそも、どういった「立場」から発言しているのだろうか? 彼の肩書である「プロデューサー」とはなんなのか? そもそも、今回の「謝罪」を介して、欅坂46は解散するのか? 解散しないとするなら、それはどういう理由なのか。しかし、欅坂46の過去からのそれなりの一貫したものとして、軍服「風」の衣装についての、一貫したコンセプトというのは見出されるわけで、そういった延長に、今回のナチス風の衣装というのがあったことは自明なわけで、それで秋元康自身が

  • 自分は関係ない

で済むわけがないことは自明なわけであろう。ようするに、あらゆる「言葉」がふわふわしていて、なにを言っているのか、さっぱり要領を得ない。なんとなく、

  • 刺激的

な映像的な風味が加えられていて、で、結局それはなんなのか、といったことについての

  • 言葉の建築物

への「意思」が感じられない。それは、アニメ「君の名は。」についての同様なのであって、結局それってなんなのだろう、と思わされる。
例えば、アニメ「君の名は。」を、一種の3・11に対する批評として解釈する視点があると考えたとき、今起きている、福島第一の廃炉費用が、膨大に膨れ上がっていて、国民の誰も知らない間に、そのほとんどの費用を国民負担、つまり、税金で払わされている「構図」が作られようとしている今の情況に対して、なんらかのメッセージになっているのだろうか、と考えることもできるであろう。
美しい映像と、若い男女の「恋愛」に、3・11は収斂させ、なんらかの「現実逃避」として映像化され、今目の前で起きている

  • 欺瞞

が隠される。本来の資本主義なら、責任をとらなければならない連中。全ての資産を売り渡して、国民に謝罪をしなければならない連中が、逃げ続け、その代わりに、国民が「負担」をさせられるスキームを、いつのまにか、国民に受け入れさせる制度が完成している。一体、いつ私たちはそれを受け入れたのか? それは、そもそも上記で例示したような問題が、

  • なんだか分からない間

に、いつの間にか「恩讐の彼方」にされ、うやむやになっていく日本的制度の問題だ、と言うこともできるのではないか...。