ヘルガ・クーゼ「ピーター・シンガーの実践倫理」

よくトロッコ問題というのが言われる。1人を殺す行為をしなければ、間違いなく5人が死ぬ場合、5人を殺すより1人を殺す方が罪は軽いんだから、そっちを選ぶべき、というわけである。
しかし、これは変だ。なぜなら、人がそれぞれの場面で、なにを選択し、どんな行為を行うかは「実践的」な問題なのであって、その選んだ行為に対して、どのような罪を宣告するのかも、その宣告しようとしている人の「実践的」な行為だからだ。
そういう意味では、なにかの行為が「罪」なのか「罪」でないのかを、私たちは本当の意味で判断する基準をもっていない。正当防衛という言葉が使われるのはそういうことで、大事なポイントはどういう判断であれ、それは何かに「コミットメント」していることを意味しているのであって、そのことと罪を認めるかどうかは、まったく別の話なのだ。
しかし、ここでトロッコ問題と言っているのは、おそらく、そういった問題ではないのである。ある国家が、なんらかの「公共政策」を行うときに、その政策の「合理的」な基準はどういったルールによって作成するべきなのか、ということに関係している。
国家政策は、結局は「パターナリズム」とならざるをえない。つまり、国民全員に対して、

  • あるルール

に基いて、なんらかの対応を行うということなのであって、そのルールを「パターナリズム」なしに決定することができないからなのだ。どういったルールがいいのか、といった問いは、もしもこれが当事者問題なら、その答えは、当事者一人一人が決めることなしにはありえない、ということになる。そういう意味では、民主主義としての、国民の意志の表明、つまり、選挙の結果は重要である。なぜなら、それは一つの「パターナリズム」の根拠になりうるからだ。
しかし、逆に考えてみるなら、結局のところ、それでさえも「当事者主権」なのである。つまり、官僚が「どう考えたのか」なしには、どんな政策の立案も成立しない。多くの場合、それが「どんなルールか」は重要視されない。そうではなく、そのルールが

されたとき、それに対する国民の「抵抗」によって、その後の政策実行は決定する。最終的に国民の必死な抵抗によって、国民的な無駄な労力を浪費させることになるような政策は、改変される。なぜなら、そういった事態になっている時点で、国民の利益に反しているからだ。

およそ2000年前に著作を残したゴドウィンは、道徳的であるということは、偏りのない公平な観点から見たとき最大限の利益をもたらすように行為することだと確信していた。この文脈でゴドウィンは1つの例を挙げているが、そのせいで彼は悪名をはせることになったのだった。燃え盛る家から2人のうち1人だけしか助けられないという状況で、ゴドウィンは「全体の善に最も寄与する人の命が選ばれるべきだ」と論じたのである。彼の例では、待女より、尊敬すべき大司教フェヌロン----彼の著作は何百万人もの人に幸福をもたらした----が選ばれるべきだということになる。ゴドウィンは議論を進めて、もしそれが待女ではなく、救助にあたる人の妻か母親だったとしたら状況は変わるだろうかと問いかけ、そして変わらないと結論する。有名なゴドウィンの問いかけはこうである。「<私の>という所有代名詞になんのことがあろうか、その中に、不変の真理の決定をひっくり返せるような魔法の仕掛けがあるとでもいうのか」(本書第一部第2章32頁)。
評論家たちはゴドウィンの結論をとんでもないものと感じたのだが、シンガーの著作も時として同様の反応を引き起こしてきた。確かにシンガーは、道徳的であるためには、ひたすら公平主義に則って利益を最大化するという観点に立つことが求められる----すなわち、ある状況で現代のフェヌロンを救うことが効用を最大化するとすれば、我々は母親を炎の中に置き去りにするべきだ----と固く信じているかのように書いたことが幾度かあった。しかし、シンガーは、最近の著作では、そうしたアプローチはある程度抑制すべきだとはっきり述べている。そうすることが、人間らしい幸福とよき生を形づくる複雑な緒要素をとりこむために必要だと言う。ここでシンガーがよりどころにしているのは、20世紀最高の倫理学者の1人、R・M・ヘアの功利主義の二層理論である。シンガーは、現在では、偏った配慮をすべて捨てるよう人々に求めるのは謝りだとはっきり主張している。批判的なレベルで公平な観点から言えば別の行為の方がよいと認めながらも、同時に、人々が心の奥深くに抱いている感情、つまり両親や子供、妻、夫、恋人、友人への愛や親近感を重んじる習慣や性質を育む方が最善なのではないか。シンガーは「ウイリアム・ゴドウィンと公平主義倫理学の擁護」で、次のように述べている。

ある行為が正しいかどうかを決定するのは、最終的には、行為者-中立的な視点からである。しかし、常に一つ一つの行為の正しさに注目するのは間違いである。むしろ、生涯を通じて見た場合に最大の善をもたらすと期待されるような習慣、あるいは直感的な思考方法に着目すべきである(本書第一部第2章42頁)。

言い換えれば、シンガーは、自ら「抑制された公平主義」と名づけた立場を主張しているのである。それは、公平主義ではあるが、日常生活においては公平主義の立場をとるように求めはしない。すると、直観のレベルでは、自分の母親でなくフェヌロンを救うように要求されることがなくなる。なぜなら、自分の母親を炎の中に置き去りにするようなタイプの人間になろうとすれば、「大切な他の価値あるものをあまりにも多く手離さなければならなくなる」からである。つまり、特定のものに偏った配慮をする立場と公平主義という、この「両者の重要性をともどもに認識することこそ、ただ1つのとりうる道だ」ということなのである(本書第一部第2章42-43頁)。

ある「道徳」を、要素還元主義的に行うピーター・シンガーの態度は、母親を殺して、天皇を救うべきだ、という結論になる。つまり、ピーター・シンガーが一部の保守派に「好まれる」のは、こういった

  • 理論

を提供する「哲学」だと思われたからだ。ピーター・シンガーの哲学は、

の理論だと考えられたし、今も考えられている。それは典型的な「要素還元主義」である。
ある、「事実」に対応して、「正しい」と「正しくない」があると考える慣習は、人間を機械にする。すべてのことに優先して、天皇のために死ぬことを選ぶことを求める日本の「倫理」は、カミカゼ特攻隊となり、敗戦となり、その反動として、戦後の平和主義となる。
なぜピーター・シンガーは間違っていたのか。それは、彼が「公共政策」のルールと個人の「実践的」な行為の意味を混同しているからなのだ。言語における、ある「記述文」は、一つの「行為」を記述する。それは、完全に、ある人の、ある行為と

  • 一対一

に対応するわけであるが、その「行為記述」と、「良い」や「悪い」がなぜ

  • 対応

しなければならない、ということになるのか。というか、対応しうることを前提にして、

  • 法律が書かれている

からといって、なぜそういった「要素還元主義」が成立して「いなければならない」ということになるのかは、まったく別の話なのである。
私たちは、

  • 行為 <--> 善悪

といった「要素還元主義」をあまりにも自明に思いすぎているが、なぜそう自分が考えるのかを問うことをしない。こういった異常さは、まさに受験勉強の「答えの<存在>の自明性」を疑うことを私たちに強いる。なぜ、テストの答案には常に「答え」があると思っているのか。なぜテストの問題に「答えがない」ということが起きると、受験生は「怒る」のか。
上記におけるR・M・ヘアの功利主義の二層理論は、一種の「徳倫理学」の亜種として解釈される。人間としてある人が立派な人かどうかは、ある一つ一つの「行為」の積分ではない。というか

  • なぜそう思うのか?

は、まったくもって、「受験勉強」のやりすぎなのではないか、と思わせる。予備校の模試で、毎回トップの成績だったから、その人が「優秀」であるというのは、非常に馬鹿げた話なわけで、優秀かどうかは、

  • その人そのもの

の属性でしかない。立派な人は、それまでの人生における結果として、今私たちは「立派」かどうかをそこに見るわけであろう。そういう意味では、そういった過去の行為という「要素」をどれだけ並べても、関係ないのだ...。

人命の脱神聖化

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