バラク・クシュナー『思想戦 大日本帝国のプロパガンダ』

日本の明治以降からWW2での敗戦までの、その「軍事」的な特徴を考えたいわけだが、その前に、この日本というのがなんなのかに言及せざるをえない。

明治・大正時代には、日本人は学校の授業や教育政策を通じてナショナリズム愛国主義を学んでいたため、日本のプロパガンダ専門家がこれらについて新たに指導する必要はなかった。日本は識字率が高く、一般大衆は日常的に雑誌や新聞を読み、映画や音楽を鑑賞し、多くの消費活動を行っており、このような環境は特定の一般大衆層をターゲットにしたプロパガンダの制作を容易なものとしていた。

ようするに、この日本列島において「同じ」言葉が話され、ひらがなという比較的に低学年で学べる「文字」を、ほぼ全ての国民が使えるという状況があるわけで、それとアメリカのような移民が作ったような国を同じに扱うことはできない。
日本人は、ほとんど列島の端から端まで、会えば、初対面でも同じような「会話」が成立する。つまり、「つーかー」の会話が成立してしまう。そういう意味で、コミュニケーションの壁が低い。
しかし、逆に、「いじめ」のようなことも、簡単に「高度化」してしまう。言葉の壁の低さが低いがゆえに、あっという間に、「複雑ないじめ」が成立してしまう。
しかし、そんな日本が行っていたことを「特徴」づけるものがなんだったのかと、その「内容」において考えるなら、その思想的な中心は「軍隊」だったと言えるのではないか。というか、「士官学校」という

  • エリート

たちである。彼らは幼い頃から「選ばれ」て、普通の子どもたちとは違う、特別な「学校」で将来、軍隊の「士官」になるための教育を受ける。
それは、明治の革命が「暴力」によって成立したことから、必然の結果だったのかもしれないが。
考えてみれば、日本の明治以降からWW2での敗戦までは、なんだかんだと言いながら、ずっと「戦争」をしていた、と考えることができるわけで、そう考えると、ずいぶんと長い「戦間期」だということになる。
言うまでもなく、明治の始めから、日本の「中心」は、陸軍と海軍だった。ここが、言わば、日本の「針路」を決めてきた。まさに、戦争(=侵略)が日本をひっぱってきた。まあ、それを軍部の「暴走」を普通は呼ぶのだろうが、いずれにしろ、結果としてそうなっていた。
日本の「文化」は「軍人」の文化であった。というか、「士官学校」のエリートたちの「文化」であった。彼らが養成所で教わる教育の内容が、全国の津々浦々の小学校、中学校、高校の教育「内容」に結果として反映される形になっていた。

第二次世界対戦は、米国にとっては一九四一年十二月から一九四五年八月までだったが、日本にとってはその三倍の期間に及ぶ戦争であった。しかし、日本が頻繁に軍事的敗北を喫するようになったのは、最後の三年だけである。一九四二年夏のミッドウェイ海戦までは、日本の軍事的行動はすべからく成功を収めていた。日清戦争(一八九四 ~ 九五年)と日露戦争(一九〇四 ~ 〇五年)における勝利が日本人の優越性という考えを膨張させたことを鑑みると、当時の日本人が感じていた達成感や特権意識は一般に思われているよりも根深いものであったことが分かる。

明治以降の日本の戦争の歴史は「勝利」の歴史である。ただし、

  • 最後の三年間

を除いてだが。つまり、ずっと日本の軍隊は「勝って」きた。まあ、だから軍人は「偉そう」にしていられたのだが。しかし、逆に言えば、そこまで慢性的に「勝ってきた」ということにしてしまうと、国民への説得力もそう簡単には下がらないのだろう。

さらに、ドイツやイタリアと異なり、日本では多数の一般人や知識人が国外逃亡することもなく、また、一九三〇、四〇年代の軍事侵攻が政府や軍部に対する大規模な国内反乱を生じさせることもなかった。十五年に及ぶアジアの覇権を巡る戦争で、日本人一般大衆は個人的な不自由と経済的な貧窮に苦しみながらも、大日本帝国の防衛と拡張に全力を注いだのだ。

確かに、最後の三年は「悲惨」なのだが、人間の「慣性」としては、そう簡単に変わらないのであって、基本的に終戦直前まで、日本国民の「戦争」へのモチベーションは高かった。そして、それは

  • 戦後

にまで「続いた」と掲題の著者は考える。

戦時下日本のプロパガンダは十五年間にわたる戦争を煽るだけでなく、より重要な点として、この同じプロパガンダが日本に敗北を受け入れさせ、戦争直後には日本の再建を促し、世界第二位の経済大国を築くことになる日本人の精神の安らぎを与えたのだ。

しかし、よく考えてみると、明治以降の日本の「侵略」史観は、そこまで成功していたのかは疑わしい。もちろん、日本の言う「大東亜共栄圏」の構想が、欧米からの植民地政策に抵抗し、各地域の独自の自治を目指すというものと解釈して、一部のアジアの国から賛意を示されたということがあったとしても、そもそも、日本の国民の側に、そういった外国の人との関係を考えていたのかが疑わしいわけだ。
日本は上記にあるように、識字率の高さが特徴づける。つまり、人々が「つーかー」で会ってすぐに会話ができる、という。しかし、そのことを逆に言うなら、日本人同士の場合は、うまくいくのだが、ひとたび

  • 海外の人

が関係してくると、うまくコミュニケーションが成立しない。それは、日本の「侵略」戦略がよく示している。どんどんと海外に侵略していくが、そういった土地を長く「管理」していこうという考えがない。その土地の人々と仲良くやっていこうという考えがない。
だから、その考えは基本的には

  • 略奪

だった、と思われる。というか、それしかありえなかったんじゃないか。日本から外に移民をして、そうやって略奪した土地に「植民」をしていくとか、さまざまな「財産」をもって、日本に帰るとか。
だから、確かにそれぞれの「戦局」を一時的に突破して、前には進むんだけど、そういった突破した土地の人々から好意的に受け入れて入ってきたわけじゃないから、慢性的なレジスタンスを受ける。つまり、まったく「侵略した、その先」のことを考えていない。
この精神構造って、なんなんだろう、と思うわけである。
侵略した土地には、当然、そこには以前から「住んでいる」人たちがいるのであって、そして、そういった人たちには、以前からの「生活」があるのであって、結局それとの「対立」をどうしていきたいのか、について考えていない。
とにかく、暴力で一時的に前に進むことしか考えていない。基本的に日本の軍隊は、シビリアンコントロールがきいていなくて、勝手に「暴走」して、それを事後的に政治が「受け入れ」ていくスタイルだから、そもそも、誰も何も考えていない。気付いたら、勝手に戦局が拡大していて、

  • だから?

というようなことが繰り返される。
そして、その矛盾がはっきりしたのが、最後の3年なのだろう。
しかし、だとするなら日本がずっと「考えて」いたことはなんなのか、ということになるであろう。いくら、世界中を「侵略」していっても、別に、その土地の人たちのことを考えているわけでもない。侵略した土地を「暴力」で壊したら、「あーあ、やっちゃった」と思って、じゃあ、その「後」に、その土地をどうするか、を考えているわけでもない。最新の兵器で、壊すだけ壊して、「So what?」というわけである orz。
上記で、日本の明治以降と特徴づけるものとして、陸軍と海軍の「士官学校」について考えた。つまり、彼らは

  • 軍隊エリート

なわけだが、彼らが幼ないときに「教育」されたこととはなんだろう?

米国に対する宣戦布告がラジオで発表された際、鶴見の部下の一人は仕事場の椅子に座っていた。鶴見はオフィスから出てきてこの部下に対し、天皇の発表がラジオで行われている最中には起立し、厳重な注意を払うべきであると大声で怒鳴り、起立して頭を垂れるようにと命令している。

おそらく、日本人は「これ」ばっかり考えていたのだ。天皇に向けて、深く頭を下げること。それを朝起きて行い、昼食を食べて行い、日が暮れる頃行い、夜寝る前に行う。これを「立派」に行うことばかり考えていた。そして、それを「正しく」行えない

  • 他の人

を大きい声で、ボロクソに罵倒する「能力」ばかり発達させていた。日本で一番「権威」のある人たちがそれをやっているのだから、日本中の学校の隅々まで、それは「真似」される。つまりは、日本中がそれを究極的に「研磨」していた。日本共同体の中では、これだけをやっていれば「昇進」できたわけで、きっと、あとはどうでもよかった。まさに「究極」のガラパゴス進化をしていたのであろう...。
(例えば、日本が侵略して植民地化した土地では、まず、「神社」が作られ、現地の人々に天皇へのお祈りの作法を教え、次に「日本語」の教育が行われ、「ドヤ顔」をする、というわけだが。別に、自分たちから、この土地の人々の農業をどんなことをやっているのかとか、どうやって厳しい、その土地の生活環境に適応しているのかとか、それをより生産性を上げるとか、快適にすればいいのかとか、そういった具体的な現地の人たちを「知って」乗り込んできているわけではないんだよね。というか、そういったことに関心がないまま、とにかく、やってきて逆らった奴を殺してってやってるから、たんに、現地の人の恨みばかりが大きくなる。)

思想戦 大日本帝国のプロパガンダ

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