スティーブン・ダーウォル『二人称的観点の倫理学』

そもそも、この本はなぜ今さら「二人称」などということを言い始めているのか。
もちろん、この著者の今までの人生がそこには反映されているのであろうが、端的には、クリスティーン・コースガードの『アイデンティティと義務の倫理学』が関係している。

それは、あなたが自分自身に価値を認めるさいの自己の記述、すなわち、自分の人生が生きるに値し、自分の行為が行うに値すると思うさいの自己の記述として理解するほうが適切である。そこで、これを、あなたの実践的アイデンティティ(practical identity)の理解と呼ぶことにする。実践的アイデンティティは複雑なものであり、平均的な人間の場合は、さまざまな理解の寄せ集めになっているだろう。あなたは人間であり、女性あるいは男性であり、ある宗教の信者であり、何らかの職業集団の成員であり、誰かの恋人であり、友人であり......等々である。そして、このようなアイデンティティのすべてが、理由と義務を生み出している。あなたの理由は、あなたのアイデンティティや本性を表現する。あなたの義務は、そのアイデンティティが禁じるものから生じる。

義務とアイデンティティの倫理学―規範性の源泉

義務とアイデンティティの倫理学―規範性の源泉

この本において、コースガードはカントの実践理性における「定言命法」や「義務」や「自律」といったものを、「アイデンティティ」に関係したものとして整理した。しかし、である。そうしたがゆえに、ある問題に直面してしまった。つまり、

  • 道徳の起源

という古くて新しい問題を再度、考察せざるをえなくなった。結局、コースガードの「アイデンティティ」は、上記の引用を見てもらえば分かるように、これは別に「道徳的」であることに限らない。自分の「アイデンティティ」であるかが問われているに過ぎず(それは、「自律」を一般化すれば必然的に導かれる結果と言える)、じゃあ、道徳ってカントの文脈からその「存在」を議論できないのか、という話になってしまったわけである。
このことが何が問題なのか、と思う人もいるかもしれない。例えば、永井均が昔から言っている、「<私>」の問題だとか、ピーター・シンガー功利主義はそもそも

  • カントは間違っている

と言っているのだと解釈するなら、もう勝手にしてくれ、となるわけで。つまり、ここでの疑問は

  • カントの実践理性批判での議論をどうやったら「整合的」読めるのか?

というところから始めなければなくなっている、ということなのだ。
そういうわけで、最初から「オレはカントを超えた(ドヤッ」的な、好き勝手なことを言っている人を、ここでは相手にしているのではない。カントを認めるにしろ、修正するにしろ、ここにある議論を整合的にするポイントはどこにあるのか、が問われている、ということになる。
しかし、このことは逆にも言える。この前紹介した、加藤泰史の「尊厳概念史の再構築に向けて」は、今度はダーウォルの「二人称」的カント解釈は間違っている、と主張する。それは、この解釈ではカントの尊厳概念の「普遍性」が毀損してしまうから、と。しかし、この論文も考えてみると変だ。なぜなら、ダーウォル自身が、「尊厳」の問題はこの本で一章をもうけて検討しているのだから、もう少し細かい議論が行われていないのは、違和感を抱かざるをえない。
例えば、マルティン・ブーバーの『我と汝』という本があるが、過去にも掲題の著者が強調する「二人称」の問題を考察した哲学は傍流的な扱いだったかもしれないが、いろいろと存在する(掲題の本が注目する、フィヒテの「契約主義」もそうであるし、柄谷行人の言う「他者」もそういったものと解釈できるであろう)。

マルティン・ブーバーの言葉で言えば、各々のボクサーの「わたし」は「わたし-それ」の「わたし」であって、「わたし-あなた」の「わたし」ではないのである(1975:55)。

ここにある「差異」というのは、なかなか興味深くて、例えば、ピーター・シンガーにはそもそも「二人称」的な問題意識はないように思われるし、永井均独我論もそうであろう。つまり、一人称と三人称は相性がよく、基本的に近代経済学もこの枠内の議論だと思われる(まあ、功利主義だから)。
これはどこか「ヘーゲル」的な問題だと考えることもできる。あらゆる、一人称や二人称の言論は、

  • 三人称

の「文章」に変換できる。だということは、すべてを「三人称」に還元できるのではないか? これが、「功利主義」の議論だと、ひとまずは「まとめ」られるであろう。しかし、なぜか世の中には「一人称」や「二人称」があるわけで、この

  • 役割

はなんなのか、という問いが本当はそこにあることが忘れられている。
私もこのブログで、何度も「倫理」という言葉を「道徳」と区別したものとして使ってきたが、そこで言う「倫理」をダーウォルの言う「二人称」と近いものとして解釈することは可能だと思っている。
例えば、国家による公共政策を考えてみよう。これは一見すると、三人称的な話に思われる。しかし、現場の警察官や役所の役人の一人一人を考えると、彼らと、ある一人の市民が「二人称」的な関係において、実際に、住民票を発行したり、逮捕したりするわけで、そこにおける、なんらかの「権威」に、そういった公共政策の「命令」が関係しているということになる。
では、加藤泰史の言うカントの「尊厳」概念とダーウォルの言う「二人称」の関係を考えてみよう。たとえば、ある植物人間でずっと寝たきりの人がいたとする。この人と、その人が寝ているベットの近くまで来ている人との間には、「二人称」的関係は成立しないかに思われる。それは、ダーウォルの議論が「能力」を前提にしている限り、必然となるだろう。だとするなら、カントの言う「普遍的」な人間の尊厳といった議論は、非経験的で、ダーウォル的な「二人称」的視点からは、正当化できないのだろうか?
この問題をもしも、ロールズ的な正義の問題によって補完することはできないだろうか。つまり、私たちは過去から生きる時間軸において、多くの「二人称」的な関係を、それぞれの場面で行うことになる。そうした場合、もしも私が、こういった植物人間となっている人の尊厳を傷つけるようなことを言ったり、実際に相手に危害を与える行為を行ったとしよう。
すると、どうなるか? この人以外の人々は次のように考えるのではないか。

  • もしも自分が、あの人のように「植物人間」になったら、この人は私に危害を加えるだろう

と。よって、私はこの植物人間の人「ではない」多くの

  • 二人称的な関係

から、多くの「尊厳」にまつわる非難を受けることになるだろう、と。
この関係をここでは、「二人称のネットワーク」と呼んでおこう。二人称の関係は単に、二人の関係なのではない。そうではなく、あらゆる関係は「二人」なのであって、その「二人」の関係が、多くの二人によって

  • ネットワーク

になっている、と。これが「社会」なのだ!

命令、依頼、主張、非難、不服、要求、約束、契約、同意、指令などに表現されたり前提されたりしている理由は、すべて以上のような意味で二人称的である。

アダム・スミスは、われわれは自らの人格が尊敬されないことに対して、どんな身体的危害や心理的危害とも同じくらい、いやそれ以上に、憤るものである、という考察をしている、「危害や侮辱を与える人に対してわれわてが怒るのは、われわれを軽視しているように見えること......ばかげた自愛によって、他の人いつでも自らの都合で擬制にしてもよいと彼が想像しているように見えることによる」(1982a:96)とスミスは書いている。

スミスの書いていることは洞察に富んでいる。われわれが危害に憤るとき、憤りが「主として意図しているのは、お返しに敵に痛みを感じさせることではなく、......危害を加えられた人がそのような扱いを受けるいわれはないと感じさせることである」(1982:95-96)。

結局のところ、「二人称」的視点とはなんだろう。それは「三人称」を

  • メタ

の議論と考えれば分かりやすいのではないか。「二人称」は徹底して、「メタ」を回避する。つまり、「他人事」のような態度を許さない(そういう意味で、東大の表象文化論は、非二人称的な批評活動と解釈できるかもしれない)。
もう一度、議論を整理すると、私は上記のコースガードのカント「自律」概念の

  • 一般化

は、例えば、冨田恭彦の『カント哲学の奇妙な歪み』が考察したような、カントの

  • 経験主義(=科学主義)

からの反省と同じような観点からの見直しとなっていると思っている。そう考えるなら、そのコースガードの到達点から、ダーウォルがこのような「二人称」の強調を行うのは当然の結果だと思われる。だとするなら、この本における、ダーウォルの

  • カント解釈

はどこまで擁護可能なのか、という問題に局限される、と思われる。それに対する加藤泰史の全否定をしながら、裏道からこの行為を擁護する態度は、それが人間の「尊厳」を

  • 能力

によって「制限」しているように、どう考えても思われるというところは、批判としては一定の合理性はあるが、しかし、冨田恭彦の態度のように、カントの極端な「普遍主義」への反省がここで求められていると考えるなら、ゴリゴリの「カント主義者」として、「尊厳」概念の「普遍主義」性の一歩も譲れないといったリゴリズムは、ここでの本来の趣旨ではない、と考えざるをえない。
しかし、他方において世界的な「法」や「憲法」における、カント主義的な「普遍主義」の流行をどう受け止めればいいのか、といった視点もありうる。いずれにしろ、この「カントへの二人称的アプローチ」は、古くはフィヒテの契約主義に始まり、この問題意識は、もう一度、掲題の本によって問題提起された、ということになるのだろう...。

二人称的観点の倫理学: 道徳・尊敬・責任 (叢書・ウニベルシタス)

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