東浩紀先生とオウム真理教との共通点

前回も検討をさせてもらったが、今回の東先生の著作には驚くべき内容が書かれている。そこについて、もう一度、私が非常に問題だと思っている点を検討したい。

サンデルはそこで、ロールズの議論は普遍的な正義を追及する普遍的な主体(負荷なき主体)の存在を前提としているが、それはあまりにも強すぎる仮定であり、実際には政治理論は、特定の共同体の特定の価値観(正義ではなく善)を埋めこまれた主体しか前提とすることができないと主張した。
ゲンロン0 観光客の哲学

ここでのサンデルの主張は、穏当な議論であり、むしろそういった「場所」から考えるしかない、という意味ではむしろ、ロールズの晩年の「転向」を説明する説得力があるように思われる。
つまり、これの何が悪いのかが、さっぱり分からない。

カントたちは、個人が国民になり、そこで終わりだとは考えなかった。特定の国家への所属は、それを超えた普遍的な主体への上昇の一段階にすぎないと考えられていた。一九世紀のナショナリズムは、現代の内閉的なナショナリズムと異なり、永遠平和(カント)や世界精神(ヘーゲル)に通じていた。
ゲンロン0 観光客の哲学

ぼくたちはいま、まさにその普遍主義のプログラムが崩れ落ちる時代に生きている。(中略)いずれにせよ、ぼくたちはいま、個人から国家へ、そして世界市民へという普遍主義のプログラムを奪われたまま、(中略)、つまりは普遍的な世界市民への道が閉ざされた世界ということだ。
ぼくはそのような世界に生きたくない。(中略)言い換えれば、ぼくはこの本で、もういちど世界市民への道を開きたいと考えている。ただし、ヘーゲル以来の、個人から国民へ、そして世界市民へという弁証法的上昇とは別のしかたで。それが観光客の道である。
ゲンロン0 観光客の哲学

ようするに、東先生の「理想」は

だというわけである。しかし、ここで二つの疑問が私にはある。

  1. カントは「普遍的な世界市民」(特定の国家への所属を「超えた」普遍的な主体)などということを本当に主張したのか?
  2. リベラリズムは、本当に「特定の国家への所属」を否定する理論なのか?

カントの普遍主義は、基本的にはリベラリズムの主張と同様だと言える。人々の「尊厳」は、人々に普遍的にある、といった考えであって、こういった延長にカントの実践理性批判もある。
しかし、そもそも、リベラリズムは人々が「ナショナリスト」であることを否定しているのだろうか? というのは、それが「寛容」という意味なのであって。人々がさまざまな思想をもっていたとしても、そういった人々が「共存」することを前提とした理論だからだ。だとするなら、なぜ東先生は、

  • 特定の国家への所属を「超えた」普遍的な主体

などと言うのだろう? リベラリズムの言う「寛容」は、人々のナショナリズム的な「所属意識」を否定しない。むしろ、そういった人々の「共存」の理論であるはずなのに、なぜ、東先生は、人々を

  • 特定の国家の所属から「超え」させようとする

のだろう? この前も書いたが、カントの言う「普遍主義」が、人々が自ら生まれた郷土への「所属」の感情を

  • 滅却

して、「世界市民」という「透明な存在」になれ、などということを求める主張なのか?
これは「恐るべき主張」ではないのか? 一体、東先生は人間をどんな「存在」に変えようとしているのだろう?
というか、むしろ、こういうことを言っていたのが「オウム真理教」だったのではないか。
オウム真理教は、人々に「出家」をさせることで、自らの「出自」との繋がりを「否定」させた。そして、キリスト教に始まり、チベット仏教といった

  • 普遍的教義

を介することによる、普遍的な存在(=主体)の「高み」にまで至ることが、修行の目的とされた。どこか、東先生の主張と似ていないか。
というか、こういった議論を始める前にすでに、東先生は次のように言っている。

リベラリズムは、現在のアメリカでは、人格的な自由こそ尊重するが、冨の再分配を重視して経済的な自由はむしろ制限する、イデオロギー的にはまったく逆の福祉国家支持の立場を意味している。
ゲンロン0 観光客の哲学

リバタリアニズムは個人の自由を尊重するので、ときにアナーキズム無政府主義)に近づくことになる。
ゲンロン0 観光客の哲学

しかし、よく考えてみるとこれは当たり前なのではないか? リベラリズムは人々を「自由」にする「条件」にこだわるのであって、そうである限り、なんとかして人々の「人的資本」を平等に近づけようとすることになる。そして、リバタリアニズムは上記のように「アナーキズム」なのだから、逆に、いくらでも人々に「福祉」を行って、助けていい。というか、なぜアナーキズムだと言っているのに、人々が「福祉」をやってはいけない、となるのか、さっぱり分からない。
いくらでも「助けていい」と言われているなら、勝手に人々は周りの人を助けるのではないか? というか、それをやらない理由が分からない。むしろ、アナーキズムだからこそ、人々は助け合うのではないのか?
つまり、大事なポイントは国家が介在しようがなんだろうが、困っている人を周りの人が助けている「社会」なわけであろう。ところが、東先生の言う「リバタリアニズム」や、「観光客の道」は、基本的に

  • 福祉に反対

だと言うw 東先生の言う「リバタリアニズム」は、周りの困っている人に福祉を行わない。なぜなら、それが「リバタリアニズム」だから?w リバタリアニズムだから、

  • 反福祉

なのだそうだw もう、なにを言っているのか、東先生しか分からない境地に行っちゃっているんだろうねw まあ、驚くべきというか、だったら、なんのために生きているんだろうね。この点もオウム真理教に似ているかもしれない。オウムは全ては「教祖」に収斂していた。教祖の言うことに従うことが

  • 普遍的

であった。言うまでもなく、自分の判断でなんか、周りの人に施しをやってはならない(そういった自分の判断なるものが許されていない)。つまり、オウムは「福祉」に反対した宗教であった。実に東先生の礼賛する「リバタリアニズム」に似ていらっしゃいますね...。