P・F・ストローソン「自由と怒り」

スピノザの頃から、この世界には「自由はない」といった議論が行われている。つまり、この世界は唯物論的に機械論的に「決定」している、というわけである。
そこで、掲題の著者によれば、どうもこの世界は二つの勢力に分かれるようである。悲観論者と楽観論者とに。

まず、次のように考える人たち----おそらく悲観主義者であろう----がいる。決定論が正しいなら、道徳的な義務や責任の概念を適用する余地が何ひとつなくなり、処罰する、責める、道徳的観点から非難・是認する、といった実践がまったく不当なものになってしまう、と考えるのである。また、別の哲学者たち----おそらく楽観主義者であろう----がいて、問題の概念や実践は、決定論という命題が正しいのだとしても存在価値を失うことはない、と主張する。

しかし、この差異はどこか「定義」の問題のように思えてしょうがない。例えば、「自由意志」で行った行為というのを、それ単体で「これがそうだった」と選ぼうとしてみると、なかなかやっかいであることが分かってくる。こういった言葉は、なんらかの「文脈」において使われているわけで、つまり、そこで検討している

  • システム

が、この用語を違和感なく使うことを可能にしているのであって、そういう意味でも「定義」が実は最初にある、と言わざるをえないわけだ。
こういったことは、文系の「用語」においてはよく起きる。例えば、カントのアンチノミーがそうで、あれが言っていることは、文系の「用語」は、多くの場合、定義が「曖昧」だ、ということだと言ってもいいわけである。
例えば、この論文でとりあげられている「怒り」ということを考えてみよう。この一見、「決定論」と関係ないように思われる用語であるが、考えてみると、なかなか興味深く「選ばれている」ことが分かってくる。

しかし、私が最初に論じたいのは処罰や道徳的観点からの非難・是認ではない。これは、その対象である行為や行為者からある程度距離をおくことを----必ず伴うわけではないが----許容する。私としては、少なくとも最初の段階では、別のものを取り上げたい。ひととの交わりの直接の当事者は、対象から距離をおかない態度をとり、対象から距離をおかない仕方で反応する。まずは、そうした態度や反応を取り上げることにする。

例えば、ラ・ロシュフーコーに倣って、自己愛、自負心、虚栄心を構図の中心に据え、こうした感情が、ときに他人からの尊敬によってやさしく愛撫され、ときに他人の無関心や軽蔑によって傷つけられる様子を描き出すこともできる。使う用語を変えて、愛を求める心と、愛が失われたことが生む不安定な心について語ることもできる。あるいは、再び使う用語を変えて、いかにも人間らしい自尊心について、そして、個人としての自分の尊厳が承認されることとこの人間らしい自尊心の結びつきについて語ることもできる。こうした単純化が私にとって有用であるのは、それが次のことを際立たせるのに役立つ場合だけである。他人の行為----その中でもとくにある人たちの行為----が自分に向けた善意、愛情、尊敬という態度を映し出しているのか、それとも軽蔑、無関心、悪意という態度を映し出しているのか、これが現実の私たちにとって非常に気になることであり、重大な問題なのである。

こういったものを、掲題の論文では、「反応的態度」と呼んでいるが、まあ、ダーウォルの言葉で言えば「二人称的観点」ということになるであろう。
ではなぜ、こういった「二人称」的問題が、決定論であり「自由」と関係しているのか、ということになるが、もちろん直接には関係ないのだろうが、私たちのある種の「自明性」をついてはいるわけであろう。
つまり、決定論が正しかろうが、間違っていようが、こういった「共同体」内での言語ゲームは実際に存在するし、存在しうる。しかし、そうだとするなら、自由に判断していようがそうでなかろうが、こういった「相手からの影響」というのを前提に議論をしていることにある。だれだって、自らが所属する共同体で、馬鹿にされた態度を受ければ、腹が立つ。しかし、その人が旅人だったり、精神障害者だったりすれば、その感情がおさまったりする。
しかし、どっちだったとしても、そうやって「他者」を意識することで、なんらかの「反応的態度」を示している時点で、それは「自由」なのか? これらは、なんらかの「強制」を受けているということになるのではないのか?
例えば、こんなふうに考えてみよう。ある瞬間に「自由意志」で判断したとしよう。そして、その0・5秒後にまた「自由意志」で別の判断をしたとしよう。そして、これを、かなりの間、繰り返したとしよう。その場合、

  • それぞれ

の自由意志の「判断」はどういう扱いになりうるのか? 私たちは確かに、こんなふうには「判断」をしていないように思われる。しかし、そう思うことと、実際にそれが起きた場合の基準は、変わらない。自由があるとかないとかといった衒学的な話は、こういったように、曖昧な言及だ、ということなのである。
言葉の「定義」というとき、それが「単独」で決定されることはない。必ず、なんらかの「言語システム」として、体系化=システム化されていなけてば、それが有意味かどうかは決まらない。上記のことは、それを意味していると言うこともできる。つまりは、問題は「説明体系」だということになる。私たちが考えうるのは、唯一、その整合性だけなのだ...。

自由と行為の哲学 (現代哲学への招待Anthology)

自由と行為の哲学 (現代哲学への招待Anthology)

  • 作者: P.F.ストローソン,ピーター・ヴァンインワーゲン,ドナルドデイヴィドソン,マイケルブラットマン,G.E.M.アンスコム,ハリー・G.フランクファート,門脇俊介,野矢茂樹,P.F. Strawson,G.E.M. Anscombe,Harry G. Frankfurt,Donald Davidson,Peter van Inwagen,Michael Bratman,法野谷俊哉,早川正祐,河島一郎,竹内聖一,三ツ野陽介,星川道人,近藤智彦,小池翔一
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2010/08/01
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