社会契約論は自分が産まれる前から「決まって」いたのか?

ルソーの社会契約論という論文を読んでいると、これは、社会契約の話ではなく、「宗教」の話を書いているんだろう、といったことを、どうしても直観的に言いたくなる。それは実際に読んでみられれば分かるのではないかと思われるが、実際に、最後の方では、国家は「市民宗教」としてしか成立しえないのではないか、といった暗示がされていたりもするわけで、そう書かれていることを意識して前半を読んでみると、確かに、国家を「宗教」のアナロジーで説明したがっている印象を受けるわけである。
しかし、本来、社会契約論とは、啓蒙思想であり、近代国家であり、人権思想といった「リベラリズム」の文脈で考察されていたものであると考えると、その違和感は大きいわけであろう。
では、なぜこんなことになっているのかと考えると、一言で言うなら、ルソーとはジョン・ロックの社会契約論の

として書かれたものなのだろう、といった印象を受けるわけである。
ルソーはジョン・ロックの社会契約論になんらかの「不満」をもっていた。だから、わざわざ同じ題材の社会契約論を書いたのであって、もっと言えば、ルソーなりのジョン・ロック

  • 否定

がそこには反映されている。そのことを最も象徴的に現わしているのが、以下であろう。

そして、ここで指摘しておかなければならないのは、新しい統治の設立の際のみならず、統治の設立以降も、その統治に新しく服従する人間は同意をする必要があるということである。その典型的な例がその統治下で生まれ育った子供である。

従って、正しい理性の法に照らしても、また統治者自身の慣行に照らしても、子供というものは、生まれながらにどこの国、どこの統治の被治者でもないということは明らかである。子供は分別のつく年齢に達するまでは、父親の保護を受け、その権威に服している。そして、成人になると自由人となり、どんな統治のもとに身を置こうと、どんあ政治体に結びつこうと自由なのである(ST, 118)。

ロック倫理学の再生

ロック倫理学の再生

だとするなら、ロックにおける原始契約とはどのようなものなのであろうか。実のところ、ロック自身は原始契約という語をほとんど用いていない。だが、その数少ない箇所の一つで、ロックは以下のように述べている。

こうして、他者と共に一つの統治の下で一つの政治体を作ることに同意することで、全ての人間は、自らをその社会の各人の義務、すなわち多数者の決定に服従し、それに拘束されるという義務を負うことになる。もし、ある人が依然として自由で、自然状態にいるときと同じように何の拘束も受けないとするなら、他の人々と共に団結して一つの社会を作るというこの原始契約(original compact)は、無意味となり、契約ではなくなってしまうであろう(ST, 97)。

ここからは、ロックにおける原始契約は、統治の発生を説明するための歴史的な概念ではないということが見て取れよう。それは太古の昔に一度だけあった歴史的な出来事などではなく、生来自由で平等な人間が統治に服従するために規範的な意味で不可欠な同意のことなのである。つまり、原始契約とは、個々人が行う社会加入の同意を意味するのだ。
ロック倫理学の再生

ロックにとって、そもそも社会契約はなにも不思議なことではない。つまりそれは「原始契約」ではないのだ。子供は生まれたとき、国家と社会契約をしていないだけでなく、ある一定の年齢に達したとき「契約」という形で、国家に属する。それまでは、「自然状態」だということになる。いや、それだけではない。たとえ国家と社会契約を行っていたとしても、その国家がその契約に反する行動をするなら、自らがその契約から離脱して、「自然状態」に戻ることもある。というか、もっと典型的なことを言えば、

  • 私と外国人は「自然状態」にある

わけであり、別にそのことはなにも不思議ではない。
これに対して、ルソーの社会契約論を読むと、まさに人間不平等起源論からつながる、一連の議論によって、ある「原始契約」こそが、一切の社会契約の意味なのだ、という含意が伝わってくる。

ここで、さまざまな障害のために、人々がもはや自然状態にあっては自己を保存できなくなる時点が訪れたと想定してみよう。自然状態にとどまることを望んでいる人々はこうした障害に抵抗するのだが、この地点になると障害の大きさが、人々の抵抗する力を上回ったのである。こうして、この原始状態はもはや存続できなくなる。人類は生き方を変えなければ、滅びることになるだろう。

社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

法が市民に生命を危険にさらすことを求めるとき、市民はその危険についてあれこれ判断することはできない。だから統治者が市民に、「汝は国家のために死なねばならぬ」と言うときには、市民は死ななければならないのである。なぜならこのことを条件としてのみ、市民はそれまで安全に生きてこれたからである。
社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

これまで述べたことから、一般意志はつねに正しく、つねに公益を目指すことになる。
社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

なぜ一般意志は「常に正しい」のだろう? それは、「原始契約」だからなのだ。それは、国家が国民に「死ね」と言ったら従わなければならない、というのと変わらない。国家が国民に「死ね」と言うのはそれが

  • 一般意志

だからだ。国家は国民を殺すことに「快楽」する。それは「楽しい」からであり、そうして国家は

  • 自殺

をする。国家は子供の頃、自分を「いじめ」た同級生たちへの「復讐」を果たすために、国民を殺す。国家は自分への「悪意」をもつ国民を殺すわけだが、過去に自分を「いじめ」た同級生たちへの憎しみから決して逃れられない。自分に「悪意」を向ける全ての国民への「復讐」を果たすことなしに、自らの「一般意志」を「正しい」と言うことができない。だから、国家は自殺をする。ルソーの一般意志は、国家の「自死」願望にとりつかれた、妄想の産物であり、それに従順に従うから、社会契約なのだ。
対して、ジョン・ロックにはそういった「宗教的狂気」はない。それは、たんに国民が国家との社会契約をやめればいい。国家がそもそもの「契約」を守らないなら、いつまでもこの社会契約を続けているいわれもない。とっとと、やめればいい。
戦争についてもそうだ。ジョン・ロックの社会契約においては、国家が戦争を始めると言ったからって、無条件でそれに従ういわれはない。自分がそれが、国家との社会契約との関係から、納得できるものであるのかが全てなのだ。大義のない戦争はそもそも社会契約に反しているのだから、むしろ自然権としては、参加してはならない。
よく考えてみれば、こんなことは当たり前なのだ。
ルソーの国家観には、どこかロマンティシズムがある。それは、国民が臣民として国家に犠牲を捧げることを「美学」的に昇華している。その圧倒的な国家の国民に対して「卓越」して上位にある、国民の「無力さ」をロマンティックに文学的に語るレトリック...。