金慧『カントの政治哲学』

さて。カントの社会契約論こそ、ジョン・ロールズなどの近年の社会契約論に影響を与えたわけであるが、その特徴とはなんだろう?

だとすれば、ネーションについても同じことが言えないだろうか。国民(ネーション)はふだん、政治の合理的な思考に基づき行動している。少なくともそのつもりになっている。そして他国に見せるのは、カントが言うように国家という顔=人格だけである。けれども、現実にはつねに、市民社会に渦巻く欲望に悩まされている(排外主義やヘイトスピーチを想像してみてほしい)。したがって、その欲望の管理は、健全な国際秩序を設立するうえで致命的に重要になる。このように解きほぐすとわかるように、『永遠平和のために』の第一確定条項(各国家における市民的体制は共和的でなければならない)は、人間の話に置き換えると、じつはきわめてわかりやすい、ほとんど低俗と形容していいようなことを言ってしまっている。カントはじつはそこで、各国家に、まずはおまえの下半身を制御できるようになってから国際社会に乗りだしてこいと、そう注文をつけていたのである。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

カントが「共和的」と言っているのは、立法府と行政府のアクターの明確な「分離」である。そして、立法府のメンバーは代表民主制によって、国民全員によって選ばれる、と言っている。
なぜこういった「共和的」であることが「永遠平和」にとって重要なのかという理由として、これによって、戦争の開始を選択するのが、国民全員となるわけだが、そうすると、各国民は戦争が起きた場合の自らの「損失」について考慮しなければならなくなるため、その選択を躊躇することが大いに期待できるため、安易な戦争の選択が最小化できる、という見積りからである。
ところで、なぜカントは「代表民主制」で十分だと考えたのだろうか?(これは、ジョン・ロックの社会契約論においても選択されていた制度ではあるが)。カントは、『啓蒙とは何か』において、言論の自由の重要性を主張する。つまり、言論の自由によって、すべての国民が

  • 学者

として「論文」を発表し、それを国民が「読む」ことによって、立法府が作成する法律は、国民全員の「合理的」な理性の働きによって、妥当な均衡点に収束していく、というわけである。ようするに、その論文は人々が「合理的」な判断を行う形で、まっとうなものしか、この競争を勝ち残れないはずだから、それなりにいいものになる、というわけである。
これは、もしもいいものにならないとするなら、国民が不断の、休むことのない「抵抗運動(=学者としての論文による抵抗)を死ぬまで続けるのだから、社会の方もそういった「圧力」には結局は妥協せざるをえなくなる、ということのようである。
カントのこういった代表民主制構想は、言うまでもなく、二つの問題を抱えている。一つは、

  • 本当に、こういった代表民主制による立法手続きは「理性的」な結論に至るのか?

であり、もう一つは、

  • 世界平和の最終的な目標である世界共和国において、上記の「学者としての論文」アプローチはどこまで機能しうるのか? また、その次善策としての国連構想においてはどうか?

にある。前者についても後者についても、基本的にカントはそんなに楽観的な見通しを示しているわけではない。つまり、常にこの運動には、さまざまな「バックラッシュ」が考えられ、実際、そういった現象は起きるだろうが、「理念」として、このようなアプローチは「統整的」に働き、基本的には「世界平和」に向かう、と考えている、ということである。
その考えがどこまで妥当かは置くとしても、問題は後者であろう。つまり、各国家内における、上記の「理性的」な働きには一定の妥当性が考えられると思うが、後者の「世界共和国」については、それが

の否定と考えるなら、そこに国民の意志が反映されていると見込むことには限界があるのではないか、ということであろう。
同じような問題が、ハーバーマスの国連構想にも考えられる。
ハーバーマスは上記のカントの世界平和構想に対して、ある問題意識の下、これをさらに「パターナリスティック」な現実的組織として提示する。つまり、各地域社会における、

の暴走に対する歯止めとして、国連軍の「正義」を実現するための、現実的な「機動力」の拡大を最大限に肯定する。
確かに、各地域の暴力行為の暴走は、その地域の国民に「悲惨」な現実をもたらすだろう。しかし、だからといって、国連関係者という一部の代表たちによる、パターナリスティックな判断で、勝手にそういった行為を行うことを許せるのだろうか?
ハーバーマスは、それを今までの国連の活動の実績から、ある程度、こういった活動に限定した範囲での「承認」は得られているのではないか、と考える。
確かに、民主主義による、国民による「熟議」は、間違えを犯さないための安全弁としては大切であるが、「悪」の暴力行為の抑止は緊急を要する。その判断は急いで行わなければ、無辜の民に被害がおよぶ。
こうやって見ると、世界共和国においては、あらゆる国連による軍事オペレーションは、「警察行為」として行われるところにポイントがある。しかし、世界共和国にまで至っていない段階においては、そういった軍事オペレーションを選択する国家のそれぞれの「恣意的」な解釈に依存するため、危険性がある、ということにもなる。
さて。近年の北朝鮮問題に話を移したい。北朝鮮は国連加盟国である。しかし、北朝鮮による、核爆弾の実験や、ロケットの実験は、国連の決議には反している。つまり、国連内での「約束」には違反している。
なぜ北朝鮮は国連による「軍事オペレーション」を受けていないのだろう? それは、北朝鮮の存在している周辺地域の地政学的な問題が関係している。もしもアメリカが北朝鮮を自国の軍事力で攻め込み、もしも、北朝鮮の政権を打倒したとしよう。しかし、問題はその後なのだ。北朝鮮の政権が打倒された後、この地域にどういった秩序を回復するのかの「合意」ができていない。普通に考えれば、戦後の日本がそうだったように、北朝鮮アメリカ軍による「占領」状態になる、と予想できるかもし9れない。しかし、もしも北朝鮮アメリカの陣営に入ると、北朝鮮の周辺の

  • 大国

である中国とロシアとの、この地域の「バランス」が崩れるわけである。これを、中国もロシアも嫌がっているわけである。
中国は確かに、北朝鮮による核開発を嫌がっている。しかし、これ自体がそこまで嫌かというと、また別の話だ。中国がより嫌がっているのは、北朝鮮のこういった動きによって、韓国や日本がより軍事力を増強することだ、と言える。つまり、北朝鮮の動向がこの地域の今のバランスを崩すことを嫌がっている。
中国は北朝鮮に石油を提供している。それは、石油パイプラインを使って提供されている。じゃあ、中国がこのパイプラインを止めてしまったらどうだろう? しかし、それには一つ問題がある。それは、完全にパイプラインを止めてしまうと、二度と使えなくなる、という欠点である。
中国がなぜ北朝鮮に一定の「影響力」を維持できているかというと、それはこの石油のおかげだと言える。ところが、ここで完全に止めてしまえば、中国の北朝鮮への影響力はこれ以降維持できない。
こういったバランスの上で、今回は石油供給の「制限」が行われた。逆に言えば、それ以上の手段が行えなかった、とも言うことができるわけである。
なぜ北朝鮮は、核開発とロケット開発にそこでこだわっているのか? それは、金体制が過去の「独裁者」たちが、どんな運命をたどってきたのかを学習しているからである。
しかも、それをキムジョンウン自身が、自らの言葉で、リビアカダフィ大佐を例に出して言及しているわけである。

神保:たしかにカダフィアメリカから言われて、核開発を放棄して、その途中でミサイルを打ちこまれて息子さんを殺されちゃったり、自分も怪我をしたりしたんだけれど、暗殺まがいのことをミサイルでやられて、最後は結局は人民の反乱でアメリカが助けてくれないで、最後そこでつるしあげられて殺された、悲惨な最後をとげた、と。キムジョンウンさんが自分でそれをあえてひきあいにだして、結局核兵器をもっていないとそうなる、核兵器をもっていた国が侵略されたことは少なくとも、核兵器が登場してから一度もない、と。
VIDEO NEWS北朝鮮核ミサイル危機と中国の本音

北朝鮮核兵器をもとうとすることは、日本が核兵器をもとうと発言を始める保守派政治家や保守派言論人が現れることと同じように、彼らにとっての「合理的」な理由がある。そもそも、大国は数で比較にならない量を、どこも持っているわけであるし、実際に最近でも核兵器をもち始めた国が、ないわけではない。
これは長期的な国際秩序を考えた場合は、潜在的かつ致命的な「人類の滅亡」に関係した状況になりうるわけであるが、しかし、短期的に考えるなら、北朝鮮がそのオプションを発動する場合は、相当なパニック状態しか考えられない(おそらく、核兵器を使った時点で、国連による、北朝鮮自体への核兵器の使用になんの制限もなくなるであろう)。
多くの有識者たちが、北朝鮮核兵器をもつことを恐れているのは、そうすると、キムジョンウンの独裁体制を崩壊させられないんじゃないのか、といったニュアンスを感じることがある。しかし、だとするなら、言うまでもなく、キムジョンウン側だって、それに「対抗」した措置を考えざるをえないわけであろう。
実際、日本は国連で北朝鮮との対話は無意味だ、みたいなことを発表しているし、外務大臣が各国に北朝鮮との国交断絶を要請していたりするわけで、明らかにキムジョンウン体制を崩壊させようとしている意図がはっきりしているわけであろう。
こういった発言を、おそらく安倍政権であり続ける限り、続けることになるのであろう。そのことは、日本が北朝鮮と平和条約を結べず、国交のない状態が続いていることの意味を示しているとも言える。しかし、そうであるとするなら、今後の北朝鮮アメリカ、中国、ロシア、韓国による「多国間交渉」の場において、一人日本だけが「ハブられる」状況すら、想定されるのではないだろうか。むしろ、安倍政権が続くことのリスクも考えなければならないのではないか。
おそらくは、なんらかの北朝鮮の核オプションの「抑止」を考えるなら、ドイツが提案しているようなイラン型の「監視」政策が現実的であろう。それは、そもそも日本だって国連による「監視」を受けているという意味で、原発から発生する放射能核兵器に流用できなくなっているわけで、同じような状態に北朝鮮であろうと「監視」の対象として受け入れる可能性がないわけではない。しかしそれは、なんらかのキムジョンウン体制に対する、アメリカなりの「体制の保証」が与えられての話で、まあ、そうでないのなら、国連の加盟国であり続けていることがおかしいわけであろう。
北朝鮮のハードランディングを空想するのか、ソフトランディングを設計するのかは大きな違いなわけで、後者を求めるなら、キムジョンウン体制を、日本で考えれば「天皇」が今あるような「立場」に置くことで、アメリカがキムジョンウン側の「命の保証」をするような関係を約束していかざるをえないのではないか。そのことは、アメリカが本質的に

ということを意味しているわけでw、そうであるから「どうでもいい」から、この東アジアは比較的に欧米からの圧力に今までも「自由」な地域だったから、一定の自生的な秩序が存続しえてきた、とも言えるわけであろう...。
さて。最初の話に戻ろう。カントは必ずしも、人類の未来を楽観視していたわけではない。それは、そうはいっても、人間の理性的な歩みは、そう簡単には進まないからだ。そしてそれを、カントは人間の「非社交的社交性」と呼んだ。私が最初に引用した、東浩紀先生の議論に違和感をおぼえるのは、まるでカントがこういった人間の「感情」の側面を無視しているかのように描写しているのが、ほとんど

  • トンデモ

に思えるからだ。そもそも、カントの判断力批判は人間の「感情」に深く関係した議論が行われている。しかも、ハンナ・アーレントはこの判断力批判での議論を中心にして、自らの「政治学」を構築していたりするくらいで、むしろ、感情と政治の深い関係を追及したのこそ、カントだと言ってもいいわけで、その辺りの

  • 深い考察

を一切無視している時点で、典型的なデマかつイデオロギーだと思っている。
カントの想定は、国民全員による「学者としての論文」の発表の「自由」が、その人間の理性の合理性の働きによって、一定の「妥当」な結論に導くだろう、というところにある。逆に言えば、もしもこれができなかったなら、人間はいつか滅びるのだ。それは、一部のエリートがどっかで勝手に考えてくれて、この地球を守ってくれる、なんていう関係にはない。そのエリートだって私的利害にとらわれていて、自分の私利私欲のために、結果として地球を滅ぼすかもしれない。
そう考えるなら、ハーバーマスの言う、国連という「エリート」たちによる、

に対しては、一定の警戒が必要だという、カントの主張には、それなりの正当性があるのではないか。エリートの言う「自分が地球を守ってあげる」というパターナリズムは、功利主義に言うところの、

  • ようするに、手段なんかどうだっていいから、人間を生き残らせればいいんだろ

といった、「非人間性」の結果主義に帰結する。しかし、それこそカントが最も警戒していた発想なわけであろう。

他者が抱く目的の実現を挫くことによってみずからの目的を実現する行為...これは、他者の人間性を侵略する明らかな例である。もちろん、各人の目的が相互に衝突することは日常的に起こりうる。しかしながらこの事例においては、他者の目的を約束によっていったん承認しながらも、それを裏切ることによってみずからの目的のみを達成している。それゆえ他者をただ道具としてのみ利用しているのである。
こうした意味での人間性の尊重が定言命法の根底にある。

カントの定言命法が言おうとしていることは、ようするに「人間の尊厳」のことだといっていい。ここにおいて、功利主義とカント主義が決定的に対立するのが「人間の尊厳」だと言っていい。そういった意味で、安倍首相による、ニューヨークタイムズへの寄稿や国連演説で繰り返された、北朝鮮との「対話」の

  • 拒否

という、国連決議に反した「行為」の危険性を、このまま安倍首相が首相を続けさせていいのか、との問題と深く関係づけて考える必要があるのだろう...。

カントの政治哲学: 自律・言論・移行

カントの政治哲学: 自律・言論・移行