「自由意志」は存在するか?

私たちはよく、「自由は存在するのか?」という問題を考える。つまり、「意志」は本当に自由意志なのか、というわけである。私は確かに今、なにかを「選択」したのであって、その選択にもとづいて行動したために、なんらかの「結果」が発生したわけで、だから、その結果に対して、「責任」を引き受けなければならない、というわけであるが、いや、そもそもこの世界に「自由」なんてあるのか、と問うわけである。
すべては、自然法則に「因果」性の網の中にあるわけであって、自由な「選択」だからって、その「因果」性の網をまぬがれるわけがないのだから、つまりは「自由なんてない」というわけである。
もしこれが正しいのだとするなら、

  • なぜ私たちは少なくとも慣習的にはそのように思わないのか?

と問うてみるしかなくなるのだろう。
例えば、「考える」という行動を考えてみよう。このとき、なにが起きているのか? 一つ気付くことは、考えるという「作業」には大きな

  • エネルギー

が使われている、ということである。それはたんなる「集中」とも違うし、なんというか、体の中のエネルギーのうち、その「思考」という活動の「場所」に、多くのエネルギーが

  • 割り当てられている

といった感覚に似ているかもしれない。つまり、この大きな「割り当て」が起きないと、そもそも「考える」という活動がたくさん起きないということになって、多くの思考が、しりきれとんぼの状態で止まってしまっていて、大事な結論にまで辿り着かかないままになってしまう、という感じだろうか。
あまりいい例ではないかもしれないが、例えば、昔からウィンドウズOSに添付されていたゲームである「ソリティア」というのを考えてみたい。このゲームの特徴は、トランプがテーブルに並べられた時点で、実は、ある程度の割合で、「絶対にコンプリートできない」配置であることが起きうる、ということである。もちろん、それらは伏せて置かれているので、プレーヤーは気付きようがないのだが、「再配布」機能や「戻る」機能をもつアプリで行うと、開ける札からおおよそ推測することができる。
よって、このトランプで「コンプリート」を目指して遊ぶときは、この配布になっていないときに、どうやって最後まで辿りつくかということを競うことになるのだが、「再配布」機能で何回か行っていると、その札の「めくり」の手続きは、幾つかの

  • パターン

のようなもので、ほぼ分かれてくることが分かる。それはある程度「合理的」な札の選択には、数の限りがあるからである。
つまり、同じようなことが、心の中で行われる「選択」においても起きている、とは考えられないだろうか?
人は自らの「意志」によって、多くの選択から「選んで」いると思っている。しかし、

  • それ以前

に、その人はある考える方向の「性向性」をもっている。その中で、考える、つまり、この「思考」のロールプレイングゲームを行った場合、そこにおいては

  • 徹底的に思考する(=大量のエネルギーが使われる)
  • 中途半端な所までしか思考しない(=少しのエネルギーしか結果として使われない)

のほとんど二つしかない、とも言えるのではないか。そして、この二つの違いとしては、

  • 深く思考をしそうな雰囲気にあったかどうか(疲労の度合いなどが関係)

というのも関係するだろう。また、「思考」とは、その「過程」において、途中から、それまでの「内容」によって俄然「やる気」が起きてくるような、モチベーションを与えるような思考途中の結果などにも関係して、最後まで考え尽すかどうかに関係してくるのだろう。
このように考えてくると、この「自由意志」と「因果性の不自由性」には、一定の「整合性」が指摘できるようにも思うのだが...。