すべての現実は「政治」である:第5章「エロマンガ」

さて。東浩紀先生の「観光客の哲学」は、最初の章で突然、「二次創作」というタイトルで始まる。そして、これについては、前の第3章で引用したように、なぜか観光と二次創作の相似性を、「ふまじめ」「無責任さ」に見出そうとしている。
これは、どういう意味なのだろう?
そもそもこの「二次創作」という話は、彼の「オタク」論の文脈ででてくる話で、その問題意識がわかりやすくあらわれた評論集として彼が編集を行った本として、『網状言論F改』というのがある。
この本の最初にあらわれる評論として、永山薫という人の「セクシャリティの変容」というものがあるのだが、ここで興味深いのはこれが、男性向けのエロマンガについての、系統的な分析がされていることである。
しかし、この評論はこの永山という方のイントロダクションのようなもので、さらに系統だてて分析された本として、『エロマンガ・スタディーズ』という文庫がある。
興味深いのは、ここにおいて、永山という人は徹底した「エロマンガ」肯定論の論陣をはることで、そして、そこにおいて以下のような、「エロマンガ」と「リベラル」の関係を指摘しているわけである。

九〇年代の弾圧は官と民とマスコミが一体となって、ジャンルとしての「エロ漫画」のみならず、漫画のエロティシズム表現全体を叩き潰そうとした戦後最大の大弾圧事件だった。
和歌山の市民団体が、青少年向けのエロティックな漫画を野放しにしていいのか? と警察にねじ込んだことがコトの発端とされている。民主主義体制だから、まず民意ありきというわけだ。特に表現・言論という政治的な部分に官が踏み込むためにはそれなりの前提が必要なのだ。さて、どこまで民意だったのか? ということを突っ込んでもどうしようもない。これまでなあ、「表現の自由」を旗印に擁護に廻ったであろうリベラルから左の陣営も、「性の商品化」「女性蔑視」という新しい論理によって腰砕けになり、中には未だに尾を引く「擁護すべき漫画と擁護しないでもいい漫画がある」という、珍説を唱える学者まで出る始末だった。そんな騒動の中で、朝日新聞の「貧しい漫画が多すぎる」という社説はまさにトドメの一撃だった。比較的リベラルだと思われていた朝日が、「低俗なエロ漫画は抹殺してよし」というゴーサインを出したわけである。
後はもう思い出すのもウンザリするような過程を経て、落としどころとしての「青年コミックマーク」なるものが編み出されて、エロ漫画は明確に自主規制ジャンルとして確立させられてしまったのだ。
私は、貧しいのは漫画ではなく、「表現」も「自由」も真摯に考察してこようとはしなかった、進歩的知識人やリベラルと称する人々の知能だと思っている。自分にとって不快な表現であっても、不快感を表明するのはともかく、少なくとも抹殺することに手を貸してはならない。これがリベラルや進歩派や民主派を名乗る以上、最低限の認識だろうと思うのだが、我が国では違うようである。

これは一見すると、正当性があるように聞こえるかもしれない。しかし、そうなのだろうか? 私が気になっているのは、それらの作品の

  • 具体的な内容

において、そんなに簡単に「リベラル」がこれを正当化できるのかが疑わしく思えるからなのだ。

マチズモとは何か、みなさんご存知だと思いますが、男は男らしくなければならないという強迫観念です。これは社会的な圧力としてもかかってくるし、故に強迫観念にもなるわけです。エロ漫画の草創期というのは、非常に牧歌的でして、強い男が女をイカしてなんぼという世界です。ところが、それがそんどん崩れてくる。マチズモにもいろいろあるわけですが、女性蔑視、嫌悪というのがあります。しかし、蔑視と嫌悪の裏には女性恐怖というのがあるんですね。なぜかと言うと、女には、マチズモの偉大な男の論理が通用しないからです。
永山薫セクシャリティの変容」)

まず男性優位社会では男性は支配的な性的役割を担っており、被支配的な性的役割を分担する女性に対してはなにをやっても許されるという意識が根底にある。男(Man)だけが人間(Man)であり、女(Woman)は良くてアパルトヘイトにおける名誉白人のようなものというわけである。未だに「男の方が女より優秀」という意識を持っている人は男女ともに大勢いる。恋愛においても男性は能動的に「愛する」立場であり、女性は「愛される」という受動的立場であることが望ましいとされる。だが、こうした前近代的な意識が年を重ねるごとに通用しづらくなっているところに男性側の苛立ちと恐怖がある。既得権がいつ失われるかわかったものではないという危機感、権力喪失の予感がミソジニー、女性蔑視、女性恐怖へと結びつき、ファンタジーの中で加速される。マチズモが崩壊する過程においては、「生意気なクソアマ」のみならず、女性であること自体がヴァルネラビリティvulnerability=暴力誘発性)を帯びることになる。
増補 エロマンガ・スタディーズ: 「快楽装置」としての漫画入門 (ちくま文庫)

多くの人は「ポルノ」というと、海外のポルノは、性器にボカシがなくて、日本のものよりずっと「過激」だと思っているが、海外の、例えばアメリカの正規のルートでのものは、基本的に「凡庸」な内容のものが多い。それはなぜかというと、

  • 人権規定

を守っているからで、つまり、少しでも女性の人権を損っていることが疑われるような非人道的な扱いを、たとえ、ポルノというフィクションの中であっても、行うことが問題になる、という意識があるからだ(もちろん、だからといってこういったものに私が詳しいというわけではない。概ねの傾向を語っているだけだ)。
ところが、日本のポルノはそこが逆転している。ではなぜ、そういったものが一般的に流通する状況になっているのか?
おそらく、その事情は上記の引用が分かりやすいように、基本的にこれらは

の範囲の、憲法で認められた普遍的な人間の表現行為の範疇として守られなければならない、といった意識があるから、ということになる。
こう言うと、さきほどの「観光」「二次創作」での話と似てくるであろう。つまり、日本においては、どんな野蛮で鬼畜な行為でも、ひとたび

  • 芸術

という名さえつけば、

  • なにをやってもいい

となるわけである! つまりはそこには、表現者の「リアリズム」があるのだから、その限りにおいて、表現の自由は守られなければならない。まさに、

は「リベラル」が自らの「価値観」において、自らの中に抱えこんだ「無法地帯」を意味している。ここは、どんな鬼畜も許される。どんな不謹慎も許される。つまりは、彼らエリートたちが見出した「ユートピア」だといいたいわけだw

読者である「私」から見れば、この感覚はパソコンモニターに浮かぶ3D人形を解体するのにも似ている。このフラットな破壊行為に「許して下さい......ああ......妊娠してしまいます......死んでしまいます」という少女の台詞がエンドレスでかぶさる。まるでミニマリズム音楽を聴くような酩酊感があり、ここまでくるとエロ漫画というよりは漫画の形をしたドラッグといった方がいいかもしれない(図41)。
増補 エロマンガ・スタディーズ: 「快楽装置」としての漫画入門 (ちくま文庫)

そもそも、よく考えてみてほしい。芸術作品と「政治」を分けるものはなんだろう? そんな分割線が、この世のどこにあるというのだろう? つまり、あらゆる表現活動は、すべて、なんらかの意味での政治的「マニフェスト」であるし、そういった社会の実現を目指す、政治的連帯を求める運動なわけである(このことは、近年のヘイトスピーチ問題や、ポストトゥルース問題を考えても理解しやすいのではないか。なにが「政治」問題化するかは、そもそも「自治」が決めることで、この世界に芸術などという「聖域」があるわけじゃない。そうだと思っている人は、なにか根本的に今を生きているリアルを理解していないのである...)。
日本のエロマンガを特徴づけているのは、強烈なミソジニーだと思っている。それは、どこかエリート男子高校の臭いを感じさせるもので、それは女性に性的な魅力を感じないといったものではない。そうではなく、共学の男女が普通に行っているような、日常における「男女の平等な扱い」といった実践的な関係を離れて、まさに

  • 対象

として、テレビの中で輝いているアイドルを眺めているような「物」としての感覚でしか、女性は意識されない。女性とは「主体」ではなく、「対象」といった感覚に近い。まさに「家族」、つまり、「家父長制」的な戦前のイメージに近いわけで(伝統主義だ)、女が男と「同等」というのが潜在的に許せない、といった感覚に似ている。戦前の家族の中で家長としての父親に対して、その一歩後ろに存在する「母親」という「役割」においては許せるが、その母親が父親の地位を奪おうとすると、恐怖を感じる。そのことを確認する意味で、常に、男は女を

として暴力的に扱うことを実践し続けなければ、不安になる。
例えば、上記の「青年コミックマーク」の例として、ここでは、煌野一人の「ドロップアウト」という作品を分析してみる。この作品世界において、成績優秀の高校生男子には、成績落第者の女性が、いわば「性奴隷」として与えられ、勉学のいっそうの向上のための「息抜き」としての「使用」される(さらにそのレベル以下の劣等生女子は、いわゆる「公衆便所」として、大勢の男子生徒に「与え」られるわけで、まさに、従軍慰安婦のイメージそのものなわけであるw)。主人公の新見は、昔から成績優秀の七条鈴香先輩にあこがれていたが、彼女は大学受験の会場で、答案用紙を破り捨てて、

  • 成績落第者

となることで、新見の「性処理係」として学校に戻ってくる。なぜ彼女はそのような選択をしたのか?

鈴香:そう...君には話しておくべきだったね。自慢ではないけど、私は大抵のことは人並みにこなせる。それだけに昔から周りの期待は大きかった。落ちこぼれた者が、這い上がるのは、難しい世の中だ。私も何も考えず、期待に答えてきたよ。けれども、ある日、公衆便所の女性を見かけたとき----、彼女の姿は周りの期待にただ応えるだけの私と大差なく見えたんだ。正直、周りから期待されるのにも疲れていてね。私もあんな風に堕ちたいと思うようになってしまった...。君が私を大事に思ってくれるのは嬉しいよ...でも、その好意には応えられないんだ。すまない...。こんな私とまだ繋がっていたいと思うなら、私を性処理便器として、使い潰して欲しい。私を完全にモノとして扱って欲しいんだ。

ここには、明確なミソジニー男性の真意が反映している。彼らミソジニー男性は女性が「嫌い」なのではない。そうではなく、そういった女性が「男性並み」の権利を要求してくることが許せないだけで、そうでなければ、ある意味「優しい」わけであるw つまり、ある反転が描かれている。鈴香は、なぜか自らが「物」として扱われることに、プライドを感じる。それがどれだけ意味不明なことに思われても、ミソジニー男性の

  • 願望

がそこには反映していると考えるなら、つまりは、そういった女性をミソジニー男性は「求めている」(家父長制における、家長としての父親に、まるで「物」のように扱われる母親のアナロジーとして)ということを意味し、描かれているわけである...。