カンタン・メイヤスーの語るカント

さて、鳴り物入りで紹介された、カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』は、その後、一体、どれだけの人に読まれたのだろうか? 私はその「反響」をまったく知らない。というか、私にはこの本は、根本的になにか、壮絶な勘違いしているとしか思えないわけだが、これを読まれた人はどう思われただろうか?

実際、私たちは次のことを想定したのだった----すなわち、思考は、世界への私たちの関係に属する世界の性質と、私たちと世界が取りもつ関係とは無関係にあり続ける世界「それ自体」の性質とを区別できていた、と。さて、このテーゼがカント以来、いやバークリー以来、支持できないものとなったのはよく知られている。このテーゼは支持できない、なぜなら思考がそれ自体から抜け出して、世界「それ自体」と「私たちにとっての」世界とを比較することはできないし、そうであるがゆえに、世界と私たちの関係に帰せられるものと、世界にのみ属するものとを区別することはできないからだ。

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

ここでメイヤスーは「バークリー以来」という表現を使っているが、言うまでもなく、バークリーやフィヒテのような「主観的観念論」であるなら、上記は正しいと言うことができるだろう。さて、メイヤスーは何をもって、これがカントにも適用される、と言っているのだろう?

  • 人間という種の出現に先立つ----また、知られうる限りの地球上のあらゆる生命の形に先立つ----あらゆる現実について、祖先以前的[ancestral]と呼ぶことにする。
  • 過去の生命の痕跡を示す物証、すなわち本来の意味での化石ではなく、地球上の生命に先立つ、祖先以前の出来事ないし現実を示す物証を、原化石[archifossile]、あるいは物質化石[matierefossile]と名づける。つまり、原化石とは、祖先以前の現象の測定を行う実験の物質的な支えである。たとえば、放射能による崩壊速度がわかっている同位体や、星の形成時期について情報を与えてくれる光の放出などがある。

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

だがそうなると、あたかも、超越論的観念論----いくぶん都会的、文明的で、合理的な観念論----と、思弁的ないし主観的観念論----野蛮で、粗野で、むしろ常識はずれでさえある観念論----との境界線が、すなわち、私たちがそこで敷くようにとかつて学んだ----カントとバークリーを隔てる----境界線が、物質化石からの光によって、ぼやけて消えてしまうかのようになる。原化石に対峙すると、あらゆる観念論は収斂し、みな等しく常軌を逸したものになる----あらゆる相関主義あ、極端な観念論としてみずからを現わす。科学が私たちに語っている人間なき物質による数々の出来事は、科学がそれを語るようなしかたで実際に起こってたのだろうと決定的に認めることが、この極端な観念論にはできない。
有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

私がよく分からないのは、上記で言っている「祖先以前的」ということの

  • 定義

は一体なにが問題なのだろう? もちろん、これがバークリーやフィヒテの観念論(主観的観念論)から問題なのは分かるのだが、なぜこれがカント的観念論において問題だということになるのだろう? というか、だれか教えてほしいのだが、この本のどこの文章で、それを「証明」しているのか?
というのは、以下のことは「常識」だと思っているからである。

他方、カントは、『純粋理性批判』第一版の「純粋理性の誤謬摺について」の章における観念性の第四誤謬推理批判では、みずからの立場として超越論的観念論が経験的実在論でもありうると述べている。
(近堂秀「自己意識の統一による超越論的論証」)

大事なポイントは、カント自身が自らの超越論的観念論は「経験的実在論」を

  • 含んでいる

と言っているわけであろう! このことは、カント哲学が一方において、神学からの哲学の「独立性」を示しながら、他方において、神学の「可能性」を哲学は否定しない、という関係を示していたことに似ている。
上記であげた、メイヤスーの言う「祖先以前的」の例は、たんに「自然科学」の範囲のことに過ぎない。そうであるなら

  • 当然

のこととして、「経験的実在論」の範囲に含まれる。ところが、カント自身が経験的実在論を自らの哲学(=超越論的観念論)は「含んでいる」と言っているのだから、少なくともその

  • 理論

は、この「超越論的観念論」の

で十全に展開できる、というわけでしょう。というかさ。メイヤスーはこの問題を真剣に考えたのかなw
メイヤスーのこの本でのカントについての議論の特徴は、カントの言う「物自体」の議論と、バークリー的な主観的観念論から導かれる(メイヤスー言わく)「相関主義」とが、渾然一体となって議論されていて、まったく区別がされていないことなのだ。この二つは、まったく違った文脈で考えなければならないはずなのだが、なんというか、フッサール現象学が犯したようなカント解釈の誤謬を踏襲してしまっている。前回も紹介したが、

ここでは特に Step2 に注目しよう。一体どうやったら、我々に感覚が与えられている、ということから、感覚を生ぜしめる我々とは数的に異なるものが存在する、ということを結論することができるのだろうか。
(千葉清史「「物自体は存在するか」という伝統的な問題の解決によせて」)
社会文化システム研究科紀要|山形大学 人文学部・大学院社会文化システム研究科

例えば「物自体」とは、「我々の心のうちに(自発性から独立に)感覚が生じる」という過程、あるいはその際の単なる秩序のようなものであるのかもしれないし、あるいはそれどころか、およそ我々にとって端的に理解不可能なものでさえあるのかもしれないのだ。
(千葉清史「「物自体は存在するか」という伝統的な問題の解決によせて」)
社会文化システム研究科紀要|山形大学 人文学部・大学院社会文化システム研究科

しかしながらカントは、カテゴリーの物自体に対する適用不可能性に関する強い主張を行ってもいる。それによれば、カテゴリーの物自体に対する適用不可能性とは、単に、先に述べられたような、個々のカテゴリーを物自体に具体的に適用する手がかりは我々にはない----例えば、物自体に関して、それが一つしかないのか、複数あるのか(すなわち、単一性のカテゴリーを適用すべきか、数多性のカテゴリーを適用すべきか)決める手がかりは我々にはない----、ということに留まらない。それはむしろ、カテゴリーによって思念されること(すなわち、物のカテゴリー的規定)が、物自体の側に存することを我々は知り得ない、と主張するものである。
(千葉清史「「物自体は存在するか」という伝統的な問題の解決によせて」)
社会文化システム研究科紀要|山形大学 人文学部・大学院社会文化システム研究科

この問題については前回も書いたが、ジョン・ロックにおいて、「物自体=プロパティ」が、経験世界に対する、自然哲学的な意味での「原子モデル」であったように、こういった極小世界への、「原子モデル」の

  • 極限

の世界であると考えてみると分かりやすい。現代の量子力学においては、さまざまな物理量がもはや「独立」していない。それは、その「物」と、その周辺とをうまく「独立」して対象化することが「不可能」であることを示唆している。そういった世界の「ホーリズム」的な描像が、より「極限」に向かうに従って、より過激に拡大していくことが予想できるわけであろう。
おそらくは、メイヤスーはカントを読んでいない。読まずに、バークリーやフィヒテの言う主観的観念論のイメージだけで、そこには「物自体」の置かれる「位置」がない、ということを空想の中で思考して、その話をふくらませれば、一冊の本が書けると思って、あとは勢いでつっぱしったのだろう。そういった意味では、メイヤスーはカントのことについては何も書いていない、に等しいわけである...。