功利主義とカント哲学の違い

言うまでもなく、功利主義は一般の(カントなどの)道徳理論とは違っているわけだが、そういった場合、どこにその違いの

  • 中心

を置くのか、というところにポイントがあるように思われる。
功利主義は、カントの道徳理論のような「規範的」なものを基本的には認めない。功利主義における一切の規準は「幸福」である(より生理学側に寄った立場をはっきりさせる人は、「快楽」とか「欲望」などとも言ったりするが、大きくはそっちの方向ということである)。もちろんそう言うと、もしもこれが「自分だけ」にかたよれば、利己主義ということになるわけだが、功利主義はここで、ある「統計」的なアイデアを主張する。つまり、「みんな」の幸福の「最大化」なんだ、と。
しかし、ここにおいて、一般的なカントなどの道徳理論からは「反道徳」と言わざるをえないような認識が現れるわけだが、おそらくはここにこそ、ある種の「サイコパス」的な感性の人たちが熱狂的に功利主義に偏執する理由があると思われる。

仮に、集団予防接種で重篤な副作用が発生し、ひとりの児童が死亡したとする。統計的に考えれば、数百万人にひとりの副作用であれば、社会的なコストも個人的なコストもそちらの方が低いという判断が合理的な場合もありうるだろう。義務を解除して予防接種を受けない子供が増えれば、その子以外の児童にも感染の機会が増えるし、トータルで見れば死者が増える危険性が高いかもしれない。だが、その死亡した児童と家族にとっては、単なる確率論では済まされない、とてつもない重みをもっている。この主観的な重み付けが社会的な判断を下す場合にも強調され、予防接種の義務化反対、個人の判断にもとづく選択制にするべき、という世論が高まることも、考えられないではない。このような統計的合理性と主観的感覚との乖離は、リスク感覚に関する合意形成を難しくしているもっとも大きな原因のひとつである。
佐倉統「進化論と創造論、自然科学と原理主義」)

ダーウィンと原理主義 (ポストモダン・ブックス)

ダーウィンと原理主義 (ポストモダン・ブックス)

もしも「みんな」の幸福の「最大化」と言うなら、たとえ一部の例外がいたとしても、その全体の「最大」さえ達成できればいいのだから、そんなノイズは無視しちゃえ、ということになる。これを私は

  • エイヤッ主義

と呼んでいるわけだが、おそらくはここにある「国家主義」を背景とした、一部の「運の悪かった」人を

  • 人身御供

にしようとするアイデアにこそ、功利主義のアイデアの「中心」があると考えているわけである。
こういった議論は、3・11の福島第一原発による低線量放射性物質による被曝問題においても言われたわけであるが、確かに社会政策として、人々のコンセンサスにおいて、どこかしらに線を引かなければ、社会が回らないというのはあるわけで、それが3・11までは、「1ミリシーベルト」であったわけで、ひとまず人々はこの線において、「納得」していたわけであろう。ところが、御用学者が3・11で福島においてはこれが守れないと分かると途端に、いや、20ミリでも百ミリでもいいんだといった「安全厨」が現れて、それまでの1ミリを主張する人たちを糾弾し始めた。もちろん、たとえ1ミリだろうと、もしかしたら一定の被害が存在したのかもしれないが、ともかくも、社会がそれまではそれで納得をしてきたのであるから、あまり大きな話にはならなかったわけだが、3・11で途端に、御用学者が20ミリにしろとか、百ミリでも大丈夫だとか言い始めた途端に、ここにおける

  • 人身御供

はそもそも市民が受容可能なものなのかが疑わしくなる。そのことは上記の引用における「ワクチン」も同じで、今まであったほとんどのワクチンは、ほぼ二次被害を起こすことのなかった、安全なものであり、実際にそれで、かなりの命が救われていたことが社会的に認知されていたから、それほど問題にならなかったけど、最近話題の、HPVワクチンになると、とにかく副作用を訴える人が他のワクチンとは桁違いに多いし、その症状もかなりショッキングなものなわけで、しかも、このワクチンがそれまでのワクチンと比べても、どこまでの緊急性や性能があるのかも、まだまさ弱々しい根拠した見出せないようにすら見える。そうなってくると、この功利主義者が「ロマンティック」に興奮する

  • 人身御供

がそこまでするような正当性があるのかが市民の側に疑わしく見えてくるわけである。
東京都知事の小池ゆり子が、衆議院選挙で「希望の党」をたちあげたとき、「排除」という言葉を使ったが、そもそも、こういった「排除=人身御供」は、民主主義と相性が悪い。というのは、社会契約論とは、そういった「発想」と、ほど遠いアイデアから始まっているからなのであって、もしも国家が、ある個人を殺すことによって、それ以外の国家の構成員を「救おう」とするなら、その殺されそうになっている個人は

  • だったら、こんな「契約」は解除してやる

と、この社会契約から逃げ出せばいい、ということになるわけである(これを認めないとするのが、ルソー的な宗教国家論であるが、少なくとも、ジョン・ロックの社会契約論はこういったものである)。小池ゆり子が国民を「排除」すると言うなら、国民は彼女から逃げる、つまり、他の政党に投票したわけであり、まったくもって合理的だったわけである。
しかし、言うまでもないが、こういった考えは、カントなどの古典的な道徳理論と相性がよくない。カントの倫理学の中心的なアイデアは「人間の尊厳」にある。この一つにおいて、もはやなんらかの「例外」が

  • ある

などと言えるわけがない。あいつは救わなければならないけど、あっちの奴なら命の「価値」が低いんだから死んでもいい、だから、こいつの死「の代わりに」みんな生き残ろう、といった功利主義的な立場は、絶対にカントなどの古典的な道徳理論では採用できないわけである。
例えば、以下の方は、3・11でも話題になった「津波てんでんこ」を

と解釈することによって肯定しようとする。

以上をまとめると、津波てんでんこは利己主義的な教えではなく、功利主義に基づく教えであると筆者は考える。正確に言えば、それは間接的功利主義の一例と言えよう。それが間接的というのは、個人が従う格率は、すべての関係者の幸福を最大化せよというものではなく、自分の命を守れというものであり、それが集合的に助かる人命を最大化するからである。
(児玉聡「津波てんでんこと災害時における倫理」)

功利主義の逆襲

功利主義の逆襲

一見すると正しいように聞こえるかもしれない。しかし、津波てんでんこが強く言われたのは、小学校に通う子供たちに対してであったわけであろう。彼ら小さな子供は、まず彼ら自身が、そういった状況では生き残るのが難しいからこそ、彼らの命を彼ら自身で救うことが、まずは第一の優先事項とされたわけであろう。
つまり、以下のように考えるとよい。その小学生の家族構成が、あとは若い父親と母親だったとする。そして、この三人で、災害時の津波てんでんこを平常時から「約束」していたとする。そうすれば、若い父親と母親は、いざ災害が起きたときに、子供を探さなくて済むわけで、みんなが生き残る可能性が高くなる。
しかし、もしもこの家族構成に、年老いたおじいちゃんとおばあちゃんがいたとしよう。おそらく、この若い父親と母親は子供には、津波てんでんこを自分たちと約束をさせるであろう。そのことによって、子供の心配をまずは行わないという行動を行うことになる。しかし、この若い父親と母親が、その時に、なにも考えずに、まっすぐに津波てんでんこをするかは、まったく別の話なわけであろう。つまり、この年老いた二人の老人を助けに戻るか戻らないかは、大きな「選択」として残り続ける。つまり、そこにこそ

  • 選択

がある。

津波てんでんこの考えをカントの倫理学から正当化しようとする試みもある(小野原 2012)。すなわち、自殺をしてはならないという自分に対する完全義務は、困っている人を助けなければならないという不完全義務に優先するというのである。しかし、のような主張をするには、少なくとも以下の問いに答えなければならないだろう。第一に、自殺を禁じる完全義務が、津波に飲まれて死ぬ可能性がある場合に誰かを助けに行くかという場合に当てはまるかどうかである。そもそも助けに行く者は自殺を意図しているわけではない。この主張が正しいとすると、死ぬ可能性のあるあらゆる危険な行為をすることをカントは禁じていることになり、救助活動は一切禁止されることになる。第二に、小野原氏自身が述べているように、てんでんこが「利己主義とはなったく異なる、被害を最小限に食い止めるための知恵」(小野原 2012:160)だとすれば、これはカントの完全義務に基づくというよりは、人命救助の最大化を支持する功利主義の考え方と述べた方が適切なのではないか。
(児玉聡「津波てんでんこと災害時における倫理」)
功利主義の逆襲

津波てんでんこというのは、究極の「状況」である。この場合、なにも考えずに、真っ先に自らの命を救うための避難行動を、それぞれの個人に強いるわけだが、なぜそうなのかといえば、この「状況」が究極的な場面である、という認識があるからであろう。
しかし、ここで私が問題にしているのは、その若い父親と母親は、その状況が実際にはどうなのかを、ある程度には「判断」できる能力がある、ということを前提にしている。もちろん、そういった判断が間違っている、という認識こそが、津波てんでんこだということを分かって、私はそう言っているわけである。
もしも彼ら若い父親と母親が逃げるに十分な時間があるなら、一人ではもはや逃げられない、足腰の弱った二人の老人を救ってから逃げるかどうかの選択は、十分に考えられる。しかし、どう考えてもそんな時間がないということが分かっているような状況においては、彼らも日常的な場面において、常に話し合っていたはずで、その若い父親も母親も

  • 自らの命を守るため

に一人で逃げるわけであろう。こういった判断は、上記のカントの倫理学からの、「自殺を禁じる完全義務」と非常によく似ているように私には思われる。上記の引用では、著者は「津波てんでんこがカント主義なんてありえない」といったように、ずいぶん大袈裟な感じで否定しているが、どんな人命救助だって、自らの命を犠牲にしてまで「行わなければならない」なんていうものではないわけで、私にはむしろ、わざわざ津波てんでんこを「功利主義」に仕立て上げなければ気が済まない、といった

  • 悪趣味

にこそ、気持ち悪さを感じるわけであるが...。