なぜ東浩紀先生の柄谷行人解釈は意味不明なのか?

私は以前から不思議なことがあって、それは、まあ、東浩紀先生の『観光客の哲学』を諸手を挙げて礼賛している、

こと、「ゲンロン友の会」の人たちは、この『観光客の哲学』をほんとうに、読んだのだろうか、という疑問なのである。
なぜそう思うのかというと、この本は普通に読んで変だからなのだ。例えば、この本の中盤では、「マルチチュード」の話がでてくる。しかしこれは、まあ、言ってしまえば、ある種の「左翼」の話なわけであろう。そう考えると、なんでこの「マルチチュード」の話を、急に、東浩紀先生は始めたのだろう、と疑問に思わないのだろうか、と考えるわけである。
これと同様の疑問は他にもいろいろあるわけで、とにかく、いろいろな話が、なんの脈絡もなく「急に」始まる、という印象が強い。そのことは、第1章における「他者論」がなぜかここで急に始まる。なんでこの人は、急に、こんな話をここで始めたのかな、と思わない人って、まずだれもいないと思うわけである。すると、どうも、東浩紀先生は

の批評をかなり「意識」して、柄谷の「文脈」に従って、この『観光客の哲学』は書かれているんじゃないのか、という疑いがわいてくるわけであろう。

そもそもそれ以前に、ぼくが強い影響を受けた批評家の柄谷行人が、似たようなことを言っている。ある時期の彼は、「共同体」は閉じているからだめだ、「外部」からやってくる「他者」が必要なのだと説き続けていた、

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

ぼくたちはこれから本書で、さまざまな哲学者や思想家の名前に出会うことになる。そこに挙がっているひとも挙がっていないひとも含め、この七〇年ほどの、人文系のいわゆる「リベラル知識人」にはひとつの共通の特徴がある。それはみな、手を替え品を替え「他者を大事にしろ」と訴え続けてきたということである。
ゲンロン0 観光客の哲学

家族についてふたたび考えようというぼくの提案は、じつは以上の柄谷の試みを更新するものとしても提示されている(第一章の冒頭で、観光客論は柄谷の他者論の更新なのだと記していたことを思い起こしてほしい)。
ゲンロン0 観光客の哲学

よく分からないのは、ここで、東浩紀ファンクラブの人たちって、これだけ東浩紀先生が柄谷行人の「文脈」で考えているということを語っているということに対して、なぜ、なんの反応もしないのかな、と素朴に思うわけである。
というか、よく考えてみてほしい。東浩紀先生は上記のように柄谷を「批判」しているようだ、と。だったら、普通だったら、

  • 東浩紀先生のこの「批判」は正しいのか?

という疑問から始まらなければ嘘なんじゃないのか? つまり、そうじゃなかったら、読んでいることにならないわけでしょう? じゃあ、東浩紀ファンクラブの人で、一人でもこの問題に答えた人って、いるのかな?
まず、上記の最初の引用であるけど、私が普通に考えても、柄谷の言う「共同体」批判と「外部」の問題は深く関係して語られていたと思うけれど、柄谷の「他者」論は、もう少し広い範囲の、どちらかというと「道徳」というより

  • 倫理的(=道徳以前的)

な層で語っていたと思っているわけで(というか、柄谷が「他者」という言葉を使っている文脈は、さまざまな場所に散在していますよね。あんまり統一的な理論化がされていない)、こういった「まとめ」方はアンフェアだと思うわけだが、東浩紀ファンクラブの人たちはこれについて、なぜ無批判なのだろうか?
次に、上記の二つ目の引用にある「他者を大事にしろ」も同じで、柄谷が「他者」と言うときには、

  • 倫理的(=道徳以前的)

な層を意識していたと思っているから、こういった「他者を大事にしろ」(=道徳)は、ミスリーディングだと思うわけである。
同じようなことは、東浩紀先生の処女作である『存在論的、郵便的』についてもそうで、ようするに、東浩紀先生という人は、この本においてから、ずっと

を行っているわけで、つまり、東浩紀先生はずーっと、柄谷行人批判で飯を食ってきた人なんだけど、それで、東浩紀先生が柄谷行人の何を批判しているのか、ということについて、分かっている人って、一人でもいるのかな? 私は今だに、さっぱり分からなくて、彼の言う「否定神学」がどうのこうのって、どう柄谷行人批判につながるの? これさ。正直聞きたいんだけど、東浩紀先生による柄谷行人批判の文脈での「否定神学」がどうのこうのを

  • マジで正しい

と思っている東浩紀ファンクラブの人って、一体。何人いるの? 私、さっぱり分かんないんだよねw これって、私がバカだからなんでしょうか? 私の教養がないからなんでしょうか? いや、別にそれならそれでもいいんだけれど、だったら、だれでもいいから、このことを

  • つじつま

を合わせて説明してくれないんでしょうかね?

そういう時に、やっぱりひとつ強く思ったのが、これはちょっと反面教師といえばそうなるわけですが、やっぱり柄谷行人さんのNAMがすごい期待されていたけど、すぐ終わっちゃいましたね。
柄谷さんはあの後、すごく発言しにくくなったと思うんですよ。今でもNAMについてほとんど発信されていない。僕は「ああいう状態になりたくない」って思ったんですよね。聞き方によっては語弊がある発言になりますが...そのことが僕にがんばる気力を与えてくれました。「ここはなにがなんでも踏ん張らないとダメだ」と。
そうなんですよね。ただ僕はさきにも言ったように、「人は間違うからこそ人間である」のだと思うし、結局たいていのことは偶然で決まっている。だから、柄谷さんの試みを「事後的」に批判するつもりはまったくないんですよ。
潰れかけた時に奮起できた「郵便的コミュニケーション」―東浩紀さん『ゲンロン0 観光客の哲学』ブクログ大賞受賞インタビュー後編 | ブクログ通信

ようするに、なぜ東浩紀先生が『観光客の哲学』で、急に「マルチチュード」がどうのこうのとか言い始めたのかって、柄谷行人が関わっていた

  • NAM

を意識しているからなわけでしょう。ようするに、NAM批判(=柄谷批判)を「マチルチチュード」という言葉をもちだすことでやっているつもりなわけでしょう。しかし、変ですよね? だって、「マルチチュード」は明らかに「左翼」の運動を意識しているわけでしょう。
柄谷が自らのNAMの運動において「マルチチュード」を意識することはまあ、自然ですよね(まあ、経歴から言っても、左翼と言っていいわけですから)。しかし、東浩紀先生にとって、「マルチチュード」は直接は関係ないわけでしょう。

たとえば、私は一九九九年のシアトルでの暴動に代表される反グローバリズムの国際的運動にシンパシーを抱いていました。それは基本的にアナーキストによるものです。私はまた、一九九〇年代に風靡したネグリ&ハートの「マルチチュード」の世界的反乱という考えにも反対ではなかった。また、九〇年代にデリダが「新しいインターナショナル」を唱えたことにも。
柄谷行人「資本の「力」とそれを超える「力」)

現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018

現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018

つまり、なぜかというとこれ、なんらかの意味での「左翼」運動だからなわけでしょう。つまり、一種の「社会主義」なわけで、柄谷はこの一線を超えたことは一度もない。

私の所に連絡してきた人たちは、資本主義に対抗する運動を明確に意識しています。彼らが求めるのは社会主義ですが、習近平がいうような社会主義(国家資本主義)とは違います。それは資本と国家に対抗する運動です。それはある意味で、アナーキズムです。
柄谷行人「資本の「力」とそれを超える「力」)
現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018

一方、アナーキズムは本来、社会主義的です。事実、初期の社会主義者は(マルクスをふくめて)アナーキストであり、アソシエーショニストでした。今や、社会主義というと社会民主主義共産主義というと国家主義的な感じになります。だから、私にとっては、社会主義共産主義アナーキズムといっても同じことになるのですが、昔からのイメージが残っているため、いちいち説明しないといけない。
柄谷行人「資本の「力」とそれを超える「力」)
現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018

それに対して、東浩紀先生の言っていることは、ようするに、柄谷批判という形での「左翼」批判なんですよね。もっと言えば、

  • 左翼の「正義」

を拒否している。つまり、まったく「マルチチュード」と似て非なるものをそう呼んでいるに過ぎないわけで、ものすごく変なわけでしょうw
そもそも、上記のNAM批判が異様なのは、柄谷の言うNAMの運動が、「資本に対する対抗運動」として考えられていたということが完全に無視されていることで、だからトンチンカンなことをずっと言っている。

どんなに今のNAMの組織機構や運営の仕方をいじくっても、プロジェクトも運動も、おこるはずがない。それゆえ、NAMを一度解散し、会員が自由な個人 free agent として、あらためてアソシエーションを形成することから始めるほかない。そうして、さまざまなプロジェクトや地域運動がそれぞれアソシエーションとして成長したのち、その必要があれば、あらためて、「アソシエーションのアソシエーション」としてのNAMを結成すればいい。
柄谷行人「資本の「力」とそれを超える「力」)
現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018

今断っておきたいのは、NAMは全く消滅したわけではなく、各種のアソシエーショニスト運動として続いていることです。ここで名を挙げることはしませんが、NAMにいたと称してあげつらっている人たちは、それを知らないようです。それは、彼らがアソシエーショニズムとは無縁で、たんにNAMという団体に属していただけだということを証明しています。
柄谷行人「資本の「力」とそれを超える「力」)
現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018

柄谷にとって、NAMは「手段」なのであって、NAMの「目的」である、「資本に対する対抗運動」をそもそも止めるわけがないわけであろう。なぜなら「左翼」なのだから。つまり、まったく言っていることが、かみあっていないというか、柄谷が本気で向き合っている「相手」を、東浩紀先生は、まったく真面目に向き合おうとしない。それはなぜなのかといえば、ようするに、東浩紀先生が「左翼じゃない」からであって、つまり、そうであるのにも関わらず、その柄谷の論点を意図的に排除して、なんか難しそうなことを言おうとしているから、こうやって奇妙な本ができあがった、というわけであろう。
まあ、私の仮説というほど、だいそれたことではないが、ようするに東浩紀先生は、一見、柄谷行人について語っているように見えて、そうではなく、東浩紀先生の大学時代の指導教官であった、高橋哲哉先生のことを語っているのではないか? または、高橋哲哉先生の「解釈」する柄谷行人を。だから、いくら東浩紀先生の本を読んでも意味不明なのではないか?
そう考えると、上記の「他者」論も納得がいくわけで、基本的に高橋哲哉先生が、「他者」問題を「道徳」問題と同一のものとして扱っている、ということに関係している、というわけであろう(まあ、国立大学の先生ですからね)。
つまり、東浩紀先生は、著書でさかんに柄谷、柄谷と言っているけれど、これを読者は

について文句を言っている、と解釈しなければならない、といったような。
そもそも、浅田彰の『構造と力』の後半は、ラカンの解釈であるし、東浩紀先生の『存在論的、郵便的』も基本的に書いてある内容はデリダでありラカンの話であるし、直接は柄谷は関係ないはずなんですよね。つまり、柄谷に興味がないのに、なぜかいつまでもつっかかっている。そもそも興味がないから、思いつきの適当なことを柄谷に対して言って、意味不明な尻切れトンボの言及になるから、なんかヤクザの因縁みたいに、つっかかって掴みかかって終わっている。興味がないのであれば、言及しなければいいんじゃないのかと思うんですけれどね...。