「観光客の哲学」と社会生物学

東浩紀先生の『観光客の哲学』は、結局これって、何が言いたいのかな、については、このブログでも何度も何度も繰り返し問うてきたわけであるけれども、まあ、これだけ読んでくると、さすがに、それなりの見識みたいなのは私にも生まれるわけで、そう思って見てみると、かなり明確なメッセージを作者は書いているんですよね。

ぼくはさきほど、スケールフリー・ネットワークは不平等なネットワークだと記した。しかしここで「不平等」を人間中心主義的な意味で理解してはならない。古い頂点のなかから有力な頂点が優先的に選択されるとは、たしかに、富めるものはますます富み、友人の多いものはますます多くの友人を集め、評価の高いものはますます評価を集め、それゆえに貧しいものはますます貧しくなるということである。実際、ぼくたちが生きる二一世紀の資本主義評価経済はそのようにつくられている。
しかし、それはけっして富めるものが貧しいものを「搾取」しているからではない。そもそも数学的観点からすれば、富めるものと貧しいものの区別はほとんどない。ネットワーク理論は、全体の次数分布にのみ関わり、頂点の固有性には関知しない。地震(岩盤の歪みの集中)が一定の確率で起こるように、冨の集中も一定の確率で起こる。理論は世界の冨の偏りは予測できるが、だれが富むのか、だれが貧しくなるのかは予測できない。冨の偏りは、一部の富めるものがつくるのではなく、ネットワークの参加者のひとりひとりの選択が自然に、しかも偶然に基づいてつくりだしていくのだ。それが、バラバシたちの発見の教えである。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

まず、第一部における、ある程度結論部に近いところで、上記の引用のような、

  • 不平等

の「解釈」が述べられている。ここで重要なポイントは、その不平等が、

  • だれが富者になるかは「偶然」だ

と述べることと関連する形で、この不平等の成立が

  • 自然

だと述べていることである。そして、この不平等が「だれの悪意でもない」という一点において、だから

  • 正しい

と述べていることであろう。つまり基本的に不平等はいくら広がっても、その基本的な「関係」を変えるべきでない、というところにポイントがある。
この主張をもう一つ別の角度から説明しているのが以下である。

その立場はまた、書名に登場するもうひとつの言葉、「偶然性」とも深く関係している。公的なものと私的なものの分裂を受け入れるというのは、言い換えれば、自分の私的な価値観がたんなる偶然の条件の産物であることを認めるということだからである。ぼくは、たまたま日本人だから、たまたま男性だから、たまたま二〇世紀に生まれたからこのような信念を抱いているのであり、別の条件のもとではまた別のことを信じただろう、と想像をめぐらせることだからである。ローティはつぎのように記している。「人のもっとも高位の希望を語るときの語彙が、すなわち、自分の良心そのものが偶然の産物であることを認めながらも、しかしなおその同じ良心に対して忠実であり続けるような人々を、二〇世紀のリベラルな社会はどんどん生み出しているのである」。
ゲンロン0 観光客の哲学

なぜ「不平等」は正当化できるのか? それは、そのお金持ちの家に生まれた子供は、別に、その家庭に生まれることを「選べた」わけではないから、と言うわけである。つまり、お金持ちの家に生まれるか、貧乏の家に生まれるかは、「偶然」なんだ、と。だから、これは

  • だれかの<悪意>によって成立した「結果の不平等」ではないのだから、その<結果>をだれかの「責任」にできない

という意味で、正当化されなければならない、と言っているわけである。
そして、上記の引用では、さらに進んで言及している。
なぜ、「不平等」をなくさないとならないと「あなた」は考えているのか? それは「あなた」が、そういうことを考える「境遇」の家に生まれたからに過ぎないから、と。つまり「不平等は悪」と考える

  • 境遇

の家庭であり、地域であり、時代でありに「生まれた」ということによってその「意志」が

  • 決定

しているのだから、すべては「偶然」なのだから、このことを逆に言えば、

  • あなたは別の境遇に生まれたなら、「不平等は悪」と考えなかった

のだから、今、あなたが考えている「不平等は悪」は、グローバルな「真実」ではないから、私たちは自らの、そういった「ローカルな思い込み」を「捨てなければならない」と。
(おそらく、東浩紀先生が言いたいことは、こうなのだろうが、上記の引用にあるように、リチャード・ローティは「逆」のことを言っていることが、興味深い。つまり、ローティは、たとえそうであっても、リベラルが自らの「ローカル」な信念に忠実であり続けていることを「肯定的」に解釈しているわけである。そしてそれを、ローティは「アイロニスト」と言っている。それに対して、東浩紀先生は、ようするにローティの「ローカリズム」は間違っている、と主張している。つまりは、こういったリベラルたちの「ローカリズム」に依拠した「信念」は捨てなければならない、と。つまり、不平等は悪という「信念」を捨てなければならない、と。)
しかし、このように記述してきた上で、この、東浩紀先生の「不平等肯定論」には、一つの瑕疵がある。それは、たったこれだけの理由であれば、

  • 不平等を是正してはならない

根拠にはなっていないからだ。上記の説明は、「不平等が善なのか悪なのか」の東浩紀先生の解釈を示しているだけに過ぎなく、じゃあ、この不平等を是正したら、なにか問題があるのかといったような、積極的な

  • 不平等是正の否定

の根拠とはなっていない、ということである。そして、この問題についてはでは、どこに書かれているのかというと、第二章のドストエフスキー論に記されている。

空想的社会主義者は、内なるマゾヒズムに目覚めると地下室人に変わる。理想を信じて世界に奉仕するのではなく、逆にその奉仕の背後に隠れていた倒錯を暴きたて、呪詛を並べ立てるように変わる。一時はユートピアの理想を信じたからこそ、その倒錯に対しても厳しくあたる。この亀山の読解は、ドストエフスキーによるチェルヌイシェフスキー批判の理解をいっそう立体的なものにしてくれる。『何をなすべきか』では、男ふたりと女ひとりの共同生活が理想として描かれていた。それに対してドストエフスキーは、たんにそれが非現実的だと言ったわけではない。男が女を取られていいわけがない。もしそういうことがあるとすれば、それはおまえが女がほかの男に抱かれるのを見て興奮する変態なだけだからだ、と残酷な観察を突きつけていたのである。
地下室人はたんに社会主義者を批判しているのではない。もしそうならば、社会主義のすばらしさを説き、地下室人を改心させればいい。実際にそれがチェルヌイシェフスキーの(そしていまにいたる左翼の)戦略でもあった。
けれども地下室人は、むしろ社会主義の偽善を指摘している。ユートピアの理想に隠された倒錯的な快楽、正しいことをすることのエロティックな歓びに気づいてしまっている。だからそれに巻きこまれない権利を主張する。そしてその主張には理がある。社会主義者から地下室人へつながる、政治的であり性的でもある移行の回路。それこそがドストエフスキーが発見したものだった。この発見は、二〇一七年のいまもまったく色褪せていない。ぼくたちはまさにリベラルの偽善を暴く呪詛の声に取り囲まれている。その声がトランプを英雄に押し上げている。それゆえぼくはいまこそ『地下室の手記』を読みかえすべきだと考えたのである。
世界がどれほどユートピアに近づいたとしても、そしてそのユートピアがどれほど完全に近づいたとしても、人間が人間であるかぎり、ユートピアユートピアであるかぎり、その全体を拒否するテロリストは必ず生みだされる。それが、いまぼくたちの世界が直面している問題である。その本質は政治の問題ではない。文学の問題である。しかしテロという帰結は政治の問題なのだ。
ゲンロン0 観光客の哲学

なぜ不平等を是正してはならないのか? それは、ドストエフスキーが「地下鉄の手記」において描いた、地下室人の主張の「解釈」において示される。
ドストエフスキーの「地下鉄の手記」は、チェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』批判を意識して書かれたとして、つまりは、

  • リベラルの偽善

という形で示される。『何をなすべきか』は、二人の男が一人の女を「共有」する

  • 進歩的な新人類

の物語であるが、それを地下室人は「偽善」だと言う。そんなことはできるはずがない、と。もっと言えば、これに「満足」できるのは、

  • 人間じゃない

と言いたいわけである! 男とは、好きな女を一人占めにしなければ気がすまないのであって、もしもこれを「受け入れ」ているとするなら、それは、それを受けいれることで「リベラルな理想」をロジカルに踏襲していることを他人に誇示できていることに、なんらかの顕示欲を満たされている、ということを現しているだけで、本当なら、そんなものに耐えられるわけがない、と。
東浩紀先生は、この「左翼批判」を不平等にも敷衍する。男が一人の女の「共有」に我慢できるはずがないということと、お金持ちのお金が貧乏人によって「平等」にされることに我慢できるはずがない、ということは、まったく

  • 同型

の問題だ、と言いたいわけである。
さて。この本を読まれた「みなさん」は、どう思われただろうか?
上記の議論から考えても、なぜ第二章が「家族」論であるのかを、よく示していることが分かるであろう。なぜ「家族」なのか? それは、ここで言う家族とは、

  • 二人の男が一人の女を「共有」する関係<ではない>

ということを示唆することを「目的」として選ばれている「言葉」だということである。「家族」において、二人の男が一人の女を「共有」することはない。それは、左翼のような、「進歩的リベラル」が空想する未来の男女関係であって、そんな

が実現するはずがない。男と女はそういうふうにできていない。男と女は「自然」に、「従来の家族」を形成するし、そうでなければ、「人間でない」と言いたいわけである。
同じように、お金持ちと貧乏人が「平等」になってはならない。そうなることは、まさに「従来の家族」が否定され「二人の男が一人の女を共有する<新しい男女関係>」が普通になるグロテスクな社会に、人間社会がなってしまうことなのであって、それは人間の「自然」を否定するものであるという理由で、まさに、左翼を反対するように、反対する、というわけであるw
確かにこのように「脅され」てみると、二人の男が一人の女を「共有」しているような家族なんて聞いたことがないし、なんだか、進歩的知識人って、

  • グロテスク

なんじゃないのか、といった認識に説得されそうになるかもしれない(それと同じ理由で、不平等の是正も、なんらかの進歩的左翼の保守派的な「伝統的価値」の、なにかを破壊しているような側面があるのかもしれない、とか、なんとなく思い始める、というところがあるかもしれない、みたいな)。
しかし、この例が興味深いのは、この逆って、歴史的に見ると、別にめずらしいことでもなかったわけですよね。つまり、複数の女が一人の男に「共有」しているって。まあ、逆に言えば、一人の男が複数の女を「占有」している、になるわけですがw この二つの表現って、ちょって微妙で、もしも後者に注目するなら、上記の東浩紀先生のレトリックと整合的なんですよね。、つまり「占有」だから、問題ない、って。でも、前者だと、理屈が合わなくなる。つまり、これは「父系社会」なのか「母系社会」なのか、という対立になるわけで、なかなか興味深い問題だなあ、と思えてくる。
さて。東浩紀先生は何が「問題」だと言っているのでしょう?
どうも、東浩紀先生はこの「二人の男が一人の女を共有する」関係は、(上記の二つ目の引用にその言葉が使われているが)、

  • 自然じゃない

からダメ、と言っている<だけ>のように聞こえるんですよね。さて、みなさんはどう思われたでしょう?
この辺りを、私なりの推測を踏まえて推理をさせてもらうと、彼の問題意識の中には、ようするに、カントに代表されるような

  • <科学>と一見すると「遊離」した近代哲学

のその「形而上学」性に対して、それを、もっと「科学」に近い「唯物論」に近づけていかなければならない、といった義務感のようなものを感じるんですよね。
つまり、カントは「間違っている」。だから、カントと「戦っている」というわけである。
例えば、カントは「人間の尊厳」ということを言う。しかし、それは本当なのか、と疑うわけである。人間に尊厳なんてあるのか? ゴミ屑のような、無価値の人間だっているんじゃないのか? それは、少なくとも、「動物に、ゴミ屑のような無価値の動物がいる」ように、人間だって、そうじゃないのか、と。
カントは「自由」を徹底して擁護したわけだけど、そうなのか、と疑うわけです。人間は動物だし、動物は進化論で言うように、「本能」に従って動いているだけなのであって、そこに「自由意志」なんてない。動物に自由意志がないように、人間にもそんなものがあるはずがない、と。
つまり、「進化論」である。進化論は動物は「自動機械」なのだから、その「ルール」に則って、盛者必衰を繰り返す、という主張であって、だから、動物の行動は「予測」できる。それは、自然科学において、ニュートン万有引力の法則で、物体の位置が予測できるように予測できる、ということと同じであって、人間も動物なのだから、その「本能」とか「欲望」とか「本能」によって、人間の行動を

  • 予測

できるし、なにを与えれば、その「欲望」が「満足」されるのかが分かるのと同じ意味で、なにを与えれば、その人間が「幸福」になるのかが分かる、といったような形で、

とも繋がってくる。科学とは「予測」の学問であり、予測できなければ科学じゃないのだから、人間だって動物であり、物質なんだから「予測」できるはず、と。
まあ、ようするに、自然科学的「決定」論なんだよね。この話って、下世話な言い方をすると、男が「暴力」をふるうのは、それが「本能」なんだからしょうがないとか、男が「レイプ」するのは、それが「本能」なんだからしょうがないとか、まあ、いわゆる、通俗的な「科学」の本を読んでいると、そういったことが大真面目で書かれているわけで、まあ、人間の行動を、自然科学における「予測」の範囲で考えるなら、まあ「決定」論というのは、こういうことだよな、となるわけであるw
これを「物騒」と思うことは確かにそうなのだけれど、ナチス・ドイツがやっていたことって、アーリア人に対して、ユダヤ人は劣っているから、遺伝子的に劣っているから、アーリア人の血が汚れないように、ユダヤ人を「絶滅」させる、というわけであろう。しかし、これと「科学」の主張の差って、ほとんどないわけでしょう。おそらく、「科学」は、アーリア人ユダヤ人、それぞれの

  • 能力

の「測定」を行い、その「優劣」を「判定」するんだろうね(科学にとって、それが「正しい」か「間違っている」かは、あくまで「誤差」とか「ルール」の中のことにすぎないから、まあ、なにをやっているのか意味があろうがなかろうが、そういった「測定」という「行為」は、勝手に行い、勝手に「判定」はするわけだからね)。そして、それによって、もし「アーリア人」に比べて「ユダヤ人」が「劣っている」という結果になったら、どうするんだろうね、科学は。アーリア人の血が汚れないためにユダヤ人を虐殺するとかいう「政治」的判断をするんだろうかね。
カントは、こういった発想に対して、言わば、

  • 自然哲学と独立して、

「自由」の存在しうる形而上学的な「領域」とか、「人間の尊厳」といった道徳を成り立たせるような独立した「領域」を確定することに興味があったわけで、この戦後の「科学」主義と言ったものが、さまざまな形で

  • カント

の「人間主義」に反抗する形で、「科学」の強調がされるようになる。そういった一連の「哲学」としては、

まあ、いずれにしろ、カントの哲学を「科学」によって否定する、といった構造になっていることが特徴なわけであるが、ここにおいて、もう一つ、非常に重要な視点として、

があるわけである。こういった対比において、非常に興味深いのが、いわゆる「社会生物学論争」にあって、これの特に注目すべきポイントは、いわゆる「科学」側においては、この論争は

として総括されているからなのである。では、この社会生物学が「なぜ」勝利なのかというと、これが「科学」だから、という結論になる。まあ、科学なのだから、調べれば調べるほど、さまざまな「発見」があるわけで、そうである限り、科学が負けることはない、と。科学は、はるか未来に向けて、無限に「成長」する。そうであるなら、科学は「無敵」なのであって、それは、社会生物学も同じなのだ、と解釈されるわけである。
このように考えたとき、上記の四つの勢力がいずれのカントを「仮想敵」としたことから、この社会生物学論争での、社会生物側の勝利は、そのもの、カント哲学の「科学」に対する

  • 敗北

を意味するのではないか、と色めきたった、というわけである。
しかし、ここで、上記の四つの勢力が一体、なにと戦っているのかと考えたとき、そこで言う「科学」の強調は、問題をまったく解決していない、という印象を私には抱かせる。それは、科学とは結局のところは、

だからなのだ! それは、人間も動物であり、動物も結局は、「自然法則」に縛られた、「決定論」的な存在であるのだから、つまりは、「自由など存在しない」という主張に収斂される。人間も動物と同じように

  • 本能

に縛られた「自動機械」に過ぎないわけで、その「自動機械」の正体が

  • 進化論

だということになる。なぜ人間が犯罪を犯すのかといえば、そう「本能」が命令するからで、だとするなら、犯罪者の罪は問えない、ということになる。なぜなら、それが「本能」である限り、自らの「意志」では、それに逆らえない、と。つまり、一切の「犯罪」を問うことができなくなる。これが

  • 科学主義

ということになるだろう。そして、「決定論」ということは、まさに、功利主義と相性がいいわけで、

  • なにが人間の「幸せ」なのかを「計算」できる

ということになる。なぜなら、人間がどう行動するのかは、科学なのだから「決定」しているのだから、まさに「それ」が答えだから、というわけで、この考えは、

を正当化するわけである。そしてさらに、この「決定論」は、人間のだれが「優秀」で、だれが「劣等」であるのかの「計算」を可能にする。そして、功利主義が主張するように、

  • ゴミ屑のように無駄で殺してもいい人間が存在する
  • あらゆる人間に<卓越>して「価値」のある人間(=東大に入るような人間、エリートになるような人間)

というように、人間には「階級」があるんだ、という主張になる。
そして、こういった主張が、いずれにしても、

  • カントの自由と尊厳の哲学

と著しく対立していることが分かるであろう。
しかし、他方において、カントの側から考えてみたとき、果してカントの哲学は「科学」と両立できないのか、というのは、あまり考えられていないわけである。
というのは、カント自身は自らの「自由の哲学」は、科学がより発達した未来においては

  • 不要になる可能性があるかもしれない

ということは認めているし、そもそもカント自身が、自らの超越論哲学は、

  • 経験的実在論(ニアリーイコールの、自然科学)を含んでいる

と言っているから、なわけである。まあ、そう考えると、話は微妙になってくるわけで、確かに、上記の四つの立場は、それぞれ、カントを仮想敵として、口汚くカントをののしり続けているわけだけれど、細かく見ていくと、どの主張も、そこまでカントを否定するというほどの成果をだしているのか、というと、疑わしくなってくる。
というか、彼らが「戦って」いるのは、本当にカントなのだろうか、といった疑問はさらに強くなっていくわけで、どうも、まったく違った相手に向かって、なにかを言いながら、それを「カント」を代表して、ののしっているだけなんじゃないのか(カントは関係ないんじゃないのか、というか、彼ら科学者が、まともにカントを読んでいるわけがないんですよね。そんな暇なんてあるわけないしw)。
じゃあ、彼らの本当の「敵」は誰なのか、ということになるけど、まあ、普通に考えて

なんだろうな、というのは、素朴に考えて、そうなんでしょうね。

ウィルソンはある程度まで彼自身が受け継いだ知的遺産の落とし子であると言うことはできるが、ウィルソンを衝き動かしたもっと強い力、つまり彼個人の道徳的な課題の落とし子であるのは疑いの余地がない。社会生物学を、社会行動のすべてを包含した本当の意味で予言的な科学にしたいというウィルソンの情熱は、最初のうち、(キリスト教神学者がまちがっていることを証明したいという彼の古くからの願望と密接に結びついていた。彼は、不必要に人間を苦しめることにつながる恣意的な道徳的規範を神学者たちが押しつけるのを許すような意味と倫理の領域が別に存在することはありえないと確信したがっていたのだ。彼は、人類にとっての自然の倫理が存在するにちがいないと信じ、それを探し求めていたのだ。人類が生き方を自分で決める力を強めることを許すようなあらゆる新たな科学的知識は、ほかの人間の生活を律しようとする神学者たちから力を奪うことになるだろうとウィルソンは信じていた。

社会生物学論争史〈1〉―誰もが真理を擁護していた

社会生物学論争史〈1〉―誰もが真理を擁護していた

だから、子供の頃の、キリスト教の教会に連れて行かれて、いろいろな「説教」をされたことがトラウマになっているわけなんでしょうね。そういった、教会系の学校に通った人は、少なからず、そういった「道徳」思想に洗脳されていて、それとの葛藤に大人になってからも、縛られている、ということなのでしょう。
まったく、そういったキリスト教道徳と無縁の場所で育った人にとっては、ほとんどそういった問題になんの、実存的な価値も感じないで、スルーされていくことが、こういったトラウマをもっちゃった子供にとっては、どんなことであれ、こういった説教師を

  • 論破できるんじゃないのか?

と思わせるようなアイデアに出会うたびに、強烈に自らの実存を揺さぶられて、とにかく、それにこだわらずにいられない。
でも、ウィルソンって、昆虫学者なんですよね。昆虫を「社会」と呼んで、そこから、「人間社会」のアナロジーで人間も「本能」に抗えない、みたいな議論って、どう考えても筋悪でしょう。だって、昆虫と人間なんて、あまりに、DNAも違っているし、形態も違っているし、同じ「社会」と呼んでいる方が、異様なようにしか思えない。
しかし、それを「科学」の側から見れば、いや、どんなに生物としての系統が離れていようが、「比較」ができる限り、「比較」はできるのだから、その科学の「進歩」の第一歩は踏み出せる、みたいなレトリックになっているわけでしょうw そりゃ、絶対に負けないレトリックだよねw
例えば、進化論を考えてみても、よく考えると、これ典型的な「決定論」なわけでしょう。しかも、「感情」にしても「欲求」にしても「本能」にしても、それに従ってしまうって、「決定論」ですよね。そして、「才能」とか「優秀」とかって、これも「決定論」なわけでしょう。
そして、おそらくはそういった傾向性は、まあ、人間においてだって、それなりにはあることは、まさに、人間も動物だ、という意味くらいにはあるわけだけど、問題はその程度のことって、カント哲学の許容範囲なんじゃねえの、といった違和感なわけでしょう。
つまり、カントが問題にしているのは、そんなことじゃない。これは、科学者たちが、結局のところ、カントを読んでないし、もっと言えば、カントと「関係ない」ことでしかないことを「判断」する能力がないこととも関係している。カントがずっと関心があるのは、人間の「自由」であったり、「人間の尊厳」なのであって、たとえそれが

としてしか与えることができないのだとしても、それなしに、人間社会の「秩序」は難しい、という認識が、ここまでのこれに対する「執念」を与えているわけで、そもそも、そういった問題意識をもたない連中には、カントは関係ないはずなのだ。
カントに関係ないことをしているし、実際にカントと関係のないことしか言っていないのに、彼らが執拗なまでにカントにかみつくのは、それはカントが「哲学の王道」みたいに思われていて、ここの牙城を崩せば、科学の哲学に対する「勝利」みたいに考えているから、ということなのかもしれないが、まあ、なんと言ってみても、関係ないものは関係ないでしかないわけで、こういった視点で、この辺りの議論をまとめてくれている人っていないんですかね...。