つい最近まで、東浩紀さんの「観光客の哲学」について、いろいろ書いたのだが、私があの本で、どうしても一つだけ許せないものを挙げるとするなら、彼が
- 家族
の再評価のようなことを、語っていることだと思っている。
ただ、このことについては、過去にも同様の趣旨で記事を書いていて(「観光客の哲学」における家族 - martingale & Brownian motion)、ここで多少そこでの主題と重ねるところもあると思うが、あらためて、考えてみたい。
もちろん、そのことに彼自身がマジで確信して、なんらかの信念をもって書いているのなら、私がどうこう言うことではないと思うが、彼はそのための「言い訳」から書き始めているんですよね。
つぎに、理論的あるいは倫理的に、「家族」が孕むさまざまな暴力が指摘されてきたという歴史がある。その代表的なものとして、上野千鶴子をはじめとするマルクス主義フェミニストたちの研究がある。彼女たちは、家父長制(家族)は、資本主義と結びつき、女性の家庭内労働および再生産の可能性を搾取してきた暴力装置にほかならないと主張する。上野の定義では、家族とは「性と生殖を統制する社会領域」のことである。家族愛そのほかの言説は、その「統制」の本質を覆い隠す虚飾にすぎない。関連して日本では、戦前の一君万民制に代表されるように、「家族」「イエ」の隠喩が全体主義国家の正当化に利用されたという経緯もある。国民を家族の一員だと見なすことは、個人にとってときに耐えがたい暴力となる。
さらに付け加えれば、二〇一七年のいま、この言葉は「政治的正しさ」の点でも素朴に肯定して使うのがむずかしいと言えるだろう。家族に対する感情はひとそれぞれである。いい家族もあれば悪い家族もある。児童虐待もある。家族構成もさまざまだ。すべての人間には父と母がいるとぐらいは言いたいところだが、たとえ生物学的にはそうでも、同性婚がつくる家族では事態はより複雑である。それら個々お事例を考慮することなしに「家族」なる大文字の概念について語ることは、不用意にひとを傷つけかねない危険な行為ということになろう。
ぼくはそれらの懸念や違和感に完全に同意する。家族の概念を政治的連帯の基礎に据えるためには、それらの暴力性を中和するための、さまざまな理論的な操作が不可欠である。そしてそれはかなりむずかしい。
にもかかわらず、ここで家族を有望な候補として挙げているのは、それ以外に、個人でも国家(ネーション)でもない、アイデンティティの核として利用可能な概念が見あたらないからである。
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そうなんだ。言い訳が言えるくらいには「余裕」があるんだな、と思うと、途端に全てのレトリックが真面目に聞く気持ちをうせさせられるわけでw、というか、書いている本人もそれくらいの自覚はあるんじゃないだろうか。
例えば、上記の引用だけを見てもいい。「家族」の概念を肯定的に使うことは「むずかしい」と言っておきながら、その舌の根も乾かないうちから、それ以外にアイデンティティの核として
- 利用可能
なものが見つからないから、「家族」なんだってさw だったら、最初からアイデンティテイの核を
- 利用
しようなんていう、他者操作的な、人間の尊厳を踏みにじるような態度を止めればいいのにねw 早い話が、家族を使えば、他者操作ができるよ、って言ってるんだろ。口先で他人を「支配」できるって、いかにも「文系」的な魔術的他者支配の文法だよねw。
なにが「アイデンティティ」だ。そんなもの、こっちから願い下げだ。お前が「分かる」ような、アイデンティティなんて、ぜったいもってたまるか。死ぬまで、他人のアイデンティティを云々してろよ、おれには関係ないけど。
しかし、なぜ東先生はここで「アイデンティティの核」をどうしても見つけなければならないのか? それは、この本の第一部における、ある「信念」が関係している。
ぼくたちはいま、まさにその普遍主義のプログラムが崩れ落ちる時代に生きている。[...]いずれにせよ、ぼくたちはいま、個人から国民へ、そして世界市民へという普遍主義のプログラムを奪われたまま、自由だが孤独な誇りなき個人(動物)として生きるか、仲間はいて誇りもあるが結局は国家に仕える国民(人間)として生きるか、そのどちらかしか選択肢がない時代に足を踏み入れつつある。帝国の体制と国民国家の体制、グローバリズムの層とナショナリズムの層が共存する世界とは、つまりは普遍的な世界市民への道が閉ざされた世界ということだ。
ぼくはそのような世界に生きたくない。だからこの本を記している。言い換えれば、ぼくはこの本で、もういちど世界市民への道を開きたいと考えている。ただし、ヘーゲル以来の、個人から国民へ、そして世界市民へという弁証法的上昇とは別のしかたで。それが観光客の道である。
ゲンロン0 観光客の哲学
彼は、自らの理想を「普遍主義」に置く。つまり「普遍」であることこそが、彼が最も大切にしていることなのだ。そこから彼は「国家」や「ナショナリズム」から抜け出せなかったカントやヘーゲルを
- 超える
ことこそが、弁証法的な人間のあるべき姿と考える。しかし、この辺りで、なんとなく「うさんくさい」な、とお気付きなのではないだろうか。彼の話はどうも、なにか隠れた「意図」があるように思われる。なぜ、ここで「国家」を「超えた」、普遍なり、グローバリズムを強調するのか? その含意として、彼は何が言いたいのだろうか? そもそも、ここで言っている「普遍」とは、どういったことであることを指示しているのだろうか?
リバタリアンが尊重する自由には、経済的自由も含まれている。経済的自由を最大限に尊重するということは、要は国家による冨の再分配に慎重な立場をとるということで、それゆえ必然的に福祉国家(大きな政府)に対しては否定的になる。リバタチアニズクはこの点で、リベラリズムと鋭く対立する。リベラリズムは、現在のアメリカでは、人格的な自由こそ尊重するが、冨の再分配を重視して経済的な自由はむしろ制限する、イデオロギー的にはまったく逆の福祉国家支持の立場を意味している。
ゲンロン0 観光客の哲学
彼[ノージック]の結論は、国家は最小国家(市民を暴力や犯罪から保護し、契約の執行支援するだけの国家)であるかぎりでのみ道徳的に正当化されるのであって、それ以上の大きさになるのは不当だというものである。
ゲンロン0 観光客の哲学
ノージックの考える最小国家には、ヘーゲルやシュミットが前提としていた弁証法的(精神史的)な機能がいっさい存在しない。[...]最小国家は個人の欲望をなにも変えない。個人を国民にしない。[...]つまりは、リバタリアンの「国家」は、政治=人間の層というよりも、むしろ徹底して脱政治的な、経済=動物の層に属するメカニズムとして考えられているのである。[...]
これは、リバタリアニズムの理論が、国家と政治の人間を等式で結ぶヘーゲルのパラダイムから自由に作られている可能性を示唆している。これは決定的に重要である。
ゲンロン0 観光客の哲学
ようするに、彼は「リバタリアニズム」が答えだ、と言っているわけである。そして、ここで言っているリバタリアニズムとは、
- 反福祉
ということである。彼は「国家の福祉」に反対なのだ。なぜならそれは、「普遍」じゃないから。「国家の福祉」は反道徳的だ、と言いたいのだ。なぜなら、国家の福祉は
- 他の国の人々
への福祉を「排除」するから。自国民への福祉は「反道徳」だ。それは他国の国民を「公平」に扱っていないから。その含意は
- 普遍=世界国家
による、一元的な一極集中による、世界福祉の分配にしか正解はない。つまり、これを選ばない限り、
- 福祉をやるべきでない=リバタリアニズム
ということになる。
まず、国家の正当化は本当はたいへんに難しい。まずここを押さえておく必要があります。
しかもその正当化は福祉国家の方が難しい。というのも、福祉国家というのは強者である金持ちから多くを「奪って」弱者に分配するということをするわけですが、「なぜそんな権利があるのか」に答えるのはなかなか難しいんです。
- 作者: 経産省若手プロジェクト
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この「俺の財産をなぜ見知らぬヤツに与えなきゃいけないんだ?」という意見に対して、現在の国民国家は、「日本人は、日本人というだけで仲間なのだから、政府が金持ちからお金を取り上げて弱者に分配しても納得しなさいよ」と、教育やマスコミを使って「洗脳」するという手段を取っている。
不安な個人、立ちすくむ国家
さらに言えば、そもそもそうした問題がある上に、今の日本の状態というのは、ネット文化がどんどん進んできた結果、生活保護の実態などが誇張して広められ排他的な意識が高まりつつある。そんな中で、経産省のみなさんが「金持ちの高齢者からお金を取って、あるいはもっと税金を取って、お金のない人たちに分配しましょう」と言っても、国民的なコンセンサスをどれだけ取れるのかは微妙です。普通に考えると、まず取れない。
不安な個人、立ちすくむ国家
これは経産省の若手にレクチャーをしている場面での発言であるが、すげーよな。なんとしてでも、国家がお金持ちから税金をたくさん取ることを止めさせようとする「執念」のようなものを感じるよね。「洗脳」とかいう言葉まで使って。そこまでイメージ操作がしたいんだw しかもそのために、
- ネット文化
が腐ってしまったからとか、すげー、なんの関係もないことを「言い訳」にしてるんだね。よくそんな「愚民どものせい」みたいな文章を書けるよね。ネット文化が「邪魔」をするから、お金持ちから税金をたくさんとることは「不可能」なんだってさ。おれ、そんな意見、始めて聞いたよ。まず、ほとんどのネトウヨは、お金持ちの税金を上げることに
- 大賛成
だよ。だって、ほとんどのネトウヨはお金持ちじゃなく、みんな底辺の生活をしているんだから。こんなことを言っているのは、東先生のような、一部の
- セレブ
だけだよw いい加減、このKY感をなんとかしたらどうなんですかね。
ぼくは最小福祉国家主義者で、国家は国民の最低限の安全保障と市民生活を維持するのが仕事で(そして実際それで精一杯なはずで)、クリエイティブな才能を伸ばすとかイノベーションを支援するとかには手を出さず、そっちは規制緩和でいいと考えている。だから官僚に夢を与える話はできないのよね。
@hazuma 2017/09/11 12:49
そして日本の最大の問題は少子高齢化なのだけど、これこそ考えてもどうしようもないことで、いま必要なのは高齢者への年金給付だか社会保障だかを大幅に引き下げることなんだろうけど、これは政治的に絶対的に不可能なので、議論しても意味がない。この点でも夢を与えることができない。
@hazuma 2017/09/11 12:51
ここになると、ほんと「ホンネ」がすごいよね。つまり、今まで言ってきたことは、全部、「嘘」だったんだって。彼の目指していた
- 目的
はただただ、ひたすら、
- 高齢者への年金給付だか社会保障だかを大幅に引き下げること
だったってわけ。それが彼の言う「最小福祉国家」の意味だったわけ。よく読んでください。
- 大幅
ですからね。少しじゃないんですよ。大幅って言うんですから、ほとんど「半分」近くは減らすんです。
この人はなにがしたいんだろうね。
恐くなってくる。
おそらくは、ものすごい野望を内に秘めているんじゃないだろうか。それこそ、この社会、まるごと、まったく別のアナーキーな世界に突き落とすことをなにかの「解放」と考えるくらいに。その野望の影には、徹底的に今の社会秩序を破壊し尽そうといった、
- 日本社会の<自然>化
といったような、彼なりの「ユートピア社会」のイメージがあって、貧乏人を徹底的に貧乏の底に落として、お金持ちを極限までお金持ちにして、その「自然」な姿こそが、真の「倫理」社会だ、くらいの。まさに、中世の
- 階級社会=貴族社会
の再現のような。つまり、彼なりにそれこそが「人間」の本来性(ハイデガー)なのだから、それに逆らうことはできない、と。ハイエクの自生的秩序としての、社会の「自然」化によって、始めて
- 真の人間
がそこに現れる、と。つまり、これこそが彼の「倫理」なんだねw。
でもそうやって考えてくると、なぜ「家族」だったのかも分かるんじゃないでしょうか。国民への福祉を止めるということは、ようするに、その代わりを家族がやれ、と言っているわけです。子供や老人や障害者への「福祉」は家族が行え、と。そして、この含意は、
- もしそれを家族がやれないなら、(ある意味での)家族による、<不要>な家族の「殺人」を正当化しろ
と言っているわけでしょう。そして、国家はその「権利」を家族に認めるべきだ、と。いらない家族、邪魔な家族は「コスパ」が悪いから、国家は面倒を見ないということは、面倒を見たかったら、家族で勝手にやりな、と。ただし、功利主義的に家族も、その家族の一員が「邪魔」だったら、その家族内「民主主義」を認めましょう、と。つまり、家族内「合議」制による「尊属殺人」を。
こう聞くと、なんとも物騒な意見のように聞こえるわけだが、戦前の日本だって、口べらしとかいって、子供をよその家に養子に出したり、まあ、似たような話はあったわけで、それを前近代と言おうが、なんてったって、人間の
ですからね(つまりは、ポストモダンというのは「前近代」に戻ることだったんだよねw)。その含意は、こういったわけでしょう。
つまり、一種の「解放」理論なんだよね。今のまま、日本の「福祉」国家は、税金がかかりすぎて「継続」できない。だったら、国家レベルでも
- 口べらし
をやるしかない、と。つまりは、今国家が行っている「福祉」を、家族に押しつけてしまえばいい。彼らにそれが「義務」だって「洗脳」してしまえばいい。そうすることで、国家を
- 救える
わけで、これで国家が「借金」によって潰れる心配がなくなる。財政の健全化を達成できて、よって、国家は千代に八千代に永遠の存続を保証されるw
それにしても、なぜ急に、東先生は「家族」なんていうことを言い始めたのだろう? 実は「観光客の哲学」の前半で、以下のような記述がある。
だからそれは、国家論として記されているが、けっして政治思想や社会思想の枠に収まりきるものではない。それは、人間についての、とくにその成熟についての思考と不可分に結びついた議論なのである。人間がきちんとした人間になるためには、家族の一員であること(即自)や、市民社会で他者に触れること(対自)とは別に、なんらかの上位の共同体に属すること(即自かつ対自)が絶対的に必要だと、ヘーゲルはそう考えたのだ。
ゲンロン0 観光客の哲学
なんとも奇妙に聞こえるかもしれないが、あれだけヘーゲルの言う「国家」へのアウフヘーベンに反対していた東先生なのだが、その弁証法を「あきらめた」ことの含意が、たんに、ヘーゲルの弁証法の
- 初期段階(=家族関係の段階)
に留まることを意図していた、というのは驚きではないだろうか。つまり、東先生は少しもヘーゲルの弁証法をあきらめていない。事実、彼が言っていることは
- 国家
じゃだめだ、ということでしかなく、それが
- 世界共和国
だったらいいわけである。つまり、今ある地球上の国家が「ひとつ」の国家になりさえすれば、それで<良い>と言っているわけで、そういった意味でも、彼がEUやTPPに賛成であることも、それが「国家」を超えた「連合」であるから、大賛成なんだよね。しかも、こういったEUやTPPの特徴は、
- 一部の特権階級のエリートによる、非民主主義的な独裁体制
- 国民国家の民主主義の否定
という二つの意味で、「国家(地域民主主義社会)」の
- 否定
を実現している、という意味で、彼の考える「世界共和国」の代替的な組織なんだよね。
そして、おそらく東先生の頭の中には、戦前の京都学派の問題があったのだろうと思っている。
そして、その辺りについても、やはり、東先生には柄谷行人の影響があるのではないか、と私は思っている。
柄谷 一九四一年のヨーロッパにおける新秩序とは何かというと、ヨーロッパではすでに戦争は終わっている、ヨーロッッパは統一された、これが世界の新秩序なんだという考えなんですね。これはある意味で真実だった。イギリスをのぞいてヨーロッパは統合されたのです、当時のフランス人の大部分がそう考えていたと言ってもよいと思う。戦後「レジスタンスの神話」を作って、過去を忘れようとしましたが、日本の京都学派は、この「統合されたヨーロッパ」に対応して考えたわけですね。
(廣松渉・浅田彰・市川浩・柄谷行人「<近代の超克>をめぐって」)
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柄谷 ナチは事実、ヨーロッパを統合したんです。ドゴールとかほんのわずかのグループをのぞけば、フランスはほとんどナチドイツと仲良くやっていたんです。そういう過去を戦後全部隠蔽してると思う。
(廣松渉・浅田彰・市川浩・柄谷行人「<近代の超克>をめぐって」)
シンポジウム
柄谷 明治・大正期においては、世界だとか個だとかは抽象的でしかないと言いはじめる。民族・国家こそが具体的世界であるということになる、そこで、個と類ではなく、「種の論理」に立つということになる。
(廣松渉・浅田彰・市川浩・柄谷行人「<近代の超克>をめぐって」)
シンポジウム
柄谷 戦争中に結婚して子供がいますと男は戦争に行って死ねない。独身の男は国家の理念に吸収されるけれども、妻子がいるとそれだけで反国家になりうる。だからつまり国家とかの共同幻想に抵抗しうる自立の拠点は何かというと、個人ではなく家族であるというわけです。したがって、吉本隆明は対幻想という次元を持ってくるんですね、自己幻想と共同幻想というのはぐるっと廻ってつながってしまう。しかし対幻想は最終的な拠点になり得るという。今のフェミニストにもそういう主張をする人がいるわけですね、ぼくはそれは「種の論理」と同じ発想のものだと思う。"世界" というのは抽象的である、個人も抽象的である、具体的で本来的なのは、家族であり、大衆生活者であるということになる。吉本隆明も、「近代の超克」をなしとげたわけです。
(廣松渉・浅田彰・市川浩・柄谷行人「<近代の超克>をめぐって」)
シンポジウム
東先生も「観光客の哲学」を書く少し前には、さかんに京都学派の再評価に言及されていたわけで、それは、星新一や、梅棹忠夫の棲み分け理論などと関連して言及されていたのだと思うけれど、わざわざ今、家族という言葉を再評価する姿勢には、上記の柄谷の引用にもあるように、当時の世界認識、つまり、
- ナチドイツがヨーロッパを統一していた
といった「認識」が、一つの「歴史の終わり」を含意していた、今に続く歴史の最終地点だった、といった認識と、それを受けての、当時の京都学派による「家族」、つまり「種の論理」を、歴史の最終到達地点での「思想」として評価する、といった含意があったわけであろう。だから、東先生はどこか、この古くさい「家族」という言葉を再度ひっぱりだしてくることにも、
- だって、これが歴史の最終地点だから
といった隠れた解答をもっているという意味での、自信があった、ということなのだろう。
東先生の言う「動物化」とは、ようするに
- 個人は<抽象的>であり、具体的かつ本来的なのは「家族」である
という反個人主義ということなんでしょうね。そのことは、「個人の人権」の否定でもあるわけだけれど、
- 家族=動物
ということなんでしょうね...。