岡田麿里『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』

前回は少し感情的に書きすぎたかなと後から思ったわけだが、その理由としては掲題の本を読んでいたからかもしれない。
私の母親はつい最近、脳の出血系の病気で、医者から「もう意識は戻らないだろう(言語系の機能が戻らない)」と言われ、今もその状態なのだが、日本の福祉は少し頼りなくも感じることもあるが立派なもので、地元の特別擁護老人ホームのような施設にいる。
そういったいきさつもあったもので、日本の福祉の破壊を語る言説に、いいしれぬ怒りのようなものを感じたのだろう。
こうして、今に至ってみて、いろいろなことを考えたのだが、母親も一人の普通の、つまり、人並みには「弱い」ところをもった人間だった、ということなのだ。そういった意味で、家族をなにか「特別」なものとして語ろうとする言説に、いいしれぬ不快感を感じてしまうわけで、そんなことは、そんなに簡単には言えないんだ、といった自分の中の奥深くからせりあがってくるような感情をどうしても感じざるをえなかったのだろう。
なぜ掲題の本を読んだのかといえば、今、映画館で上映されている「さよならの朝に約束の花を」を見たからだったと思っている。私は別に、脚本家の岡田麿里さんのいい読者だったわけでもないし、ただ、人並みに「あの花」や「ここさけ」を映画館に見に行っていて、それについては、「さよ朝」にも感じたわけだが、全体としては、一般的な概念が先行するような「説明」的な作品として、私はあまり言及したいタイプの作品ではなかったわけだが、ただ、いろいろなシーンについて、後から振り返ってみると

  • 気になる

ものがいろいろと残っていくものがある、という感じだった。おそらく、そういったものは一般的な最近の日本のアニメーションの傾向に収まりきらない余剰なものがある、ということなのだろう。
掲題の本が掲題の著者の自叙伝のようなものになっていて、特に重要なのが、前半の「登校拒否児」だった子供時代を振り返って書いているところであろう。しかし、読んでいくと、あることに気付いていく。

そして学校の給食の時間、班の子達にそれを武勇伝のように語った。初めて大人の男性に性的に見られたことに興奮し、誰かに話したくてしかたなかったのだ。
「おっぱい描けとか言われたんよ!」
もう、班の子達はどっかんどっかんの大盛り上がりだった。「おっぱい!?」「うわー、えっちじゃん!」私は、自分の話がウケたことにご満悦だった。
しかし、担任は違った。母親より年上の女性だったが、その顔色がさっと変わったのを覚えている。ひとしきり私の話をヒアリングすると、「お母さんに言ってあげようか」と聞いてくれた。私はそれを断った。喋ったのがバレたら、さすがに怒られると思ったのだ。何度も何度も、母親には言ってくれるなと念押しした。担任は頷いてくれた。優しい言葉をかけてくれ、また何かあったら絶対に言いなさいと。
私はもう、何があっても担任に話すのはやめようと決めた。
ただ、この時の担任の反応は、それ以降の私にとって非常に有益なものだった。担任の顔色で、「母親は悪いことをしているんだ」少なくとも「子供に対して、不適切な行為をしている」というのが決定的になったからだ。
いや、薄々感じてはいたのあが。高級な食品を「これは大人の食べ物で、子供は食べたら死ぬんだ」的なことを言われて本気で信じこむのと同じで、「大人のやっていることの善悪は、子供には判断できないんだ」と感じていた。
それ以降、母親に対して良心の呵責のようなものが襲ってくると、私は必ずこの時の担任の反応を脳裏に浮かべた。そして、何度も何度も呪文を唱えた。
「お母さんだってひどいことをしてるんだ。私だけじゃない」

掲題の著者が、中学校、高校と登校拒否をし続けている日々は

  • 母親

との「二人だけ」の毎日である。つまり、ずっと母親と「直面」している。つまり、実は「孤独じゃない」わけである! しかし、だからといって心の平安がそれによって与えられるわけじゃない。いや。毎日は、悲惨である。そりゃそうである。学校に行けないのだから。しかし、そのことと「母親」との

  • 日々

の<対面>は別なわけである。掲題の著者は、人前で母親のことを話せない。なぜか? 彼女は分かりすぎるくらいに、母親が「弱い」ことを知っているからだ。それが世間では「恥ずかしい」ことであることを知っている。世間では言ってはいけないことであることも。でも、その事実に他人と直面する場面で、対面することは、

  • じゃあ、その子供であるお前はどうなんだ

とうことなわけだろう。むしろ、子供は親と「同じ」になろうとする。親が弱いなら、子供は「同じ」ように弱くなければならない。むしろ、進んで弱くなろうとする。なぜなら、それが「正しい」からだ。子供は「あえて」、親になろうとする。なんとしてでも、成長を「拒否」するのだ。
子供が学校に行くことを拒否することは、いわば、「母親の願い」である。それは逆説的に聞こえるが、それによって、母親は内心では自らの恥が世間に知られないことで、安心している。子供はそれがよく分かっているから、自ら登校拒否を選択する。
ところが、ある日、あることが彼女を少しずつ変えていく。

本人がそんな調子なので、東京にいる母親の妹達が集まって、私の進路についておおいに議論してくれたらしい。そして、大検予備校に通うため東京に出てきたっらそうかと言われた。子供のいない叔母夫婦のもとに、家事を手伝うという約束で間借りしていいと。
え、と拍子抜けしてしまった。
絶対に逃げ出せないと思っていた秩父から、この家から。ちゃんと学校に通ってもいなかったのに、こんなにも簡単に出られるものなのか?

私も、ある意味での転機となったのは、実家を離れて大学の寮で過ごすようになってからだったと思っている。実家を離れることは、奇妙なことである。今まで自明だった、そういった家族は、こんなにも簡単に「離れる」なんていうことが起きるのだ、と。もちろん、正月やお盆には帰るわけで、別に、まったく疎遠になるわけでもないわけだが、なんとも言えないこの「あっけなさ」が、大きな意味をもつわけである。
結局のところ、大人になってくると分かってくることは、親も自分と変わらない、ただの普通の人間だった、ということだと思っている。弱さもあるし、間違えもする。ただ、それだけのことだったのに、なかなかそれが意味していることが分からない。
そういう意味で、なにか家族を「神秘」化するような議論に私はどうしてもコミットメントしたくないという感情が先になってしまう。
そのことは、もっと素朴なことなのかもしれない。
私がもしも、親を誇れることを一つだけ挙げろと言われたら、両親にはどこにも「教師」の臭いがしなかったことだろうか。それは、おそらくは両親は今までの人生の中で、一度も「教師」といったような立場でいたことがなかったからであろう。一度でも「教師」をやったことがある人は、多くの場合、まったく知らない人の前でも、どうしても自らの生徒に対してとるような「上から目線」でものを語りたがる。どこか傲慢なのだ。というか、それが染みついていて、もはや自分ですら自覚できないわけだ。私は人間として、こうなったら終わりだ、と思っている。そういう意味では、両親にはどこか、純粋な子供のようなところがあったのだろう。もちろん、そんなことを本人に言ったら、「なにを言っているのだ」と気持ち悪がられるだけだろうが...。