まあ、もうさんざん言われていることだが、なぜ憲法第9条が
- 子どもにも分かるように
書き直すべきだと言っている連中が、安倍総理が「もし森友問題に、私か妻が関わっていたら、総理も辞めるし、議員も辞める」と言ったのになぜ、総理も議員も辞めないことを
- 子どもにも分かるように
すべきだと言わないのだろうねw
このことについて、一切説明をしようとしないで、森友問題が「贈収賄でなかった」だとか、「疑惑だけで安倍首相が関わった証拠がない」だの「公文書を捏造したことは間違いなく問題だ」とかいくら言ってみたところで、それってなんなんだろうとは思うわけである。
これは最初から「正義」の問題であったし、公文書の開示の問題であった。むしろ、そうではないと言って、「贈収賄じゃない」から「大したことはない」とかなんとか屁理屈を言って、この問題に真面目に取り組んでこなかったのは、まあ、ネトウヨの側だったわけである。
次のような思考実験をしてみよう。安倍政権は、内閣人事局を作り、各省庁のトップの人事を、完全に、内閣の一本釣りで決めるようになった。これは、今までの、ある程度の、各省庁ごとの
を認めてきた今までの自民党の政治方針と、真っ向から対立するものだった。そして、これによって、官僚の内閣に対する「自由」度は著しく落としめられ、彼らの将来のヴィジョンを暗いものにした。安倍政権は、自分たちの息のかかった人材を、勝手に、各省庁のトップに無理矢理、押しつけ、一切の彼らの「野望」を、そこから指揮・命令する形に、官僚組織の形態を変えたのだ。
ここにおいて、何が起きたか?
まず、なんらかの安倍首相にとっての
- 首相としての正当性
が疑われるようなスキャンダルが起きたとする。すると、内閣の安倍首相の「取り巻き」は、まず、各省庁のトップに「これこれこうこうしろ」と命令する。すると、その省庁のトップは、下に対して、「これこれこうこうしろ」と命令する。そして、今回の財務省の例では、自殺をした現場の優秀な公務員が、
- 悪の作業
に手を染めることになる。ここにおいてポイントは、内閣の「取り巻き」が、各省庁のトップに「ささやく」ときは、
- 一切の証拠を残さない
というところと、言うまでもなく、安倍首相と内閣の「取り巻き」は、この「問題」について、日頃
- 話し合っている
のだが、これも
- 一切の証拠を残さない
わけである。つまり、完全な耳元での「ささやき」レベルの、意志伝達だ、というわけである。
さて。このような場合、どうやってトップの「安倍首相」の責任を問えばいいだろう?
この問題によく似たケースとして、
の事件における、麻原教祖の「責任」をどうやって問えばいいのか、と考えられたケースに似ている。言うまでもない。トップが直接に「関係」した、といった
- 証拠
がたとえないとしても、多くの状況証拠から、麻原の「責任」が問えるような法的な枠組みが求められ、作られたわけであろう。
ヤクザやカルト宗教において、どうやって、直接は手を汚さない、組長や教祖の「責任」を問うか? つまり、この問題を抜きにして、近代法の問題は考えられないし、近代の法体系は語れないわけである。
大事なポイントは何か? それは、こういった場合に「忖度」という言葉を使ってはならない、というところにある。なぜなら、それは、こういった問題が、常に「トップの直接の責任の証拠が残らないように行われる」ことが
- 当たり前
である、ということにあるわけで、そうであるなら、それを「忖度」かそうでないかを問うことが無意味だからだ。
「忖度」であろうがなかろうが、一定の「責任」がトップにはある。だから、トップは比較的、短期間に、どんどん代わる。そういった組織が「健全」であるとされる。
では。
なぜ、安倍総理は総理を辞めないのだろう?
よく考えてみよう。安倍政権で、こうやって「自殺」をした人は何人目だろう? そして、なぜ彼らは自殺をするのだろう? それは言うまでもなく、「個人的」な理由であるはずがない。上記の文脈から分かるように、
- 耳元でささやくレベル
で、さまざまに「早く自殺をしろ」と脅され続けたからに決まっている。というか、そうでなければ、人はそう簡単には自殺なんてしないのだ。
なぜ、安倍首相の「取り巻き」は、直接の「当事者」を自殺させたがるのか。それは、ひとえに
- 安倍首相の「統治」の「正当性」
に関わっている。安倍首相の「取り巻き」が自らの今の「権力」を維持できているのは、安倍首相が首相の地位に
- いる
という事実以外にはない。よって、彼ら「取り巻き」はなによりも、安倍首相の「統治」の「正当性」を、どんな手段を使ってでも維持することにしか関心がない。そして、その一番の安全策は、最も直接的に問題に関わった
- 当事者
を抹殺することである。そうすれば、いざとなったら、
- 死者が「墓場」まで持って行った
といった「いいわけ」によって「うやむや」にできる可能性が大きくなるからだ。
しかし、その結果が何を引き起こすかは分かったわけであろう。
日本の国家官僚組織は、安倍独裁政権によって、完全に解体された。どんなに志をもって国家官僚になっても、安倍の息のかかった勢力によって、何度でも
- 悪の先棒を担がされ
て、しまいにはその「責任」を押し付けられて、抹殺される。抹殺されるところまで行かなくても、出世コースから外される。さて。彼らはこんな「人生」を送りたいだろうか?
私の考えを言わせてもらうなら、言うまでもなく、「権力は腐敗する」のであって、だからこそ、権力はできるだけ早く、
- 新陳代謝よく
トップの交代が起きなければならない。それは、その権力が「悪い」から、といった理由だけではない。そもそも、権力にはその「健全性」を維持する「からくり」がビルトインされていないのだから、この事実を理解するなら、できるだけ早く、トップは自ら身を引く決断を行うのが
- 当然だ
と言っているのであって、これは「構造」の問題だ、と言っているわけである。なんのことはない。安倍首相は自らの政策の「継続」を望むなら、自らの意志を引き継いでくれる「後継者」に禅譲すればいい。もちろん、その人が後の権力を担える立場に付くことができるかは、選挙などによる、その人の「実力」によって左右されるわけだが...。
(私は別に、安倍首相が麻原と同じような「悪意」をもっていた、といったことを言いたいわけではない。そうではなく、麻原にとっての「とりまき」がオウム真理教の信者だったなら、安倍首相の「とりまき」は、私たち日本人の全員だ、と言いたいわけで、ネットを検索してみれば、いくらでも、まさに「安倍マンセー」の御用学者、エア御用がわんさかいるわけで、そういった態度に警戒的でなければならない、と言っているわけである...。)