三谷博『維新史再考』

よく、明治維新は「革命」だったのか? と問われることがある。その意味は、フランス革命と比較して、ということになるが、その「結果」において、ある側面に注目すると、これは間違いなく「革命」だった、と言わざるをえなくなるわけだ。

しかし、明治維新はそれだけだったのであろうか。近世の支配身分だった武士がいなくなった。これは維新を世界の諸革命と比べて論ずる根拠となる重要な事実だが、それは右の理解に含まれているだろうか。また、統治身分の解体は一般には容易にはなしえぬことで、多大な犠牲を伴うはずであるが、維新での政治的死者はおよそ三万人であり、これは先行するフランス革命と比べると、二桁少なかった。これらの著しい特徴は、右のような図式で理解可能だろうか。

さて。この「明治維新」において

  • 何が起きていた

のだろう? そもそも人間は「合理的」な存在である。その日本人が、一体、どうやって「武士の解体」を可能にしたのか? なぜそのようなことが起きえたのか?

科挙朱子学の試験によって君主の官僚を選び出す。当時までの世界では最も公平な政治制度であったが、これを維持するには朱子学の正当性を傷つけるわけにはゆかなかった。しかし、日本では統治者は世襲身分を基礎に選ばれ、学問は関係がなかった。このため様々な学派や学問を生む可能性が残っていたのである。

まず、考えてみよう。江戸幕府における、各藩の「正当性」はどこにあったのか? それは、まさに

における「論功行賞」であった。それが、そのまま、「武士」階級となった。つまり、その「恩賞」は

となった。彼ら将軍のために「尽して」くれた武将たちは、言わば

  • 永遠

の将軍の側に仕える「名誉職」を授けられる存在として、「身分」となった。
これが「武士」である。
彼らは「能力」によって授けられた何かではなかった。科挙のような試験もないということは、逆に言えば、それは「平和」な時代の秩序だと言うことになる。戦乱の時代では、なによりも

  • 能力

が重要になる。しかし、この場合の「能力」には二つある。それは、「創造」的な能力である。その時代や場面に応じた、言わば「応用」力が問われるような「地力」といったようなものである。そして、もう一つは、これの対極にあるような「能力」。つまり、

  • 学校のペーパーテストの暗記力

にひたすら「適応」したような力。この後者が、まさに「科挙」の力だと言えるだろう。ある意味で、明治維新は「王制復古」だったわけだが、その意味は、日本を上記の江戸幕府が完成した、地方分権的な権力分散の世界から、飛鳥時代に、中国の制度を導入しようとした

  • 中央集権的

律令国家への「回帰」を意味していた。各藩を解体して、武士の身分を廃止するということは、一方では、西洋の政治制度を導入するという「近代化」の色彩を帯びながら、他方でそれは、飛鳥時代の、天皇中心国家への「回帰」を意味していた。つまり、

  • 過去

に回帰することは、同時に、

  • 最先端

の政治制度を導入することと、ほとんど「重複」して語られる。つまり、この二つを区別することは不可能なのだ。復古は常に、「近代化」と一緒に主張され、その二つは、それを語っている本人でさえ、区別できない。

十八世紀の日本では、儒教の「忠」という徳目がよく意識されるようになっていた。主従関係の固定化を背景に、家臣の主君に対する「忠」を秩序の要とする教説が普及していったのである。しかし、家臣の「忠」は決して主君の命に対する一方的で絶対的な服従ではなかった。むしろ重臣団体の大名に対する意見具申や後見、そして諫争(主君の間違いをいさめること)は、「忠」の不可欠の要素と考えられていた。笠谷和比古が明らかにしたように、大名が放蕩して政務を怠ったり、逆に理想に燃えるあまり慣習と大幅に異なる改革を強行しようとしたとき、重臣たちは団結して諫争を行った(笠谷一九八八)。大名が容れない場合には強制的に廃位して座敷牢に「押込」め、それに失敗した場合は逆に、抗議した家臣団が誅罰されるという極端な結末を見ることも稀ではなかった。この主君「押込」の慣行は決して不法なものではなかった。徳川公儀は「天下静謐」をことのほか重視したが、他に重大な理由がない限り、こうした「後家騒動」に介入せず、ただその予防のため、大名には「器用の人」(有能な人)を選べと『武家諸法度』で命じただけだったのである。

角度を変えてみると、これはナショナリズムの成立の一歩手前と見ることができよう。国家至上主義が、大名の国家を単位とするものから「日本」を単位とするものに変わり、かつ「人民」まで忠誠の主体に数えるようになると、ナショナリズムが成立したことになるのである。

私たちは、徳川時代を「明治以後」からの、明治政府が国民にすりこもうとした

に「汚染」されてしまっているため、どうしても、明治以前を「中世暗黒時代」として、独裁者の横暴が終わりもなく、明けても暮れても続く「絶望」の時代とイメージしやすい。
しかし、である。
そんなはずはないわけである。なぜなら、もしもそうだったら、なぜ私たちはこのような今のような世界を勝ち取ることができたのか。つまり、徳川時代にはすでに、明治の世界の

  • 萌芽

が始まっていた、と考えなければならない。それらが「前景化」した世界が明治だったというだけで、そうでなければ、ここまでの「無血革命」など起きえないわけである。
なぜ、暴君と化した主君は座敷牢に「押し込め」られうるのか? そこにはすでに、「公議」、または、「ナショナリズム」といった考えがある。たとえどんなに主君が、自らの「忠」を捧げるに十分であろうと、「公」における、

  • 意味

を誰もが「考えていた」ということは、これこそ「ナショナリズム」以外の何物でもないわけである。

「地下」たる庶民は元来、領主から特定の役を課された者以外は「国家」の活動に主体的に関わろうとは考えていなかった。とはいえ、両者の関係は主従関係とは別のタイプの契約関係であり、地下が年貢や夫役を負担する代りに、国家の側はこれを保護する義務を負うと見なされえていた。そこで、大名や領主の側が保護を怠ったり(飢饉の深刻化もその一つ)、勝手に増税したりすると、契約違反として、「地下」は逃散(他領に逃げること)・愁訴(代表を出して役人に年貢などの減免を願出ること)・強訴(役所に集団で押しかけ、圧力を加えること。いわゆる百姓一揆)に訴えた。それは好ましくはないが正統な行為と見なされていたので、異常事態が除かれ、双方の責任者が処罰されつと、平穏な秩序が戻ってくるのが普通であった。

これもそうである。庶民は学歴もなく、その素行は野蛮であるが、そこには

があるわけで、それは

  • 好ましくはないが正統な行為と見なされていた

わけである! なぜか? それは、そもそも庶民には、教養が与えられたわけでもなく、自らにふりかかってきた災害に手足をばたつかせて抗うしか手段がないからなのだ! 彼らを「守る」のが、武士階級の「役割」なのであって、それができなかった時点で、彼らのこういった「抵抗」は、武士階級の怠慢の結果だと結論するしかない。
私たちは、徳川200年以上の「平和」をなめてはならない。彼らがなぜ、そうやってまで「平和」に生きてこれたのか。そこには、間違いなく、なんらかの「秩序」がある。そして、人々はそれを受け入れて、主体的に生きていた。というか、そうでなければ、ここまでの「平和」は続かないのだ。

前章で見たように、日本は四年前に開港の条約を結んだとはいうものの、国交の貿易はまだ保留していた。公儀は前年に漸進的な開国方針を打ち出し、まずオランダ・ロシアと通商を取り決めた後、冬になってアメリカの代表タウンゼント・ハリスを江戸城に招き、国交と貿易の開始を内容とする修好通商条約の草案を取り決めた。その時、公儀は朝廷に対し対米条約案の勅許を奏請することにした。近世を通じて幕府は国政問題について朝廷の意見を問うことはなかったが、国内に挙国一致の姿を明示するためにこの異例の挙に立たものと思われる。当初、幕府は朝廷から強硬に拒絶されるとはまったく予想していなかった。

さて。明治維新の「革命」運動の最初をどこに置くのかには、諸説あるのだろうが、その一つをこの

に見出すことには意味があるだろう。そもそも、徳川幕府の最初から、天皇とは幕府の「政治」行動からは、ほぼ全てにおいて、なんの関係もない存在として扱われてきた。それが、この幕末において、外国との条約締結という「外交」関係の決定という場面において、当時の徳川政権は、この決定になんらかの超越的な「価値」による、箔付けが必要と考えて、天皇を呼び出したわけだが、予想に反して、天皇は猛然と、この徳川幕府の行動に

  • 反抗

してきた。このように考えたとき、こういった徳川幕府の行動が非常にあさはかな行動であったことが悔やまれる。大事なことは、今までの徳川の政治において、一回として、天皇が重要な決定に干渉したことはなかった、ということなのだ。つまり、「慣習」として、無視は

  • 当然

と考えられてきたし、当時の多くの「常識」において、そういった行動をとったからって、誰も彼らを責めることなどなかったはずなのに、このような行為に及んでしまったがために、今度は多くの人々に逆に

の地位がこのことで決定的に「重要」だったのだ、ということを「分からせてしまった」ということなのだ。今回、天皇におうかがいをたてたということは、そもそもの最初から、天皇におうかがいをたてなければならなかったのではないか。つまり、この一回の妄動によって、今までの「全て」の行動を正当性が揺らいだわけである。

他方、橋下は、幕府の枢要の役職に、旗本中の俊秀だけでなく、「陪臣・処士」も抜擢・登用せよと主張した。陪臣は大名の家来、処士とは牢人(浪人)のことである。牢人は先祖が武士だったと主張したが、実際にはその多くが庶民であった。つまり、左内は、生まれた土地と身分とを問わず、有能な知識人を幕府に集中しようと提唱したのである。

一橋擁立運動で協力した西郷吉兵衛(隆盛)は、のちに尊敬する政治家は誰かと問われたとき、藤田東湖と共に橋下の名を挙げた。先見の明に服したのであろう。

徳川幕府の統治体制は徹底した「身分」社会である。つまり、この秩序は「能力」によって成立していない。よって、藩主が「愚か」な存在であることは、普通に起きえた。上の階級を占めているのは、今の自民党のように、二世、三世ばかりの「ぼんぼん」ばかりであったわけだが、それでもなんとかやり通せていたのは、その世界が

  • 平和

だったから、と言うしかない。しかし、ひいとたび外国の勢力が迫ってきたとき、今までのような、まったく「能力」をともなわない指導者をトップに置いた組織は一瞬で滅ぶわけで、まったく、役に立たない。そこで、どうしても身分を

  • 超えた

人材の採用が重要になる。橋下左内のこのような発言は、すでに明治維新における藩の解体や武士階級の解体を先取りしたような先見性を感じなくはないが、そもそも、この明治維新を先導した人々の、ほとんど誰も、自分たちのこの行動の「結末」が、そのような

に至るとまでは思っていた人はいない。そういった意味では、彼らは結局のところにおいては、自らが「行っている」ことに対する、徹底した思考が足りなかった、ということを認めざるをえないのではないか。

そこで、大老は、家定の存命中、死の前日の七月五日、不時登城の関係者に対し処罰を下した。首謀者と見なされた徳川斉昭は隠居の身であったが、死刑より一等軽いだけの急度慎(自邸の一室に閉じこもり、光も丸めた紙を障子にはさんでとるという厳しい禁固刑)。尾張慶勝は隠居の上、急度慎。一橋慶喜と水戸の党首慶篤は一時登城停止(吉田一九九一)。一橋党の有力大名、山内豊信(土佐)は、。当時在国ではあったものの、翌年に隠居・慎(昼間の外出禁止)に処せられ、伊達宗城宇和島)は「自発的」な隠居を迫られた。島津斉彬はこのグループの中心人物で、その京都うぇの働きかけはよく知られていたものの、鹿児島で七月十六日に急死したため不問に付されている。旗本で加担していた有司もまた退けれた。岩瀬忠震は、英・仏・露などとの修好通商条約が妥結した後、左遷・免職の上、隠居・差控(出仕の禁止)に付されている。
こうして、江戸時代始まって以来、未曾有の大政変が勃発した。大大名数人と旗本有司多数が、同時に厳罰に処せられたのである。大老の側から見れば、「水戸陰謀」がいよいよ露見し、その悪の拡大を未然に摘取って、条約と継嗣の二難題に決着をつけたに過ぎなかったであろう。しかし、これは事件の終りでなく、むしろ幕末崩壊に至る動乱の除幕に過ぎなかった。

その結果、八月二十七日に、まず主犯とみた水戸家関係者に最終処分が下された。斉昭が永蟄居(終身の幽閉)、慶喜が隠居・慎、水戸家の家老安島帯刀が切腹、同奥右筆頭取茅根伊予之介・京都留守居鵜飼吉左衛門が死罪、同幸吉が獄門(さらし首)である。また、岩瀬忠震・永井尚志・川路聖あきらら一橋党に与した幕府有司も免職・隠居・差控の処分をうけた。遅れて、有力大名の家臣や牢人も処刑された。十月七日に越前の橋下左内や牢人の頼三樹三郎が死罪となり、二十七日には長州の吉田松陰も処刑されたのである。総じて極刑八人、遠島や追放等を入れると重刑に処せられたものは約四十人に上った。日下部伊三次や梅田雲浜など収監中に病死したり、自殺した者も十人ほどいた。近世未曾有の大獄である。

なぜ明治維新は起きたのか? その一つの理由に天皇の「拒絶」を挙げることは問題ないだろう。しかし、その決定的な事件は、この大老による

  • 大粛清

だったことは見逃せない。このことの重要なところは、そもそも、長い徳川政権においても、ここまでの大粛清は今まで、一度もなかったのだ! つまり、大老は、もしもこのような規模のことを行った場合に、何が起きるのかについての「想像力」が足りなかった。

一方、水戸からの脱走者は予定より少かった。このため、「義挙」は、大老の襲撃のみに縮小された。同士は水戸脱藩十九人、薩摩脱藩二人で、襲撃は関鉄之介以下十八人が担当し、万延元(一八六〇)年三月三日に決行された。登城途中の大老は、雪のため無防備で難なく討取られたが、他のメンバーが狙った諸藩への訴えは失敗した。先行して上京した高橋多一郎も、襲撃成功を見届けて上京した者も、すべて中途で捕えられたり自刀したりし、薩摩からの応援も訪れなかったのである。
しかし、白昼堂々と幕府の最高責任者が暗殺されたことは世間に巨大な衝撃を与えた。人々がうすうす感じていた公儀の「ご威光」の空虚さが実証されたのである。水戸の家臣に倒幕という考えはなかったが、一般からは、圧政に対する痛快な反撃として喝采され、さらに幕府の実力への軽蔑も生じた。

この桜田門外の変における、大老井伊直弼の「テロ」行為は、その

  • 結果

のあまりにもの「あっけなさ」において、徳川の何百年の「権威」の失墜を決定づけてしまった。ようするに、今までここまで誰もが「恐れて」きた、徳川の権威が、こんなにも

  • あっさり

と、その辺のどこにでもいる「浪人」ふぜいに、簡単に「殺される」

  • 程度

の存在でしかなかった、ということが、完全にこの国から、人々から、あらゆる蛮行への「禁忌」を除き去ってしまった。時代は、限りなく続く、底なしの「テロ」行為が、終ることなく続く「野蛮」な時代へと変わる。どんなに身分の低い浪人でも、こんなに簡単に、この国のトップを「ポア」してしまう。そしてそれが、終わることなく、何度も何度も繰り返される、悪夢のような時代の幕開けとなるわけである...。

関東で水戸天狗党が猖獗し始めていた頃、西国では長州が京都での勢力挽回企て、大兵力を京に送った。御所を武力で奪おうとしたのであるが、敗北したため、長州は「尊皇」を唱えながら、当の天皇からは「朝敵」とされて、以後、追討の対象となった。

長州の武力挑戦と敗北、とくに御所に銃弾を撃ちかけたことは、その正当性を著しく傷つけた。自らに向かっって飛んでくる弾丸の音を聞いていた孝明天皇はその後、長州に対し非妥協敵になった。

確かに明治維新の一方の主役は長州藩だということにならざるをえない。しかし、この長州藩の一連の行動はさまざまに紆余曲折があり、一言で説明できるような一貫性を欠いている。その一つがこれで、長州藩は明治政府の成立の直前まで、そもそも、天皇によって

  • 逆賊

扱いをされ、長く話されていた主題は、

  • 長州藩にどのような「懲罰」がふさわしいのか

ということだったことを考えても、歴史の皮肉を感じなくもない。

しかし、慶喜はクーデタに憤激した幕臣を抑えきれず、開戦への道を開いた結果、政治的成功を手放した。

徳川慶喜は、そもそも、この国の支配者の地位を天皇に譲ることを、一貫して「認めて」いた。というか、ずっと「それでいい」と言っていたわけで、そうであるのにも関わらず、クーデターを行い、鳥羽伏見の戦い江戸城無血開城であり、戊辰戦争を行ったのは、まぎれもなく、長州藩だったわけで、これらの

  • 蛮行

長州藩によって行われなくても、ある意味において、「明治政府」は成立していたと言えなくもないことを考えると、本当に、明治政府に、そこまでの「正当性」があったのか、ということはどうしても疑問符をもってしまうわけである。

地租改正により政府は予算を立てやすくなった。しかし、実質的な収入は物価の変動に大きく左右されるようになった。また、国民の側でもかなりの変化が生じた。近世の年貢は村単位で課されたため、事情あって負担困難となった家計は村の負担で凌ぐことができたが、以後は家ごとに課税されたため相互扶助による調整は難しくなったのである。

明治維新とはなんだったのか? これは、ある意味で、飛鳥時代の「律令制」に戻った「王制復古」だと言うことができる。つまり、

  • 中央集権国家

に日本を、もう一度、戻そう、という運動だったと。それは、ようするに「藩」の「解体」であったし、「武士階級」の「解体」であった。藩を解体するということは、日本の全ての国民は、

  • この国という「藩」の国民だ

ということを意味しているわけであり、武士階級を解体するということは、すべての国民が

  • 天皇の下に等しく「平等」に尽す

存在として扱われるということであり、まさに飛鳥時代の「律令制」のことを意味していた。ようするに、「テクノロジー」が飛鳥時代には挫折した、律令制を「可能にする」という解釈であり、これによって国民は等しく、「教育」を受ける、国民として「平等」に扱われる存在へと生まれ変わった、と言うことができる。
しかし、逆に言うと、

  • 誰もが、たんに「個人」として国家によって「管理」される

という結果をもたらした、と言うこともできる。それまでの徳川政権において、一人一人の「個人」は国家にとっての管理の対象ではなかった。あくまでも、国家が相手にしていたのは、村なら村という「行政単位」に対してであって、つまりは、その「行政単位」で、なんらかの年貢などの税金が払われるなら

  • あとはどうでもいい

という関係だった。ようするに

を認めていた。ところが、明治の中央集権国家になると。各個人が直接

  • 国家との関係

において、税金を「お前はこれだけ払わなければならない」といった形で、計算され、さっぴかれ「制御」される関係にシフトする。これによって、人々は次第に「村」へのコミットメントを弱くさせられていく。だれもが、

  • 自分との戦い

において、どうやって国家から命令される税金の支払いを行うのかに、日々の日常の全てを奪われるようになり、その回りに住んでいる、同じように困っている人たちへ向ける目線を失くしていく。
つまり、村的「相互扶助」の精神が、明治以降の「資本主義の暴走」によって。徹底して破壊されていく。これは、昭和の終戦まで続く。それまで、この日本社会は、典型的な新自由主義

  • お金持ちはどんどんお金持ちになり、貧乏人はどんどん貧乏人になる

暴虐資本主義であったが、これに一つの終止符を打ったのは、GHQによる財閥解体と農地解放であった...。

彼は鳥羽伏見の後に上京した直後、三条と岩倉に密かに郡県化を提案し、奥羽越の内乱集結後、十二月には再度これを提案した。その中では、もし一年前、廃藩が全国一様に行われていたならば、会津と戦う必要はなかったはずだと述べている(木戸日記、一五九--一六一頁)。当時、会津人にこれが理解できたか否かは分からない。他藩でも多数は同様だっただろう。土佐の佐々木高行はその日記に木戸を不平家だと冷笑しているが、遠大な理想を持たず、日常の業務に心力を傾注する者にはそう見えるかもしれない。

これら一連の脱身分化政策を立案し、実行していったのは大蔵省で、その中心にあったのは渋沢栄一であった(丹羽一九九五。渋沢栄一詳細年譜。今西二〇〇四)。

こうした脱身分化の政策は一見唐突に見え、彼自身の関係書類も遺っていない。ただ、自叙伝『雨夜譚』によると、彼が尊攘運動を始めた動機には、領主の代官に献金を要求された際に理不尽な辱めを受け、「百姓などというものは実に馬鹿馬鹿しい」と痛感したことがあったという。世襲的な身分制度への恨みは骨髄に達し、それが被差別身分の解放立案の背景となっていたようである。

掲題の著者は、上記の引用からも分かるように、基本的には明治維新を「評価」する立場でこの本を書いている。どんなに長州藩のテロや戦争行為が「野蛮」であったとしても、それによって実現しようとしている、彼ら(の一部)が目指す

  • 大義(=藩の解体、武士階級の解体)

において、この「歴史の方向」性は、逆らいがたくも、「評価」されなければならない「歴史法則」だったのだ、と解釈するわけである。高杉晋作の上記のような、藩の解体と武士階級の解体は、一つにはそれによる

  • (長州エリートたちによる)国家への国民の奉仕

を求めたという意味では、半分は「中央集権」化こそが本質だったと考えるべきなのだろうが、しかし、やはりその半分は、

  • 身分の廃止(=人間の「自由」)

だったことは認めないわけにはいかない。これを「実現」したのが、さまざまに問題のあった長州藩の「蛮行」の一つの結果だったとしても、これを歴史の抗いがたい

  • 歴史法則(=そうならなければならない方向性)

において、評価せざるをえないのではないか、といった問題提起として、私たちはこの本を掲題の著者による「問いかけ」として、真剣に受けとり、思考しなけれならないのであろう...。

維新史再考―公議・王政から集権・脱身分化へ (NHKブックス No.1248)

維新史再考―公議・王政から集権・脱身分化へ (NHKブックス No.1248)