香山リカ・北原みのり『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』

このブログで、ここのところ何度も、東浩紀先生の『観光客の哲学』について言及してきたわけだが、私はこの本が結局何が言いたいのだろう、といったところで、どうしても一つ気になっているのは、いわゆる「上野千鶴子」さんについて言及している個所なわけである。

つぎに、理論的あるいは倫理的に、「家族」が孕むさまざまな暴力が指摘されてきたという歴史がある。その代表的なものとして、上野千鶴子をはじめとするマルクス主義フェミニストたちの研究がある。彼女たちは、家父長制(家族)は、資本主義と結びつき、女性の家庭内労働および再生産の可能性を搾取してきた暴力装置にほかならないと主張する。上野の定義では、家族とは「性と生殖を統制する社会領域」のことである。家族愛そのほかの言説は、その「統制」の本質を覆い隠す虚飾にすぎない。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

つまり、いろいろ書いてあるけど、ようするに東浩紀先生はどうも、「日本のフェミニスト」の文脈と

  • 戦っている

んじゃないのか、といった印象を受けるわけである(例えば、カントが「下半身をどうにかしろ」と言っていた云々とか、だから不真面目を推奨する云々も、まあ、ようするにフェミニストの言う「男の性」の暴力を「なんとかしろ」には「限界がある」ということが言いたかっただけなんじゃないのか、といったように)。彼は、この本で、日本のフェミニスト、つまり、その主に、「女性」たちによって行われてきた「運動」に対して、なんらかの

  • 批判

を言おうとして、この本を書いているのではないか、といった印象を受ける。しかし、もしもそうであるなら、なぜ彼はそのことを明確に書かないのだろう? たんに彼が「へたれ」で、怒られるのが嫌だからなのだろうか? いずれにしても、東浩紀先生は、日本のフェミニズムになにかしら「一家言」あるのなら、それを「論文」にして、世に問えばいいのであって、こういった他人が読んで、一体、誰に向かって何が言いたいのか、さっぱり分からない、謎掛けのような、

  • 文系エッセイ(まあ、本人はそれを「哲学」と言っているようですが)

なんかじゃなくて、本気でこの世の中になにかを問いたいなら、それならそれで、本格的な「哲学体系」を構築して、まさに「形而上学」として世に問えばいいんじゃないのか、とは言いたくなるんですけどね。まあ、どうも社長業が忙しいようで、そんな暇はないようですがw
掲題の本は、多くの人に読まれ

  • 批評

されればいいのではないか、と思った。というのは、ここには一般的な「フェミニズム」に対する、日本社会における

  • 理解不足

が象徴されている、という印象を受けたからだ。対談者の一人、香山リカは「あとがき」で、

と問う。

だからつい、地方の自治体がこれまでの毒にもクスリにもならないようなご当地キャラクターを捨て、なんだか妙にエロチックな「萌えキャラ」を作って発表したりすると、「何が起きたの!? お役所がこんなの作っていいわけ!?」とどこかテンションが上がってしまったりするのだろう。「いや、待てよ。このサイズが小さくてからだに貼りついたコスチュームは、男性が自分の性的な欲求のために無力な少女に無理やり着せているものなのでは?」とフェミニズム的な視線を自分で取り戻すことができるのは、その一拍あとのことなのである。
頭では、女性とくに自己決定が難しい年齢の少女が男性の性的な視線に晒されたり、性的な欲望の対象になったりすることがあっていけない、ということはわかっている。しかし、「ありとあらゆる場面、表現、文化であってもそれは絶対にダメなのか」と言われると、うなずいてよいかどうかがわからなくなる......。これが、フェミニズムとオタクの間の溝になっているのではないだろうか。
香山リカ「あとがき」)

ここで私がどうしても気にならざるをえないのは、

  • 性的

とか、

  • 欲望

という「言葉」なのであって、ようするに、ここで香山リカ先生は、それを「精神分析」の文脈での言葉として使っている。

私にとって香山さんはバブル時代のサブカルチャーを代表する言論人で、ラカンなども論じる「ナウい」お姉さんなのだった。
北原みのり「はじめに」)

いや。いいのである。ここのところ、私はゲーデル不完全性定理を巡って、すっかり「ラカン嫌い」になってしまって、それを「食わず嫌い」と言いたければ勝手に言えばいいが、他方において、それは、ある意味では、十分に根拠のあることだと思っている。
私が大学時代の頃、まあ今でもそうなのだろうが、大学の授業は専門過程に進むまでは、人文系も理系も両方の課目を選択する。そして、いわゆる「ジェンダー学」なる授業を選択すると、どうも人間の性には「二つの種類」があるらしい、という話から始まる。それは、男と女という意味で二つということではなく、「メタ」の視点から、「セックス」と「ジェンダー」があるんだ、と言うわけである。
なるほど、なるほど、と聞いていながら、私にはある違和感がどうしてもぬぐえない。もしもそうなら、なぜそんなことを「大学」に入って、始めて授業で言われなければならないのか、と。つまり、もしもそのことがそんなに「重要」なら、義務教育で教えればいいではないか?
そもそも精神医学は「医学」なのだがら、そこには実際の「患者」がいるわけで、つまりは、「性的」だとか「欲望」だとかいった「言葉」は、そういった「医者」と「患者」の「治療行為」を離れた「文脈」で考えることに、私などは、どうしても大きな違和感を覚えるわけである。生物学として、確かに、男性は「射精」をして、「それ」が行われたということは、つまりは、そこには

  • 性的

な感情があったのであろうし、

  • 欲望

があったのだろう、と言うわけだが、しかし、だからといってそれが「なに」なのかに、別に答えているわけじゃない。たしかに、そこにはなにかがあったのかもしれないが、だからといってそれを「性的」とか「欲望」とか、

  • 名前

をつけて、なにかを言ったかのように振る舞う、いわゆる「文系」的な作法がよく分からないわけである。私などには、これは一種の

に聞こえるわけで、もっと言えば、ある種の「宗教」だ、と。つまり、なにかの新興宗教のようにしか思えない。
つまり、これって

の形式になっているんですよね。実際に「ある」んだから、その「素朴実在論」を問えばいいんだ、っていうふうに。そして、そうやって問題を「深く」「深く」探究すればするほど、

  • 性的とは何か?

とか、

  • 欲望とは何か?

といった「言葉」が、どこまでも「神秘化」されていって、これらはとてつもなく「深く」て、これについての「専門家」、つまり、このことに通暁した「文系エリート」は、どこまでも、貴重かつ

  • 権威

をもっているんだ、といった構造になって、世の中的な「権威に平伏する態度」を要求する、と。
しかし、素朴に思うわけである。つまり、「性的」とか「欲望」といった言葉の「意味」なんてどうでもいいから、それらの

  • モデル化(つまり、公理化)

をちゃんとやったら、と。つまり、それを「理論」にしたら、と。そうすることで、始めて「性的」や「欲望」は、一つの

  • 無定義述語

として、ある範囲での「無矛盾性」において、「一定の正当性」を担保する。
そのことは、この本を読んでいても感じたわけで、私はこの本を読む前は、タイトルから、この本には、いわゆる、フェミニストによる、漫画やアニメやラノベ

  • 作品批評

が書いてあるのかと思ったわけである。ところが、いくら読んでも、そういった記述は一つもでてこない。つまり、具体的な作品の「内容」について、一切書かれていない。ようするに、フェミニストというのは

  • そういう人たち

なわけである! 彼らは「批評家」ではないわけである。じゃあ、彼らは一体、

  • オタク

に対して、何が言いたいのだろう? という素朴な違和感を、どうしてももってしまう。一体、彼らは何と戦っているのか。なぜ彼らの「敵」は「オタク」だと言うなら、オタクが敵であるにも関わらず、なぜ「作品批評」を一切行わずに、

  • 戦っている

と「自称」しているのか? まあ、ようするに、この人たちは「なにがしたいのか」が、分からなくなるわけである。
そうやって考えてくると、どうも私には、こういったフェミニストの人たちというのは、どこか

の連中と似ているんじゃないのか、といった感想までしてくる。

北原 香山さんは、性売買業界に対して、今、どのようなお立場ですか?
世界の流れをみていると、ノルウェーをはじめとする北欧が実現させている買春者を処罰する法律が広まっています。需要を少なくしていく、という考え方ですよね。2016年にはフランスが買春者処罰に切り替えた。ドイツは2003年に合法化していましたが、2017年夏に、働く女性たちを登録制にしました。よく、性売買を合法化しないと闇に潜り余計に女性が危険な目に遭うと言われていますが、合法化したところで、人身取引で売春を強要される女性は、なくならなかった。今回のドイツの規制は完全な管理売春の体をなしていますし、そもそも仕事をするのに行政に自分のIDを登録したくない人のほうが圧倒的です。
一方で日本は売春防止法はあるけれど、「合法的に性売買ができるため」の風営法があるために、事実上、合法化されています。もちろん、実際の現場で挿入行為があったりすると女性が処罰される弱い立場にあるなど、問題はたくさんありますが、素人がすぐには理解できない複雑な法によって買春者が守られている状況だと思います。法律の改正も必要だけれど、当たり前のように買う文化、当たり前のように身近にポルノがある文化を変えていくような教育も必要なのではないかな、と思うのですが。

香山 そうですね。『はじめての不倫学』(光文社新書2015)で、坂爪真吾さんも、そこが難しいと言っているんですよね。しかし売買春が良いとも言えないのだったらどうするかと言ったら、ある種のフリーセックス化。商売ではなく、婚外でお互いが性を楽しむ社会が良いというんです。ただ不倫になってしまうと家庭が壊れるから、それこそ人格と乖離した性をワークでもなく行うと。
あとはポリガミー。多夫多妻制が良いと言っている人もいますよね。
北原 そこまでセックスって、保証されなければいけないのかな。坂爪さん、誰を救済しようとしているのかよくわからない。私は人権が侵害される状況に追い込まれるとか、暴力が生まれるとかでなければ基本的に、どのような関係を結ぶのかは個人の自由だと思っています。まさに上間陽子さんの『裸足で逃げる』みたいな状況に一人でも陥らないようにしなければいけない。男のセックス保証のための制度なんてどうでもよくないですか? 男の人のセックスできない、セックスから排除される恐怖に支配されているってことですか。需要、減らすの、難しいのかな。

彼らフェミニストは、社会を「変えなければならない」と言っている。つまり、

  • 性の「暴力」のなくなる社会

へ、と。だったら思うわけである。むしろ、日本会議自民党の議員が、文部科学省の役人を掴まえて、

  • 怒鳴りつけて

彼ら役人に、前川さんの授業内容を報告させろ、と言わせていることに怒っているだけではなく、むしろ、彼女たちフェミニストこそが、今の義務教育で、フェミニズム教育が「足りない」と、文部科学省の役人を掴まえて、

  • 怒鳴りつけて

彼らを「改心」させなければいけないのではないのかw なぜフェミニストたちは、そういった「行動」をおじけづいて、行わないのか? 日本会議自民党議員が今、マスコミに「怒られている」ように、その「怒鳴りつける」行為が、「暴力」だと思っているからなのか?
日本会議自民党議員は、なんとかして、東京都の青少年健全育成条例によって、いわゆる「成人向け漫画」の、過激かつ不道徳な漫画の出版を「規制」しようとしている。しかし、その「意図」において、この方向性と、フェミニストが主張する。

  • 身近にポルノがある文化を変えていく

という「目標」に、どれほどの違いがあるのだろうか?
北原さんは上記の引用において、基本的には、

  • どのような関係を結ぶのかは個人の自由だと思っています。

と言っているわけであるが、そうであることと、なぜ人々の「表現」物を「規制」すべきという主張とが整合性をもっていると思えるのか? それは、上記の引用にあるように、結局は男たちの

  • 性欲

  • 減少

させなければならない。そのために、「そういった」コンテンツを、この社会から「少なくしていく」ことを実践していくしかない、といった主張に聞こえるわけで、そこに日本会議が言っているような「道徳」による「規範」からの「規制」との平行性を感じるわけである。
この本を全体として読んで、基本的に「問題」としているのは、「性的」なのか「欲望」なのかといった区別ではなく、あらゆる

  • 暴力

はダメだ、と言っているように聞こえる。だとするなら、たんにそう「暴力はダメだ」と言うだけいいんじゃないのか、といった素朴な疑問をもってしまう。なぜ、そういった主張において、ことに「性的」であり「欲望」といった表現を介さなければ気がすまないのだろうか?

北原 (中略)ところで香山さん、子どもにとって、家庭の中の「性」って、かなり暴力装置として働いてしまうことが多いじゃないですか。たとえば今、AV出演強要問題などに関わっていると、AVの問題は自分が意に反して出演することだけでなく、家庭の中でポルノを楽しむ父親の姿や、またはそれを子どもの目の届くところにあえて置いてあるような状況も深刻な問題ということがわかります。父親が子どもを性的対象にするのは論外にしても、父親がポルノを楽しんでいるのを目撃するなど、父親の欲望や性的な振る舞いが娘に与える影響ってどうなんでしょうか。風俗に行ったことを娘に隠さないような父親もいます。

北原 そうでなくても、父親が家に持ち込む男のポルノ文化のキモさにどう対応したらいいのかしら、と。それこそクリスチャン的な神聖な結婚をしていただいて、ポルノを持ち込むことに激しい罪悪感を感じるような文化、一滴でもいいから注入してほしい家、たくさんある。最初のポルノ体験が、父親が持ち帰った雑誌、という私の世代は少なくないです。

さっきからいらだっているのは、こういった「説明」が、どうも「文脈」と合っていない、といった印象を受けるからなのだ。この本のタイトルにあるように、ここで「フェミニスト」と「オタク」の敵対関係を問いたいのなら、そもそも、性風俗店に通うような奴は

なのではないのか? まあ、AVを見るような男も一種の「リア充」なわけでしょうw そして、香山さんも言っているように、そもそも、子どもは父親と母親が、たとえ二人に「愛」があろうがなかろうが、二人が家の中で「セックス」をしているところを見れば

  • ショック

を受けるわけで、つまり、「リア充」にだって子どもはショックを受ける。ようするに、ポルノという「自分と恋愛関係にある相手」ではない「なにか」を性の対象として「見る」ことの人間の「汚らわしさ」を目の前にすることで、子どもが

  • ショック

を受けることを、「オタク」との関係で、その非道徳性を問いたいのなら、前半で言及されていたように、

といったような「サブカルチャー」が、いわゆる「萌え絵」、まあ、「アニメ絵」によって描かれていることに対して、その

  • 幼児暴力

的な「表象」が問題だと言っていたわけであるから、ここでの文脈も、男たちが、そういった

で、

  • マスタベーション

をしている、という「前提」で、こういったコンテンツを「消費」しているということ、つまり、

を「買う」男たちを、

  • 道徳的

に「非難」していく(そういった男たちを、恋愛の対象として見れない、とか、結婚相手とは考えられない、とか)、といったより直截な記述になぜならないのだろう?
はっきり言って、そういった文脈で言うなら、こういったサブカルチャーの世界は絶望的だと言わざるをえないであろう。例えば、アニメ「ガルパン」は、脚本に女性を迎えて、あと、監督の厳格な意向もあって、絶対に女子高生たちの制服のスカートの中のパンツが見えないように、アニメが描かれている。しかし、そういった、なんらかの「清純」性を保とうとした作品であればあるほど、コミケなどで売られる、二次創作においては、必ず、これでもかというくらいに、こういった「純潔」なヒロインたちは、その「物語」の中で「汚される」。そしてこういった「慣習」はほとんど必ずといって繰り返されている。この

  • 暴力

が問題だと言うなら確かに、ひどいものではある。しかし、逆に言えば、こういった二次創作は、どこまでもマイナーであり、作品の質も低いので、読んでも、それほどの「納得感」のあるものは少ないし(というか、素朴に胸糞悪い内容のものは、誰が見たって胸糞悪いわけで、オタクは「変態」だから、そういった嗜好があるとか、そういった見方こそ無理があるんじゃないのか...)、そもそも、作品のボリュームがプロに比べたら、圧倒的に「片手間」で、やっつけで、みつくろった感がぬぐえない。しょせんは、「素人」といった扱いとして、その影響も小規模なものとして扱われるのだろうが、この「慣習」だけは、どこまでも続いていく。
しかし、このように書いてきて、この北原さんが「問題」にしているのは、どうも風俗に通う父親だったり、AVを見る父親だったりなわけで、私がここで問題にしているような「オタク」つまり、

を「消費」しているような連中は、最初から眼中にさえない。もっと言ってしまえば、こんな連中が「ゴミ屑」コンテンツを嬉々として喜んで消費している「ゴミ屑」なのは当たり前で、もっと「身近」な問題として、もしも

  • 自分の恋人

が、風俗に通ったり、AVを見ていたら「どうしよう」といった、なにか、人生相談のようなことをつぶやいているだけなんじゃないのか、ともしてくるわけである。つまり、これは最初から、

が、いろいろと自分の「生き方」として「困っている」ということを吐露しているだけなんじゃないのか、と。ようするに、北原さんが言いたいこと、というより、彼女がもっている「規範」性の「根源」は、どこにあるのか?

北原 なるほど!。でも私、韓流のドラマや音楽番組が、地上波でどんそんなくなっていくのを見て、ほんと驚いたんですよ。高い視聴率が取れるのに、現場で判断する人が、一部の嫌韓ブームに乗ってしまう。

北原 (中略)でもその時、私がいたのって、アメリカだったんですよ。
香山 じゃあ、相手はアメリカ人だったんですか?
北原 そうなんです。

なるほど、と。北原さんは、日本の

は「アニメ絵」の幼児虐待的な「表象」だからダメだ、と言うのなら、彼女は一体、なになら「良い」と言うのか、ということになるけれど、どうも

  • 韓流ドラマ

はOKということのようで、まあ分かりやすいですね。確かに、韓流ドラマはポリティカル・コレクトネスがしっかりしている。また、日本の

は「アニメ絵」の幼児虐待的な「表象」だからダメだ、といった主張がなぜ、ほとんど「自明」であるかのように語られているのか、ということで言えば、彼女自身の「アメリカ」での海外生活での

  • 実感

がある、ということなのでしょう。実際に、海外では、日本の

の「アニメ絵」は、そもそも「存在しない」わけで、ということは、そんなものが「存在する」日本は

  • 異常

だ、ということになる。「ここが変だよ日本人」というわけで、ガラパゴス国家日本を、「普通の国」であり、「グローバル・スタンダード」に少しでも近づけたいと、がんばってらっしゃる、と。
私は人にはそれぞれ、今まで生きてきた「文脈」があるのだから、そう思うなら、そういった延長で主張することは十分に意味があると思っている。しかし、それならそれで、各コンテンツを「批評」すればいいのではないか、と思ってしまう。どの作品が、彼女から見て、「全然ダメ」なのか、どの作品は、そういった「フェミニズム」から見ても、「批評」性があると言えるのか。彼女がなんらかの意味で、(日本会議じゃないけど)この日本を変えていきたいと思うのなら、個々具体的な作品批評は避けられない。あくまでも、そういった

  • 文脈

の中で、人々にそういった主張は始めて「影響」を与えるのであって、それを怖がって(作品論を怖がって)、なにか抽象的な「お題目」をいくら叫んでいても、個々の人を「動かす」ことにはならない。人々の「慣習」に影響を与えていくことで、なんらかの、世間の「方向」性を変えていく、という形でしか、なにかが変わっていく、ということはないんじゃないのか、と思えてしまうのだが...。