リバタリアンと社会契約

以下で、ジョセフ・ヒースのエッセイが翻訳されていたのだが、その内容は、なかなか興味深い。

経済学を背景に持つたぐいのリバタリアンは、この観点では最悪の傾向を示している。経済学者が方法論的過程として導出している「合理的エージェント」モデルは、絶対的に完全な自制心保持のエージェントの明示化に寄っているからだ。(例えば、ミルトン・フリードマン恒常所得仮説。この仮説では、銀行の貯蓄残高とか、信用限度がどのくらいなのかというような事象は、影響を与えないはずだと明示されている。そうだったらいいののだけどねぇ!)
ジョセフ・ヒース「なぞなぞ:リバタリアンとペドフィリア(小児性愛者)の共通点ってなーんだ?」(2014年4月22日) — 経済学101

この話の教訓。それは人は一度十分なお金を所有してしまえば、それは見えなくなってしまうことにある。つまり、人は一度富裕になると、お金で困っている人の視点で世界を見る能力を失ってしまうのだ。「自制心」に関しても同じだ。『自制心貴族』のメンバーは、自身が「自制心」を多量に保持しているのを当然視している。その結果、彼らは「自制心」を欠いている人の視点で世界を見るのが非常に困難になっている。故に、彼らは多くの事例で、自身帰属の狭い社会階層だけに便益をもたらすであろう政治的概念の推奨に日々費やすことになる。しかしながら、それが自身帰属の狭い社会階層だけに便益をもたらすものであることには、決して気が付かないのだ。
ジョセフ・ヒース「なぞなぞ:リバタリアンとペドフィリア(小児性愛者)の共通点ってなーんだ?」(2014年4月22日) — 経済学101

ジョセフ・ヒースが言おうとしていることは何か? それは、リバタリアン

  • 言挙げの「選択」の恣意性

なのだ! 彼らは「一般」を語るが、その「一般」は最初から、彼らの「視点」からの「選択」の恣意性に覆われている。そして、見事なまでに、彼らがそのことに

  • 無自覚

であることを問題としているわけである。
このことを、少し私なりの言葉で説明してみたい。
ホッブスから始まる「社会契約論」は、国民と国家の仮想的な原初的「契約」、いわゆる、

  • 社会契約

についての、ある種の「物語」についての考察から始まる。人々は「そのまま」においては、いわゆる「戦争状態」に置かれているため、「暴力」の連鎖が終わらない。そのため、私たちは

  • 社会契約

を結ぶことになる。この場合、分かりやすいのは、国民の側の国家への「譲渡」の内容であり、これは、ひとえに

  • 自らの「暴力」の放棄

ということになる。ではなぜ国民は国家に、その、太古から自らを守るために欠かせなかった重要な手段を放棄したのかといえば、

  • 代わりに国家が国民を守るから

ということになる。
確かに、ここまでの話は分かりやすい。しかし、よく考えてみると、この「反対」とはなんなのだろう? つまり、国家の側の国民への「譲渡」が実際のところ、

  • なんなのか

がよく分からないのだ。上記の文脈から、一つだけはっきりしていることは、国家は、各個人に紛争の解決方法としての「暴力」を放棄させたのだから、それを「担保」する何かを提供しなければならない、ということは分かるであろう。当然、警察組織のようなものから、司法・裁判制度のようなものまで、必要であることは分かる。なぜなら、そうでなければ、各個人が放棄した「暴力」に代替することはできないからだ。
しかし、そんなもので済むのだろうか?
例えば、私たちの社会には「福祉制度」がある。もちろん、身体障害者はそのサービスを受けられるし、ジョセフ・ヒースが言っている「自制心貴族」以外の人たちの問題もそうだ。彼らが誤った方向に進むことを「自己責任」と言ったところで、この

  • 社会契約

とは関係ない。社会契約は当然、「自制心貴族」以外の人たちも含んでいるわけなのだから、彼ら自身をも「守ら」なければ意味がないのだ。大事なことは、その「恣意性」にあるわけである。もしも、「自制心貴族」以外の人たちを、それぞれの「暴力」の放棄を「維持できない」ような、この社会契約によって「放置」するなら、彼らは必然的に

  • 社会契約以前の自らの「暴力」の放棄「の放棄」

に戻らなければならないであろう。それはこの「契約」そのものが含意しているはずだったわけだ。ところが、なぜかリバタリアンはそう考えない。彼らが恣意的に選んだ何か(例えば、最低限の暴力排除装置としての警察)は、国家は含まなければならないと言っておいて、なぜか、それ以外の、彼らが恣意的に選んだ、さまざまな社会福祉といった「機能」は「いらない」とほざきやがる。
しかし、もしもそうなのなら、なぜ

  • もう一度、社会契約以前の状態に戻らなければならない

と考えないのか? 私たちは彼らの「恣意性(これは、ほとんど「保守主義」と同値の意味だが)」に注意しなければならない...。