ポストモダンと実存主義と身体論

いろいろと、しつこいと言われるかもしれないが、一応の最終版として、東浩紀先生の「哲学」と彼の柄谷行人論の関係を、今までとは少し違った視点で整理してみたい。
ところで、東浩紀先生は、柄谷行人の『ヒューモアとしての唯物論』の文庫版の解説を寄稿している。

そのような思考が有効だったのは、六〇年代にはいまだ、個人の実存的問題、大文字の政治へと直結するような大きな「物語」が、社会的に機能していたからである。しかしよく知られているように、六〇年代末から七〇年代初めにかけて、先進国ではその種の物語=イデオロギーが急速に失墜していった。七〇年代以降の社会においては、ひとはもはや、各々の実存を基礎づける社会的文脈を喪失したまま、その喪失に耐えて生きるほかない。裏返せばそこでは実存的問題は、いかなる社会的条件からも切り離され、幽霊状態のまま思弁的に問われるほかないことになる。倫理的問題(政治)と存在論的問題(文学)の乖離を主題とした「意識と自然」の問題意識は、実はこのような変化に正確に対応している。したがって柄谷はそのデビューからすでに、本質的に七〇年代の、あるいはポストモダンの思想家として現れたと整理してよい。
ポストモダンというレッテルは、八四年に柄谷自身により拒否されている(「批評とポスト・モダン」)。当時の日本では「ポストモダン」が知的意匠として消費され(いわゆるニューアカ・ブーム)、彼自身その代表とみなされていたからだ。しかしその概念は本来、社会や主体を基礎づける絶対的物語の不在を指している。そしてその意味であれば、柄谷ほどポストモダンの帰結を徹底的に考え抜いた思想家は日本には他にいない。
東浩紀「解説」)

ヒューモアとしての唯物論 (講談社学術文庫)

ヒューモアとしての唯物論 (講談社学術文庫)

柄谷はポストモダンを生きた。つまり彼はポストモダンの思想家ではあったが、決してポストモダンについての思想家ではなかった。この資質において当時の柄谷は、確かにリオタールやボードリヤールよりドゥルーズデリダにはるかに近かったと言える。後者二人が七〇年代に試みたきわめて思弁的な仕事(『千のプラトー』や『葉書』)もまた、似たような捻れに駆動されていた。
東浩紀「解説」)
ヒューモアとしての唯物論 (講談社学術文庫)

ようするに、柄谷は「ポストモダニスト」ではなかったが、彼ほど「ポストモダン」を真剣に生きた人は日本にはいない、そういう意味で、最も「ポストモダン」を代表する批評家として注目しなければならない、と言いたいわけであろう。
そして、そのように整理した場合に、じゃあ、柄谷は何をやっていたのか、ということについて、東先生は以下のように整理し、こういった

  • 態度

と自らの実感がシンクロしていることを吐露する。

柄谷のその作業はしばしば指摘されるように、視点を変えれば、自らを支える根拠を失ったポストモダンの主体(七〇年代の主体)が、それでもなお根拠を問い、さらには根拠の不在そのものを根拠にしようと試みた思考のドラマとして読むことができる。
東浩紀「解説」)
ヒューモアとしての唯物論 (講談社学術文庫)

大事なポイントは、実際の柄谷が「どうだったのか」はともかくとして、こうやって「モデル化」された柄谷に、東先生は、まさに「自らの実感」をもって、

  • 共感

している、というところにポイントがあるわけである。
そして、この解説の最後では、次のように述べることで、この「病」に取り組む「同士」として、柄谷の言わば「先駆者」として、自らの橋頭堡としての柄谷への、ある種の「リスペクト」を語るわけである。

八三年以前の柄谷が憑かれた「病」については、私はその構造と必然性をある程度分析することができる。しかし八四年の柄谷が獲得した健康さについては、私はいまだその意味を十分に捕えることができないからだ。無論私は、『探究1』の理論的可能性についてはいくらでも語ることができる(実際に私はほかの場所で論じている)。しかしその理論的可能性は、私にとって謎のままである。そしてそれはまた、柄谷の読者の多くにとっても同じだと思われる。したがって私たちは、八四年以降の柄谷のテクストを、八三年以前のテクストとはまた別の関心から読み続けなければならない。そこにはおそらくは、ポストモダンの条件を徹底して考え抜き、その結果「病」に陥っただけでなく、逆にその徹底性において「病」を突き抜けた稀有な記録が見出されるだろう。そのような治療の存在は、多くの読者に強い希望を与えてくれる。少なくとも私は力づけられる。
東浩紀「解説」)
ヒューモアとしての唯物論 (講談社学術文庫)

しかし、この「解説」は正直に言わせてもらうと、非常に

  • メタ

の議論になっていることが私のような人間に言わせると気になる。つまり、東先生は、ある意味で、柄谷が「言おうとしてきたこと」に一切触れることなく、

  • 柄谷が「病気」から「健康」になったこと

にこそ、妙な「重要」さを見出す「レトリック」によって書き上げられた解説となっているわけで、ものすごい違和感を与えられる。ようするに、東先生は、柄谷が実際に取り組んできた「テーマ」そのものと、自らの同じ目線で向き合う(コミットする)というわけではなく、その「外」から、つまり、「理論外」から、なにかを言っているわけで、もっと言えば、

  • 安全な場所

から、他人事のように言っている、ということが気になるわけである。
ところで、東先生は自らを「ポストモダニスト」と自称している場面が、大塚英志との対談『リアルのゆくえ』にあることは、このブログでも以前に書いたことがあるが、この発言がどういった文脈でされたのか、ということを振り返ってみると、少し興味深い発言と関連して行われていることが分かる。

東 ええ。それは、そういうふうにぼくはよく言われているので、そういう特徴を持っているんだと思います。
大塚 そうやって居直られても困るんだって。
東 (笑)そうではなくて、大塚さんの批判はぼくという人間の全体とかかわってしまっているので、その部分だけ取り出して修正することができないんですよ。そう答えるしかないでしょう。

東 ちょっと話の矛先を変えると、たとえば、なぜ敵視の問題すら解決次第という立場なのかと言われたら、それはぼくがポストモダニストだからです。ぼくにしてみれば、高橋哲哉氏が靖国問題であんなにポジティヴな話をしてしまえることに違和感がある。だからそれは、ある種の知的訓練の中でそういうポジションを取らざるを得なくなってしまったということでもある。
リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)

つまり、自らが「ポストモダニスト」と発言する直前で、東先生は大塚さんの追及に対して、ある意味で

のようなレトリックによる「言い訳」をしている。なぜ、このことが私に興味深く思われるかというと、上記の柄谷行人論においても反復されていたように、彼が「ポストモダン」を問題にするとき、なんからの意味での

の「救済」がそこで、どのように可能なのか、と関連して語られている、ということなのだと思うからである。「根拠の不在を根拠にする」という、

  • メタ

の態度は、そもそもなぜ、こういった「思弁的」な言及が重要だ、と考えるのかは、ここにある

の「救済」に関係している。言わば、東先生の「自意識」が、実存主義の本質を手放せない、ということと、自らの立場をポストモダニストとすることが深く繋がっている。
しかし、そもそも、実際の柄谷が何を言っていたのかを、いったん脇に置いたとして、東先生は、「根拠の不在を根拠にする」という

  • 態度

が何を意味している、と考えていたのかは、そもそも東先生の読者にとっても、よく分からないんじゃないのか、といった印象がぬぐえない。
そのことは、彼の処女作である『存在論的、郵便的』において、最初に語られる、この本の「目的」「目標」において、すでに、なんらかのこういった方向を「象徴」しているように、私などには思われるわけである。

しかし私たちは、デリダに関する別の問い、「何故デリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか」という疑問から出発している。前述のように後期の彼は、重層的な地口や暗黙の引用に満ちた、いわゆる「間テクスト性」を文字どおり実線したかのようなテクストを多く記している。そしてそれは柄谷が引用した『声と現象』的な哲学批判、つまり前期の仕事のあとに出現している。私たちはここに注目したいと考える。

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

こういった言及は、さらっと読み飛ばしてしまいがちな、さりげなさであるが、ようするに、これって

  • 実際にデリダが何を語っているのか

つまり、デリダの「理論」とは、まったく関係ない問いだということに、違和感をもつわけである。もっと言えば、これは「理論外」の問いなわけであろう。例えば、ある作家が小説を書いたとして、その小説が何を言いたいのかを、その小説の「中」、つまり、そのテクストの中から「批評」をするのではなく、言わ、その小説の「外」、その作家がその頃、どんな人間と付き合っていたのかとか、ホテルでどんなものを食べていたとか、そういった方向から、アプローチをする、と言っているのに近い印象を受ける。
ようするに、すでに東先生は「最初」の段階から、なにか

  • 理論

に対して、「あきらめ」ている印象を強くするわけである。
このことは、東先生が注目する、『探究1』での柄谷的「転回」を象徴して引用している以下の個所にも、非常によく現れている。

私たちの考えでは、『探究1』の柄谷もまたまさに同じ方向にクリプキの議論を先鋭化させている。彼はつぎのように記している。「たとえば、私が、ある言葉の『意味』を知っているかどうかは、私がその言葉の用法においてまちがっていないと他者(共同体)にみとめられるか否かにかかっている。もしまちがっているとしたら、他者は笑うか、『違う』というだろう。そのとき、私は『規則に従っていない』とみなされる。しかし、ここで注意すべきことは、そのとき、他者もまた規則を積極的に明示できるわけではないということだ。彼はただ『否』としかいえないのである。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

ウィトゲンシュタインは『実無限』の問題をたんに経験論的な立場から放棄したのではなく、それをいわば《他者》との関係のレヴェルに移動させたのだ」。この認識は、私たちがいままで論じてきた後期デリダの理論的射程と深く呼応している。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

こういった指摘も含めて、上記までの東先生の議論の全体を覆うテーマに

  • 身体論

がある、という印象を受けるわけである。ようするに、東先生には、最初から、そういった「プラン」があったのではないのか? ゲーデル不完全性定理から、どうも柄谷が理論の「根拠の不在」、つまり、「ポストモダン的な大きな物語の終焉」を語っている、というストーリーを描いたときに、

  • じゃあ、その「オールタナティブ」はなんなのか?

を考えないわけがない。つまり、デリダの中期の間テクスト的実践から、『探究1』のウィトゲンシュタイン論から、それを

  • 理論の不在

に対する、実践的な取り組みと考えたなら、じゃあ、それは何なのか、といった問いがどうしたって生まれないわけにはいかない。そしてそれを、理論ではなく「身体」に見出そうとしたことは、素朴に「答え」が最初からあった、ということにならないのだろうか?

ド・マンがここで「文法」「修辞」と呼ぶものは、明らかにコンスタティブとパフォーマティブの区別に相当している(オースティンの名も言及されている)。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

私はどうしてもここの部分にひっかかっているのだが、この個所は、東先生の『存在論的、郵便的』のほどんど最初の方の発言なのだが、この段階で、オースティンの「パフォーマティブ」こそが、なにか全ての

  • 答え

であるかのように書かれていることが、すごく気になるわけだが、というのは(まあ、このブログでは何度も書いているが)、ポール・ド・マン自身は、むしろ、オースティンの言語行為論は、自らが主題として取り組む「アレゴリー」の問題の「範囲」に含まれるものでしかない、と逆に否定的に言及しているからなのだ。

文法と論理は揺ぎなく支え合う一対の関係にある。言述の論理というよりも、むしろアメリカの文学的記号学の仕事に最近多大な影響を与えたオースティンの言語行為論のように、行為の論理においてもまた、言語行為と文法のあいだを困難もなく行き来できてしまう。つまり、言語の内部で発語内行為と称される命令、質問、比例、想定などを遂行することは、それに対応する命令文、疑問文、否定文、祈願文などの統語的文法構造に相当する、という道理なのである。

つまり、ポール・ド・マンから言わせれば、オースティンの言語行為論すら、「理論」なのであって、そうである限り、そこにおける「アレゴリー」の問題からのがれることはできない、といった視点があるわけで、そんなに簡単に

  • 理論の外=身体論

といったような「答え」は違う、といった認識だったはずなのに、東先生に至ると、その辺りがするっと通り抜けてしまって、デリダの間テクスト的実践の評価と、柄谷の『探究1』のウィトゲンシュタイン論、オースティンのパフォーマティブ論、もっと言えば、理論の外(=身体論)が、ほとんど無条件に「肯定」されていくように見えて、そこに「理論的な緊張」を感じないんですよね。
例えば、このことについて、私にとって印象的だったのは、柄谷が市川浩の発言に強く反発する場面があったんだけれど、言うまでもなく、市川浩といえば『<身>の構造』という本を書いていて、ここでも、どこか市川のそういった身体論の関心の延長からの、日本の「風土」の特殊性への「分析」を避けては通れない、といった発言に対して、まあ、柄谷は単純に

  • 怒って

いるんだよね。

柄谷 (中略)「近代の超克」の座談会で哲学者が神が死んだとか馬鹿なことばっかり言ってるけど。マルクス主義だけですよ、日本において絶対的な他者性をつきつけたのは、原理性みたいなものを初めてつきつけたのは。それも生きることにおいてそれをつきつけたのは、マルクス主義だけです。つまりぼくが言いたいのは、ぼくや市川さん個人の選択の問題です。古層がどうとか、仏教とか関係ないと思う。
市川 関係ないですよ、表面的には。そうではなくて、それを受けいれた土壌ということです。
柄谷 それはわかりきっているんです。現在の状況について僕はしゃべりたいんですよ。
市川 だから現在の状況の中のひとつの認識です。
柄谷 だからそれはわかりきっている。土壌がどうだからこうなるほかないというんですか。天皇制にかんする議論でも、それを "深く " 考えれば考えるほど、天皇制は不可避的であるということになりますよ。現にそうなっている。今やぼくは公式的なマルクス主義の方がましだと言いたいんですよ。
市川 しかしそうした認識がなければ絡め取られちゃうでしょうね。モラリティの根源を神とか、原罪とかの観念がないところで押さえようとすれば、罪とかの観念がないところで押さえようとすれば、罪は付着した汚れにすぎないのかどうか、もしそうではないとすれば罪とは何か。責任とは何かをはっきりさせなければならない。未だに行ないは「きれい、きたない」で語られ、倫理=美という考え方が強いのだから、それでいいのかどうか、それではおかしいならどういう原理に立つか、それでいいならなぜいいのか、それを明確にしなければ、モラルとか、責任とか言ってもしょうがない。
柄谷 そういう認識なんてあったってなくたって同じことですよ。とうに絡めとられているのだから。今の日本のインテリはどうに転向していますよ。「転向」が問題にならないぐらいに。ぼくの考えでは、市川さんの言うような認識を説いたような人が、たとえば吉本隆明が、「転向」を解消してしまったのです。

シンポジウム

シンポジウム

つまり、東先生の整理からは、こういった柄谷の理論への強い実践的なコミットメントの側面というのは、見事にスルーされてしまって、『探究1』が、「病」から「健康」にしたことの

  • 神秘

が、どれだけ「ぼく」を励ましてくれるのか、といった自分を「健康」にしてくれるかどういか、といった「身体」的なフェーズからしか、柄谷が考察の対象とならないわけで、それってつまりは、東先生の「実存」を脅かすものを、なんとか「先手」をうって、自分の目の前から「排除」することこそが、第一優先事項となっていて、その「理論の外」という、まさに彼の「アジール空間」として、便利に「身体論」が使われているんじゃないのか、といった印象を受けるんですけどね。どうでしょうか。
例えば、以下の東先生のソーカル問題に言及しれいる個所は興味深く読めるわけですけど:

いずれにせよ、ぼくは(当日も議論ではなかったと記憶していますが)ソーカルは基本正しくて、ただ、あのとき言ったのは、(1) たとえば、ラカンは完璧アウトだけど、ドゥルーズは中ぐらいで、デリダはちょっととばっちりじゃなかろうかとか、そういう細かい差異はあるのはあるのだということと。
@hazuma 2010-08-10 13:39:55
菊地誠と東浩紀とソーカルと - Togetter

(2) ひとには比喩を使う権利はあるし、(ここ大事ですが)そもそも大陸系の哲学の一部はとうの昔に科学ではなく文学になっているのだから、比喩を比喩として使っている人間をあまり暴力的に断罪するのもいかがなものか、という2点につきています。
@hazuma 2010-08-10 13:41:43
菊地誠と東浩紀とソーカルと - Togetter

たとえばフランスだとわかりにくいのでドイツの例で行くと、フッサールの科学的誤謬を衝くのは意味があるけど、ハイデガーの誤謬は衝いても意味がない。あれはカルナップが同時代に正確に指摘したように科学よりも詩に近い言語だからです。
@hazuma 2010-08-10 13:43:17
菊地誠と東浩紀とソーカルと - Togetter

そしてラカンはそもそもが、「フロイトハイデガー的解釈」のひと、つまり「科学言語の詩的再構成」をやっているひとなのであり(そんな彼が精神分析という「科学」を標榜していたことは責められるべきでしょうが)、したがってあまり彼の科学的誤謬を衝いても意味がないのです。
@hazuma 2010-08-10 13:45:11
菊地誠と東浩紀とソーカルと - Togetter

こう書かれると、なんとなく納得してしまいそうだけれど、東先生の『存在論的、郵便的』における、ゲーデル不完全性定理「問題」は、第一部で、柄谷行人の問題として主題化されていたわけだが、後半の、ハイデガーデリダ問題においては、むしろ、ラカン派のゲーデル不完全性定理の「解釈」によって、解釈する、といった構成になっているわけで、つまり、そこでの後半のラカン派に関係した部分を

  • 比喩

と言うのはそうなのだろうけれど、前半の柄谷の関心を、そんなふうに「比喩」と語られると少なからず違和感を覚えるわけです。確かに、柄谷の最初の頃の、ホフシュタッターへの言及していた個所で、柄谷自身がホフシュタッターに倣って「比喩」という言葉を使っていたし、エッセイの中には、より社会的な現象をゲーデル不完全性定理で説明しようとしていた記述(まあ、トンデモ)もあったことは確かだけれど、概ね、柄谷のゲーデル不完全性定理への言及は、数学の定理としてのものだったと思うんですよね。
まあ。そうでなかったら、森毅や倉田令二朗との鼎談も成立しないと思うわけで。しかも、その鼎談での、浅田彰の発言なんか読むと、かなり浅田さんは、こういった数学の論文を読みこなしているんだなあ、といった印象を受けるわけで、東先生のように「比喩」の一言でかたづけていない。
(というか、ゲーデル不完全性定理って、自然数の理論を含んだ理論としか言っていないんだから、まあ、文学理論だろうが、社会学理論だろうが、哲学理論だろうが「含む」と、とりあえずは言うことは、なにも「比喩」じゃないと思うんだけれどねw)
つまり、「ポストモダン」の一言で、「大きな物語」が弁証法的に乗り越えられてしまって、たんに「言及しない(=無視する)」という

  • 作法

になってしまっているわけだけど、そんなことはどうでもいいから、数学の証明を実際に自分でされてみたら、また別の「印象」があるんじゃないんですかね、といった皮肉も言ってみたくなるわけです...。