植原亮『実在論と知識の自然化』

いつからは分からないが、いわゆる哲学系の本屋の書棚を見に行くと、

の分野、まあ、それと隣接する形で、「科学哲学」というカテゴリーもあるわけだが、そういった系列の特に日本人の研究者の書く本に、いわゆる

とでも呼んだらいいのか、と思われる系列のものが非常に多く見受けられる印象を受けるようになった。そういったものとして、「科学的実在論」「存在論」「形而上学」といったような名前が、タイトルまたは副題に含むものを探してみれば、私がこういった印象を受けることが何を意味しているのかが分かるのではないか。
では、ここで言っている、いわゆる「実在」とは、なんのことを言っているのだろう? それは、まあ、一言で言えば、「科学哲学」ということになるのであるが、例えば、最近読んだ、戸田山和久さんの『科学的実在論を擁護する』の、まさに最初の方の章でこの「科学的実在論」の歴史を説明されるときに、これを

との「対立」として説明されていたことが思い出される。そこにおいては、デカルト独我論にまでさかのぼって、例えば夢や妄想と現実を区別できない、といった主張と観念論を繋げて、そういったものに

がどのように戦ってきたのか、といったストーリーで説明されていたように記憶している。
そのように考えると、掲題の本も基本的には、問題意識としては戸田山和久さんの『科学的実在論を擁護する』と同じ

の関心から出発しているのだと思われるわけだが、この本でそこと違っているのは、この本では何度も

  • 自然種

という言葉が、登場するところにある、と言える。そういう意味で、この本は基本的に戸田山さんの主張と共鳴したところがありながら、さらに一歩先に進んでいる、という印象を受ける。つまり、

を主張するということは、必然的にこの頂きまで到達しないとおかしい、といったアイデアが根底にある、ということなのだと思う。

ここで生じるある疑念から、この謎を解く手がかりとなるひとつの哲学的見解を示しうる。その疑念とはこうだ。世界について知ることができるというとき、はたしてそれは文字通りのことを意味しているのだろうか。世界についてのわれわれの認識は、世界の真の姿とは異なっており、しかもそれとは無関係に形成されているのかもしれない。つまり、われわれの認識は、世界の真の姿と独立のものである、ということはないだろうか。
こうした疑念はまったく根拠のないものではない。まず日常的なレベルで、錯覚や夢見のように、眼前の現れと実際とが食い違うという経験がしばしば生じる。あるいは、因果関係など存在しないところにそれを見てとってしまう。われわれの認識は、世界の実際のあり方を完全に正しく捉えているわけではない。そして次に、これがわれわれの認識において局所的にではなく、全面的に生じている事態かもしてないと疑い始めれば、上で述べた疑念が生じてくることになる。
そこでこうした疑念に導かれて、以下のような見解が示されるに至る。認識は初めから必ず一定の秩序のもとに世界をわれわれの前に差し出す。そうして差し出され、われわれの前に現れる世界は、もはや世界そのもの、つまり実在ではない。したがって、たとえそこに一定の秩序なり構造なりが見出されるにせよ、それは実在の側にあるものではなく、あくまでも認識によって与えられたものにすぎないのである。
もし世界についての認識の実相がこのようなものであるとしたら、世界について何ごとかを知りうることの謎は、もとより世界そのものについての謎ではなくなるだろう。その謎は、実在ではなく認識の側に定位して考察すべき事柄なのだ。世界が本当のところどのようなものであるかは知りえない。あるいは世界そのものは無定形で構造をもたない。だがとにかくわれわれに提示される世界の現れは秩序立っており、そうした現れの世界の秩序とそれを与える認識の本性について明らかにしていくことならできる、というわけである。
哲学史をひもとくと、人間本性、超越論的主観、言語、理論、概念枠など名前こそ変わるが、認識主体の側にあって現れとしての世界に構造を与え、それを秩序立った現象の生起する場たらしめるべく作用するという装置が繰り返し登場してきた。中には、その限界こそが世界の限界にほかならない、と宣言されたものもあるほどだ。いずれにせよ、このような見方のもとでは、世界そのものは考察の舞台から退場し、代わってそうした装置が主役を演じることになる。あとは主役をうまく立ち回らせるべく、そうした装置の分析や明確化に励めばよいだろう。
なるほどこのような道筋が、哲学的思考の洗練・純化のひとつであることはまちがいない。しかしこれは、かえって謎を深めるだけのように思われる。世界についてわれわれが現にもっている認識のあり方が、かりに認識そのもののなせるわざであるとしても、ではなぜ認識はそのようなわざをなすというのだろうか。何よりもこの点が、説明されぬ謎としてそのまま残されてしまう。むろん、単純性や整合性や一般性などを認識の評価規準として持ち出すことで、この点の説明を試みることはできるだろう。そうした規準をなるべく満たそうとすれば、世界についての認識がまさに現にあるような仕方で成立することになる、というわけである。だがたとえこの方向で議論を進めることができたとしても、ただちに、どうしてそのような規準で認識が評価されるべきなのかという厄介な問いが生じざるをえない。このように、実在としての世界と認識とを切り離して、現れとしての世界を秩序づけてそれに構造を与えるという過大で不自然な役割を認識に負わせてしまうと、認識にまつわる謎を明らかにし、それについての首尾一貫した全体像を描き出すことが、あまりにも険しい道のりとなってしまうのである。
どこかの地点で引き返さねばならない。そしてそこから別の哲学的見解を提示して謎を解くべきなのである。われわれの認識が世界の真の姿とは異なっていて、それとは無関係に形成される、とする見解を斥けよう。その代わりに提示すべき見解はこうだ。われわれが世界を一定の秩序において捉えることができるのは、世界そのものがおおむねまさしくそのような構造を有しているからにほかならない。いいかえれば、実在の側のあり方と、それについてわれわれが現にもちうる認識とは、ほとんど合致するのである。もちろん部分的には、最初にわれわれがもっていた素朴な認識を大幅に改訂しなければならなくなる局面も生じうる。しかしその場合でも、認識が実在のあり方に合致する領域は改訂を通じて増大していくのであり、われわれの認識が世界の真の姿をおおむね正しく捉えることができる、という可能性が何ら否定されているわけではないのである。
この哲学的見解を私は端的に「実在論 realism」と呼びたい。

上記の引用は、そういった意味で、上記で紹介した戸田山和久さんの『科学的実在論を擁護する』の前半の

との戦いとしての、「夢や妄想」と科学の戦いとして「認識論」と「存在論」の対立を定義して、それに対する「存在論」の優位を主張しているという意味では、驚くべきほどに、戸田山さんの本の議論と似ている(この影響関係がどうなっているのかは分からないが)。
もちろん、この程度のことで影響うんぬんを論じることには意味がないのかもしれない。つまり、ある意味でこの二人はとても「常識的」なことを言っている、とも受け取れるからだ。
上記の引用は、いろいろ書いてあるわけだが、ようするに「科学」と「実在」をイコールで結ぼう、という「運動」を呼び掛けている、と解釈できるように私には聞こえる。科学は「真実」を探究する学問なのだから、その科学で正しいとなったなら、それが「実在」と呼ばれることは当然だ、と、まあ非常に端的にまとめてしまえば、そういうある種の「常識」を書いているのだろう。
ようするにこれは、いわゆる「分析哲学」における

  • 合理性の問題

における、非常に近年、ポピュラーな考え方を代表している、ということを意味している、ということなのだろう。そのことの意味していることは、おそらくは、戸田山さんにしても、掲題の著者にしても、その含意している根底に、クワイン

を認めることが、ほとんど前提のように考察している、ということがあるように思われる。

帰納の基礎に類似性ないし自然種に反応する生得的な機構があるというのが正しいとして、ではそうした機構が、恣意的な仕方ではなく、世界の側とそれなりに適合して働くのはなぜなのだろうか。よく知られているとおり、クワインはここでダーウィンの進化論に訴えている。ある生物種のもつそうした機構が、もし世界の実際のありようとかけ離れたものであるならば、その生物種はいずれ絶滅するであろう。というのも、その生物は、食物や配偶者の探索、あるいは捕食者からの逃亡などに失敗する見込みが大きくなるからである。したがって、現在生き残っているのは、自然選択の結果として、類似性ないし自然種にある程度適切に反応する機構をもつに至った生物種の子孫だということになる。人間は現に絶滅せずに生き延びており、したがって人間に備わるそうした機構もまた世界の側とそれなりに適合して働く、というわけだ。

しかし、戸田山さんの本にしても、上記の引用にしても、彼らが実際に問題にしているのは「認識論」なのであり、ようするに、いろいろとオブラートに包んで語っているけれど、

  • カント

と戦っているわけであろう。カント哲学は「間違っている」と言いたいわけであろう(だから、わざわざ、上記の引用箇所では「超越論的主観」という言葉が使われている)。しかし、だとするなら、その批判の例として、「夢や妄想」をほとんど代表的な争点にするのはおかしいのではないか? そうであるなら、それはカントではなく「デカルト」なのではないか?
例えば、上記の引用を見てほしい。ここで掲題の著者は、

  • なぜ認識はそのようなわざをなすというのだろうか

と問う。しかし、ここで想定されている問題は、デカルト的な「夢や妄想」の懐疑論にすぎなく、つまりあくまでこれは「認識」論で存在論を置き換えられる、といった主張に反論しているにすぎなく、そういった意味では、

  • なぜ科学は成立するのか
  • なぜ人間は生きているのか

といった問いとなにが違うのだろうか、といったことになる。しかしカントが言っているのは存在論の前に認識論の基礎を確立しなければならない、といった程度のことで、しかもそれはあくまで「形而上学」として言われているに過ぎないわけで、なにか話がかみあっていない印象を受ける。
まず、私の解釈としてカントと自然科学の関係を整理しておくと、

  • カントは、「経験的実在論」として、今の自然科学が自らの批判哲学の中で、十分に展開できる「領域」をもっている、と解釈している。
  • カントは、未来においては、自然科学の発展によって、自らの批判哲学の一部が不要になる可能性を認めている。

だとするなら、ようするに科学哲学の側が、カントを「仮想敵」とする場合に、一体、なにに文句を言っているのかが、今一歩、私にはよく分からないわけである。
例えば、カントは現象と物自体を区別した。その場合、上記の引用は「科学は物自体が<なんであるか>という、真理を発見する学問だ」と言っているように聞こえる。それは上記の引用で何度も現れる

  • 真の姿

という言葉がよく示している。「真の」とは、哲学の文脈では「本質」ということであろう。ところが、それと「姿」という言葉が結合している。しかし、「姿」とは、言うまでもなく、

  • 見る

行為によって生まれる認識のことだ。つまり、これは「比喩」として使われている。そのため、次のようにこの状況は言い代えられている:

  • 世界そのものがおおむねまさしくそのような構造を有している

この「言い換え」は、普通に解釈するなら、

  • 数学

のことを言っているように聞こえる。まさに現代の自然科学が数学で記述されるように。
もちろん、掲題の著者が言いたいことは分かるわけである。自然科学においては、私たちは概ね、「予測」に成功している。だとするなら、その数学的モデルが現象への「投げ入れ」、つまり、予測に成功するのには、ある程度、その「モデル」が「合理的」だからなのだろう、と。つまり、モデルの「正しさ」を反映していると言ってもいいんじゃないのか、と。
しかし、こんなことは、そもそも「科学」の実践がそれを示しているわけで、早い話が、カントはそういった実践の「問題」なるものを疑っていないわけであろう。つまり、実践がそれなりに「うまくいっている」ことは全ての前提であり、これを認めることにおいて、カントは自らの批判哲学の理論の中に「領域」をもっている、と解釈している。
じゃあ、なにが違うのか? それは、カントの用語として、それら一切は

  • 現象

だと言ったということであって、それとは別に「物自体」という概念を区別して、議論した、ということにすぎない。ようするに、カントは「形而上学」として、物自体の「領域」を別に置いた、ということになり、この間には絶対的な非連続性を置いた、ということになる。
なにが疑わしいのだろう? 物理学における「もの」とは、そもそも原子とか電子とか陽子といった「概念」である。まあ、これを水素原子とか酸素原子とか窒素原子と言ってみたとしても、また水分子といったようなそれらが化学的な意味での結合したものとなったとしても、それらは「概念」であって、いわゆるそれは

  • 固有名

が指示するような意味での「もの」ではない。しかし、このことは私たちが日常的にもっている「常識」と相性がよくない。「ある」とは、実際にこうして、目の前にあって、それを例えば、指などで「指示」して、目の前にいる人に「指し示している」から意味のある概念なのであって、本当は水分子だろうが、水素原子だろうが、電子だろうが陽子だろうが、それを

  • 固有名

として指し示さなければ、なにかを「ある」と常識的に呼んでいた意味での「存在」にはならないのではないのか? もちろん、分子レベルくらいまでなら、ある分子をなんらかの方法でマーキング(色付け)して、「それ」の移動を観察することは可能なのかもしれないが、ここまで行くとそれは非常に「生物」に近い、今度はまったく逆の問題がでてくる。
ようするに私が言いたかったことは、電子とか陽子といったものは、あくまで「概念」であって、固有名的に指し示すような「それ」を表しているわけではない、ということなのだ。そうだとするなら、言うまでもないが、一つ一つの「陽子」や、一つ一つの「電子」には、言うまでもなく今分かっている陽子や電子の特徴を超えた

  • 個別性

がなければならないことになる。そうなって始めて、「それ」の指示性を「定義」できることになる。
では、なぜ物理学においては、そういった「固有名」性は排除され、見えなくなっているのか? いや、そうであるのにも関わらず、掲題の本や戸田山さんの本はそれを「実在」と呼ぶことにこだわるのか?
それはおそらくは、科学の「直観」性が彼らに、

  • そう言わないことの違和感(ようするに、自明性)

を強くさせる、といった感覚があるからではないか? 科学者集団でなぜ「同意」が生まれるのか? それはその科学者集団内のだれがやっても何度でも「同じ」と、「みんな」が思うのなら、「それ」を一つの「実在」と呼ぶことには正当性があるように思われる。そして、もっと大事なことは、この「歴史」は「連続」しているように思われる。つまり、過去から連綿と受け継がれて

  • 進歩

しているように思われる。つまり、科学はより「真実」に近づく。ならばそれを端的に、「実在」と呼ぶべきなのではないか、と。
しかし、カントが言っている「物自体」とは、そういうことではないように思われる。例えば、今ここで生きている私と、はるか未来に、もしも生きている人間がいたとして、その人とは

  • <同じ>人間

なのだろうか? ここで「同じ」と言っていることは一体なにを意味しているのだろうか? 種としての「人間」を最も単純な区別の方法は、同じ人間の男女なら、セックスをして子どもができれば「同じ」と呼ぶらしい。しかし、今の人間と「未来」の人間がセックスをできるわけがない。なら、この二つを「繋ぐ」なにかを仮定するための、どんなオールタナティブがあるのだろう?
いや。もっと根本的に考えてみよう。私は人間だ。この「分類」に一体、どれほどの意味があるのか? なぜなら、私は多くの「細胞」によって構成されている、ということを端的は意味しているにすぎなくて、確かにその細胞それぞれは、なんらかの「影響関係」を与えあっているとして、しかしそのことは、なにもこの「私」が「一つ」として表象することを補強するものではない。端的に、それぞれの「細胞」か勝手に回りから影響を受けて、その環境の中で、唯我独尊にそういった動作をしているにすぎなく、どうしてそれらを「一つ」とまとめて、なにものかと呼ばなければならないのか?

以下では煩雑さを避けるためにも、物質と自然種は区別せずに、一括して自然種と呼ぶことにしたい。いわゆる分析的伝統のもとでは、物質と自然種を一括して自然種と呼ぶこともあるから、ここではそれを踏襲しているにすぎない(cf. Putnam 1975b)。一方、個体と自然種の区別についてはさしあたり維持しておくことにしたい。これは、単に便宜のうえでそうするだけである。確かに、便宜のうえでそうするだけである。確かに、個体と自然種の区別が実際には連続的でしかないという主張はやや直観に反するだろう。だがそれでも(詳しくは第三章で明らかにするが)、一貫した実在論に立つには、そのように主張するのが正しいように思われる。

掲題の本では、驚くべきことに、人間の「知識」も、たんなる名前ではなく「実在」と呼ぶべきだ、といった所にまでつき進むわけだが、こういった終着点が、

  • 科学

  • 実在

とイコールで呼んだ限りは避けられない到達点だ、ということになるのであろう。
しかし、私の素朴な違和感は、そもそも「科学」とは一種の「言語ゲーム」だというのが、カント以来の解釈だったのではないのか? つまり、「今ここ」における、科学者集団の「同意」が「成立」することの神秘はいいわけであるが、それをなにか、未来永劫にわたる

  • 本質

といったようなものとして「語る」ことを、なぜ「今ここ」の私たちに可能なのか、がよく分からないのだ。「今ここ」の私たちに分かることは少なくとも、今ここの何かであって、はるか未来のことは、その時代の方々が考えることではないのか?
そのことは、ある意味で「数学」の科学における役割にも関係しているように思われる。数学はあくまでも、パラメータをもった「項」の関係を記述しているにすぎなく、この項に「代入」するのは、一つの行為であり「実践」ということになる。そこでなぜ、ある関係性が恒常的に成立しているように見えるのか、という神秘はあるにしても、しょせんそれは、その「対象」の

  • ある側面

をスナップショット的に示したなにか、と言っているにすぎず、ようするにこれもひとつの「認識」であることを言っているにすぎず、別にそれを「固有名」のようにして指し示しているわけではない、ということなのだ...。