三中信宏『分類思考の世界』

私がこの著者に興味をもったのはつい最近で、それは前回紹介した、植原亮さんの『実在論と知識の自然化』に関連して、ネットで、自らを「唯名論者」として語っていることに興味をもったからであった。
そして、実際に掲題の本を読んで、私が植原さんや戸田山さんの本にある科学的実在論のなにに違和感をもっていたのかの、ある側面を説明してくれたように思われた。

ある時空断面での「実在論」を論理的に構築する点では本書は確かに完結していてこれでいいのかもしれない.しかし,生物体系学での【種】問題にまつわるこれまでの論議の系譜に照らして考えると,本書には書かれるべきことが書かれていない点がいくつかある.
『実在論と知識の自然化:自然種の一般理論とその応用』 - leeswijzer: een nieuwe leeszaal van dagboek

ワタクシは徹底的に唯名論的スタンスを標榜しているので,上記引用の「規約主義」の叙述でもまだ不十分だと考える.「個体が実在する」という見方さえ,根本的には支持できないだろうからである.
『実在論と知識の自然化:自然種の一般理論とその応用』 - leeswijzer: een nieuwe leeszaal van dagboek

なんというか、上記の書評のブログの記事は、その本の主張に対して、正面から反対といったようなものではない。ただ、なんらかの意味で自らの持論と整合性がとれていない印象を受ける、といったことが主張の中心のように思われる。あまり、それ以上の深い考察が行われているわけではない。
しかし、この「対立」はどこから来るのだろう? この三中さんが専門とする「生物分類学」という学問の、ある特殊性がこのようなスタンスをとらせている、ということなのだろうが。
ようするに、水素原子といったような、

において議論するような対象は今の自然科学では、どこか「非歴史的」に扱える、ある種の「普遍性」のある「概念」として受け入れられている、といった認識から、この概念の「実在」ということを言い始めるのであれば、これでいい、と言えないこともない。では、それと同じような扱いを、生物などの高次の分子「集合体」に対して適用するとき、それは実際は何を言ったことになっているのか、という話になるわけだ。
水素原子のような

において問題になったような、原子・電子・陽子、といったようなものの「固有名」を考えることは、ほとんど意味がないし、まず不可能でもあるだろう。しかし、より大きな分子体や、生物のようなものを考えるようになると、どうしてもその

  • 固有名

が重要になってくる。ようするに、原子・電子・陽子といったものは、所詮は「内包」的な定義にすぎないわけで、それは、ある角度から眺めることで確認できる「性質」にすぎない。つまり「それ」が、他の角度から、どういったことを見出せるのかは、まったく未知の話だと解釈することもできる。
しかし、このことを敷衍するなら、よりカント的アンチノミーを鋭くさせる問題があらわれてくる。

妖怪博士・井上円了が注目するのは、それら偽りの妖怪たちを排除したあとに残る真正の不可思議、すなわち彼の言う「真怪」である。「真怪」と聞いて、現在の私たちはついオカルト映画や漫画に出てくるような超自然的な「化け物」を想像してしまうが、それは早計である。円了の言う「真怪」とはもっと自然科学的な存在だからだ。

不可思議につきて考うるに、目前の時々物々の内におのずから存在すと心得てよろしい、まず一滴の水をみるに、その体、分子より成る。その分子はこれより一層微細なる分子より成る。その結局、水素、酸素といえる二種の元素より成ることが分かる。もし、この元素の体はなにものなるやと問わば、これより以上の説明も解釈もできぬ。ただ、元素は元素なりといいて答うるよりほかはない。すなわち、元素を指して不可思議と申してよろしかろう。[...]この点より考えたらば、宇宙万物のすべてが真怪なることが分かる。(『迷信解』一九〇四年、六七五頁:『妖怪学全集』第四巻所収)

これを現代の「素粒子」のようなものをもちだして、その「なにものなるや」に答えても、今度はこの「素粒子」とは「なにものなるや」の問いに悩まされることになる。これをカントは「アンチノミー」と言ったわけであるが、この問題は、前回、『実在論と知識の自然化』において認識論を採用したとしても、その「根拠」の問題に悩まされることになるのだから、存在論でいいんだ、と書かれていたこととの類似性を感じざるをえない。
ようするに認識であれなんであれ、「なにものなるや」と問い続ける限り、同じ

に悩まされる、というのがカントの主張だったわけであろう。このことは、現代において、当時とは比べものにならないくらいに科学が発展したとしても変わらない。
なにかが変だ。それはどこから来るのか? つまり、ここに欠けているのは、ある種の「系譜学」的な問いなのではないか? つまり、結局のところ、人間はなにをやっているのか、という問いがなぜ「科学」と関係ないと思っているのか、と問い直してもいい。

観察された断片的なデータ(すなわち "部分")から、それらを一括して説明する仮説(すなわち "全体")を推論する能力がヒトは生きるために必要だという。このとき重要なことは、推論された仮説は真実であることをまったく求められていないという点である。得られたデータを説明できる最良の仮説が得られれば "よいのだ"。このような推論方法を「アブダクション(abduction)」と呼んでいる(三中二〇〇六)。
ここでメトニミー的に復元される全体的ストーリーとは、アブダクションによる最良の仮説の推論にほかならない。ギンズブルグは続けて言う。

物語という観念自体、漁師たちの社会のなかで、痕跡の解読の経験をつうじて初めて生まれたのであった。今日でもなお狩猟型解読の言語が立脚している比喩----部分と全体、結果と原因----がいずれも換喩[メトニミー]という散文軸にまとめることのできるものばかりであって、換喩[メトミニー]を厳しく排斥しているという事実は、この仮説を裏付けてくれるのではなかろうか。漁師こそは「ストーリーを物語る」ことをした最初の者であったにちがいないのである。(一九八六:訳文は上村二〇〇九、二六四頁、[ ]内は三中補足)

カントなら「理念」とでも言うような、仮説であり、推理(アブダクション)は、ギンズブルグに言わせれば、

  • 漁師

がさまざまな動物の移動の「痕跡」から「推理」する、過去からの狩猟民族の「実践」と区別ができない、となる。そして、ここから彼は

  • 物語

の起源にまでさかのぼる。しかし、待ってほしい。上記の引用個所にもあるように、この場合、ほんとうに

  • 真実

は重要なのか? それは「真実」ではなくて、狩りの

  • 成功

が重要なのではないのか? つまり、これと同じ事情が「分類学」においても見られる、と言いたいわけである。

このようにして、「ものを分類する」という行為は、共時的だけでなく、継時的にも実行できる。現象世界における千変万化の存在の様態を人間が理解するための窮余の策としてカテゴリー化は発動される。そして、いずれの場合も、それらのカテゴリーを背後でしっかり支えているのは「同じものである」という私たちの側の認識である。このとき重要なことは、存在の側で客観的に見て「同じものである」かどうかは問題ではないという点だ。単に心理的に「同じものである」とみなされればそれで十分だ。したがって、ここでもまた私たちは自らの「心」が生み出したものに向き合うわけだ。

私に言わせてもらえば、科学者集団が行っていることは、まあ、ウィトゲンシュタインじゃないけれど、「言語ゲーム」ということになる。それは、そのコミュニティにおいて、なんらかの

  • 合意

が成立する、ということを意味するわけが、それと上記の「漁師」とはなにも違わない。漁師が結局のところ、「狩り」の獲物の獲得に成功しなければ生きていけないのと同じように、この科学者集団も別に、なにかの「真実」が得られなければ生きていけないわけではないのだ。そこには、現在の量子力学の工学的な応用が示すように、そもそも「理論」の「合理化」さえ、ほとんど深刻視されずにひたすら工学的応用の

  • 便利さ

ばかりが発展することもある。ようするに、私たちは彼らが「何を言っているのか」ではなく、彼らが「何をやっているのか」を見なければならない、という、なんともマルクス的な結論になる、というわけである...。

分類思考の世界 (講談社現代新書)

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