石川求『カントと無限判断の世界』

ここのところ、東浩紀先生の本について論じていなかったが、私は一つ、以前から気になっていたことがあった。それは、処女作の『存在論的、郵便的』においてすでに登場し、最新作の『観光客の哲学』においても登場する

という言葉であった。特に、『存在論的、郵便的』において、この概念は

の文脈で使われており、それは、デリダがこだわったこの「否定神学」の問題を、デリダ自身が反復している、というだけでなく、柄谷でさえも同じ

  • 間違い

を犯している、という形で「批判」の形で指摘されていた。しかし、私にはこれは変なんじゃないのか、という思いがどこかにずっとあった。なぜなら、もしもこの批判が「正しい」となると、なにかを語るということ自体が成立しない、と言っているように聞こえたからだ。事実、東浩紀先生はこれ以降、本格的な研究書の執筆を一切止めて、ジャーナリスティックな、まさに、「パフォーマティブ」な(=身体論的な)散文だけを書くようになるわけだが、こういった態度が中期デリダの執筆姿勢を強く意識したものであったことは、だれが見ても自明であろう。
私はこの違和感を、ずっとうまく言えないで、もやもやと今までしてきたのだが、掲題の本を読んで、はっきりと分かった気がしている。
掲題の本は、カントが純粋理性批判の中で彼の論理学の文法として採用した「無限判断」に注目する。この無限判断は、つい最近出版され、注目された、國分功一郎さんの『中動態の世界』における中動態と同じように、古代ギリシアなどの太古の世界では普通に使われていた

  • 文法

でありながら、フレーゲの「数理論理学」の確立と平行して、近代科学では排除され忘れてきた「文法」であった。
しかし、その複雑さは、中動態に比べてはずっと分かりやすいはずなのである。なぜなら、カントの純粋理性批判にさえ、まだ登場しているからだ。つまり、今でもこうして読まれている純粋理性批判にあるのだから、少なくともそれを読んだ現代人には理解されている、と言いたくはなるじゃないか。
ところが、掲題の著者はこの点において、

  • 絶望的

だとさえ語る。特にその悲惨さは、日本のカント研究者においてこそそうだ、と言うのだから、どうもこの闇は深そうなのである。

いや、むしろこういうべきか。読者の欲する自明性なるものにカント自身が立ちはだかるからである。私があの2を「憶測」と呼ぶ最大の理由は、"改訂" までして2の区別をこしらえてみたのはよいけれど、それがまさにカントの当のテクストによって裏づけられることなく、ただ宙に浮いてしまうためである。しかもこのことは自覚されてきた。いや、それどころか極端な場合、私たちの読解をはばむ元凶はカント自身の "不明" にあるとさえいわれてきた。先ほど引用した事典項目の執筆者は、その著書の中で書いている。

[原テクストの後半部では]あおの「雄山羊の乳を搾るのを見て、ザルでそれを受ける」[K-B 83]がごとき失態を、彼[=カント]自身も演じているのである。......なぜなら、カントのそこでの論法は、終始、この判断契機にとってかならずしも本質的ではない「無限」という概念に振り回されているからである。......『純粋理性批判』の当該個所を何度読んでも、たいていの読者にとってカントの意図がどこか釈然としない理由の一つは、そもそもカント自身が無限判断の名称を誤解しているからである。

闇は真に深いというべきだろう。ここまではいかなくとも、多かれ少なかれ類似した非難はほかにもみられる。たとえば無限判断 "ルネサンス" 第一弾のコーエンは一九〇七年に出版した『純粋理性批判』の注解書でえ、たとえば段落の【7】における「す べての可能なものの無限の圏域」というカントの言葉づかいに「不快(anstoBig)」感を表明していたし、マイアー(Anneliese Maier, 1905-71)も、「無限判断の由来を考慮でず(あるいはそもそも知らず)に「無限な」という形容詞を文字どおりの意味で解釈したのはカントが最初である」(括弧マイアー)と断じていた。また中島義道によれば、「[段落で]カントの論じている事柄自体がわかりにくく、カント自身の書き方も明快とはいえず、しかもみずから間違っている」。

日本のカント研究者たちは

  • カントが間違っている

と「怒って」いるわけである。すげーな。
ではなぜこのような「混乱」が今に至るまで起きているのか?

アリストテレス以来の伝統的な論理学は、否定をめぐる二つの判断を、コプラ否定(否定判断)すなわち「SはPではない」と、述語否定(無限判断)すなわち「Sは非Pせある」の区別として斯学の内部で定式化した。しかし、まずここで注意が必要である。このように無限判断をひとたび述定の一つとして扱い、それ相応の真理値をもたせてしまったなら、二つの否定をあたかも同一の位相に並べて論理学の外でも比較できるかのように誤解させる危険性を背負うことにもなる。

無限判断の基本的な、歴史上の定義は、このアリストテレスから始まる。しかし、掲題の著者は、この表現は

  • 誤解

を一部の人たちに与え続けてきた、と解釈する。

コーエンは「Sは非Pである」というその "定式" を案の定、たとえば「魂は不滅(不死)である」、「神は無限である」、「ピカソは非凡である」といった私たちにもなじみ深い日常の判断と同じものだと理解した。「不滅」、「無限」、「非凡」というのは、見かけの、仮象の否定であって、じつのところこれらを述語にもつ飯台は意味の上で肯定なのだ、と。

大事なポイントは、この新カント派のコーエンによる無限判断の解釈が掲題の著者に言わせれば、

  • 根本的な間違い

を犯している、というところにある。確かにアリストテレスは無限判断を「非P」を表現した。しかしこの「非P」をフレーゲ以降の「記号論理学」的に解釈してはならない、ということなのだ。よく考えてほしい。もしも、そうできるなら、現代の記号論理学に無限判断がないように、こういったものは

  • 不要

ということになるであろう。しかし、間違いなく過去にはあったのだから、この区別はなにか意味があったわけである。
じゃあ、どういうことか? 掲題の著者は以下のように説明する。

通常の区別には、暗黙の共通基盤が前提されている。たとえば「青は緑でない」における否定はあの「反(アンチ)」であり、これが否定判断である。主語と述語は色という類を共有する。これにたいし「青は整数でない」の否定は<非(ノン)>であり、これが<否定>の無限判断であって、ここには主語と述語をつなぐ鎹(かすがい)が存在しない。現象と物自体の区別は、この後者の "関係" に類比される。カントはとくに『純粋理性批判』(初版は一七八一年)で、物自体がポジティヴな意味ではなく、ネガティブな意味でのみ理解されるべきだと説いた。これをいいかえると、物自体は、その裏いポジティブな主張を宿す「反」ではなく、どこまでもネガティブな<非>・<脱>・<超>などとしてのみ有効だと語ったに等しい。要するに無限判断はこうした非常な区別の象徴なのである。

私たちは「青は整数でない」などと言われたら、普通に

  • ナンセンス

な文章だと思うであろう。いや、これでいいわけである。無限判断とは、たんにこういったことを言っているにすぎない。過去の人たちは、こういった表現と例えば、

  • 平行世界

でなら意味があるような文章(可能性の範囲で意味が成立しうる文章)を区別した、というわけである。
こういった区別は煩雑であろうか?
たしかにそうであるから、現代の記号論理学からは排除されているのであろう。しかし、こういった区別を行うことを採用すると、それはそれで

  • 表現

の幅は間違いなく広がっているわけである。つまり、これは「深く考察する」場合には、とても便利な区別なんじゃないのか、ということが分かってくる。
掲題の本では、この関係をカントがライプニッツ

  • 現象を知性化した

と批判したことの意味の分析において象徴させていることを論証する(このことは、ライプニッツの「連続律」をこの文脈で考えることにおいてもカントの批判哲学との差異が分かる)。
そして、その最も重要なカント哲学における区別が

  • 現象と物自体

にあることが分かるのではないか。掲題の著者は、カントにおける「現象」と「物自体」の区別は「無限判断」になっている、と考える。つまり、「現象」の

  • 連続

の先に「物自体」があるのではないのだ! 多くの自然科学系の人たちは、このカントの区別を勘違いしてカントをボロクソに非難してきたわけだが、おそらくそこには、なんらかの形での「ライプニッツ主義」の影響が、現代の自然科学系の人たちを覆っている、という端的な事実を表しているのかもしれない。
ここで最初にとりあげた話題に戻って、「否定神学」について考えてみたい。

ちょうど "無限判断" がそうであるように、否定神学も大なり小なり言語の問題である、と解してしまう向きがある。神は「不滅の」、「無限の」存在として否定表現でしか語れないとか、あのアンセルムス(Anselm od Canterbury, 1033-1109)による「それより偉大なものが考えられえないもの」という有名な神の定義にしても否定が関与するので、否定神学的であるとか、いわれたりする。
けれども、上述のとおり、否定神学とは全面否定の神学である。いいかえれば否定神学は、神は主語としてなにものかではありえても(無限判断の原点)、しかし述語にかんしてはなにものでもなく(無限判断の焦点)、ゆえに(「不滅」であろうと「無限」であろうと)いかなる述定もできない、と発意する。そもそも神を相手にして判断や命題という思惟形式はそぐわない。しかとこのことを認めた上で、そうした述語の全面否定にいよって、すなわち述語からの主語の絶対的分離によって、さらにいかえれば、述定----これ自体が相対的なものでしかない----になずみきった人間知性の働きを停止することによって、むしろ神[=主語]の存在それ自体を絶対肯定するという逆転の論法を否定神学はとる。神は一切の比較や無比無類の神すなわち超越神をいかなる仕方でも語ることはでき<ない>。
世に否定神学を開始した、いわゆるディオニュシオス文書(六世紀?)の『神秘神学』には、たとえば以下のような文章がある。

しかし万物を越えるものとして神をみる場合には、むしろ神について、これらすべての命題[すなわち存在者にかんしてなされる主張]を否定[傍線]しなければならない。ただしそのさい、肯定と否定[波線]が矛盾すると考えてはならない。むしろ神はすべての欠性(ステレーセイス)を越える原因として、すべての否定[波線]と肯定を越えてはるかにこれに先行するものと考えなければならない。

もうあらためていうまでもないが、傍線の否定と波線の否定はちがう。前者が全面否定すなわち<否定>であり、後者が肯定(P)と対をなす限定否定、すなわちしかじかの「ある」が欠けていると述定する否定(反P)である。そして、ここにはもう一つ重要な発言がある。全面否定(非P)によってしか語りえないその神が、「すべての否定と肯定を越えてはるかにこれに先行する(ポリュ・プロテロン)」のだという。全面否定が、肯定 / 否定とは次元を異にするだけではなく、判断それ以前の問題としても位置づけられている。、この「以前」という語を私たちはすでに何度も用いてきているが、問題の論点はとくにフィヒテの無限判断論を先駆している。無限判断はほんらい判断ではない。こなたの指だけに注目し、かなたの月にかんして肯定も否定もしない人は判断しているのではないからである。

さて。ここで、東浩紀先生のデリダを介した「否定神学」の解釈が、どのようなものであったのかを振り返ってみよう。

すでに六〇年代からデリダは、彼自身が提示したさまざまな逆説的観念、例えば「差延」がきわめて否定神学的に見えることを十分自覚していた。ただしここで「否定神学」とは、肯定的=実証的(ポジティヴ)な言語表現では決して捉えられない、裏返せば否定的(ネガテイヴ)な表現を介してのみ捉えることができる何らかの存在がある、少なくともその存在を想定することが世界認識に不可欠だとする、神秘的思考一般を広く指している(デリダ自身がそのような広い意味で使っている)。デリダが初期からこの広義の「否定神学」への接近を警戒していた理由は、分かりやすい。『声と現象』や『グラマトロジーについて』第一部で示された脱構築は、まだおおむねゲーデル脱構築でしかない。フッサールソシュールの体系に宿る位階秩序を見事に自己矛盾に追い込み、「体系的であること」の非一貫性と不完全性とを導いたそこでの作業は、裏返せば「体系的には決して語ることができないものがある」という主張にかぎりなく近くなるからだ。

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

どうだろう? いや、はっきりしているんじゃないか? 東浩紀先生が完全に「コーエン」の意味で無限判断を解釈していることが。ようするに、ここから東浩紀先生は、表立っては本で主張をしていないが、強烈な

  • カントへの嫌悪感

を臭わせているわけである。ようするに、カントの「物自体」への嫌悪感である。東浩紀先生は、わざわざそう明示はしていないが、カントの物自体は

だと考えているし、そうであるカントに柄谷が「探究3」でコミットしたことに、猛烈な嫌悪感を、すでにこの本で表明している。しかし、その東浩紀先生の無限判断の解釈が、「コーエン」流のものであることに彼はなんの疑いも抱いていない。というか、こういった

  • 誤解

は、おそらく過去から、何度も何度も連綿として続いてきたのであって、彼も同じ罠にはまっている。それは、たんに現代の思想家が「頭が悪い」から、と言ってすませられない問題があるわけで、ようするに、哲学の歴史はこういった

  • 間違い

を犯した多くの哲学者を「継承」し続けてきた人々のミームそのものだと言うこともできるわけで、こういった間違いは、ある意味で、すでに

  • 失われた

過去の「(中動態や無限判断といった)文法」が、現代人には受け継がれていないのにも関わらず、過去の文献を読むという行為が、彼らが

  • 当たり前

に前提にしていた何かを感じることができない、といった「頭が良い(=論理的にこの文脈を理解したいという態度自身が強いる)」がゆえに陥る必然的結果だとも言えるわけである...。

カントと無限判断の世界

カントと無限判断の世界