三中信宏『系統樹思考の世界』

私がどうしても理解できないのは、福島県の「甲状腺がん」の問題にしても、「HPVワクチン」の問題にしても。なぜこういった「対立」がいっこうに収束せず、ますます鋭くなるばかりであるのに、いわゆる

  • 知識人

がそれに対して一定の「見識」を示さないのだろう、という素朴な違和感なのである。
ようするに、世の中の知識人というのは、そもそも「党派的」な存在なのではないか、と言いたくなるわけである。
このことを、例えば、私がよくこのブログで問題にする東浩紀先生で見てみよう。

そりゃそうです。体制にあるていど順応しないと、新しいヴィジョンを現実にすることもできない。反体制を叫びながら大学や会社から給与をもらっているひとたちの感性は、ぼくにはわかりません。 にいさん on Twitter: "この人基本的に体制順応志向だよね。… "
@hazuma 2018/04/17 09:49:14

というか、ぼくは東大行ってる時点で体制順応。
@hazuma 2018/04/17 09:50:17

笑えば。 にいさん on Twitter: "笑える!この論理!御用ヒヨーロン家として食ってる事が透けて見えるw… "
@hazuma 2018/04/17 10:02:33

こういった発言を、いわゆる東浩紀先生のフォロワーの人たちってどう考えているのだろう? 別にそういう人たちの全員が東大に行っているわけではないのであろう。そうであれば、いろいろな観点で彼とは意見が一致しない、と感じながらニコニコ動画とか見ている人も多くいると思うわけであるが、謎である。
彼は自らこのように言うことで、自分が「党派的」に発言を左右しちえることを隠していないわけであろう。ようするに、一見、学問的な話をしているように見えるときでも、その時々の「利害」で発言を左右している、と正直に言っているわけであろう。だとするなら、あとは彼の読者のリテラシーなのではないか? 読者があまりにもイノセントで

  • きっとこの人は「いい人」だから、私たちの不利になることを言っていないはずだ

と、なんの根拠もなく、自分から彼に騙されに行っている、ということを意味しているんじゃないのか?
ここで最初に問題にした、「HPVワクチン」を考えてみたい。この問題において、まず最初に注目しなけばならないのは、

なわけであろう。よく考えてほしい。ここは

  • 学会

なのである。つまり、「科学者集団」なわけであろう。その学会が何を言っているのか?

日本産科婦人科学会は、先進国の中で我が国に於いてのみ将来多くの女性が子宮頸がんで子宮を失ったり命を落としたりするという不利益が生じないためには、科学的見地に立ってHPVワクチン接種は必要と考え、HPVワクチン接種の積極的勧奨の再開を国に対して強く求める声明を4回にわたり発表してきました。
http://www.jsog.or.jp/public/knowledge/HPV.html

これ。なんかおかしくないですか? だって、世の中の「科学哲学者」は、この事態が内を意味しているのかについて、今すぐに自らの見識を示すべきでしょう?
ようするに、この「学会」は学会員の「総意」として、国にHPVワクチン義務化の「再開」を4回も求めてきた、と言うわけでしょう。
どういうことなの?
まず、そこまで要求するなら、それを「説得」するエビデンスを素人にも分かりやすいように、意を尽して、何度でも何度でも、国民に伝えるべきなんじゃないの? だって、そんなに必要なんでしょ?
次に、この学会員は、自らの「親族」全員に、今、選択制でワクチン接種を選べるのだから、それをやったことを証明した文書を提出して、自らの体で訴えるべきなんじゃないの?
というか、これだけにとどまらないよね。日本にいる全ての

  • 科学者

は自分たち「科学コミュニティ」の主張が疑われているんだから、このHPVワクチン義務化に賛成の学者は

  • 自分の娘

に今の選択制のHPVワクチンを受けさせて、それを文書で提出させるべきなんじゃないの?
ようするにさ。なにが疑われているかって、この日本産科婦人科学会ってところは、なんらかの

  • 党派的

な「政治」として、こういった主張をしているだけなんじゃないのか、と思われている、っていうことなんでしょ? だったら、それを覆すには

  • 体で証明する

しかないよね。なんでそれをやらないの?

WHOは平成27年12月の声明の中で、若い女性が本来予防し得るHPV関連がんのリスクにさらされている日本の状況を危惧し、安全で効果的なワクチンが使用されないことに繋がる現状の日本の政策は、真に有害な結果となり得ると警告しています。
http://www.jsog.or.jp/public/knowledge/HPV.html

あのさ。WHOだって、普通になんらかの「利益団体」なわけでしょ? こんな国際的な「政治組織」が何を言っているのかなんて関係ないじゃない。あんたたち「学会」なんでしょ? 科学者なんでしょ? だったら、自分の主張の無謬性くらい、余計な政治的組織の権威なんか借りないで、自分で証明したら?
これさ。どういうことなんだろう? これ「科学」なんでしょ? そうじゃないの? いわゆる「ニセ科学」なのw なにが起きているの? なんでこんな主張を4回もやっているの? なんでこんなことを自分たちのホームページに載せているの?
うーん。
私はこれと似たような感覚に襲われたのが、いわゆる「社会生物学論争」の本を読んでいたときであった。ところで、この社会生物学論争は、今、生物学関係の本屋の本棚に行くと、かたっぱしから、

をたかだかに宣言する本ばかりが売っている。その含意は彼らが生物学者だから当然だ、と言いたくなるかもしれないが、ようするに、現代における「進化心理学」などの新しい科学の発展によって、

からだ、と言うわけである。しかし、そういうことなのだろうか?

進化生物学は、あるいはもっと広く生物学は、人間の行動・文化・倫理に対してどこまでものが言えるのだろうか、人間は生物として特殊だから生物学の埒外に置かれるべきなのか、それとも霊長類(あるいはその他の生物)と同列の枠組みの中で考察されるべきなのだろうか----一九七〇年代にはじまり二十年以上にわたって延々と続いたこと「社会生物学論争」の経緯は、ウリカ・セーゲルストローレ(2000)の大部の本に詳述されています。以下では、進化や系統という "ものの見方" が経験した一事件としてこの論争をたどることにしましょう。
ウィルソンの大著『社会生物学』(一九七五年)の出版をきっかけとするこの論争では、多くの論争やテーマがからまっていました。その中でもとくに印象深かったのは、「知識」に対する根本的な見解のちがいが、論争者の間で際立っていたという点です。
社会生物学批判派の将として戦い続けたリチャード点ルウォンティンは、実験を通じて得られた "ハードな事実" のみを賞賛し、その規準を満たさない "ソフトな推論" の意義をいっさい認めませんでした。実験科学的な方法こそ「善き科学」の本来のあり方だとみなすルウォンティンの立場からすると、進化生物学や行動遺伝学で実行されるモデル化に基づく立論やさらには統計学的な推論まで含めて、「容認されざる行為」という判決を下されることになります。これは、事実関係のレベルでの見解の相違などではなく、認識論のレベルでの断絶があったのだとセーゲルストローレは言います。
伝統的な科学では、反復実験が可能な物理学がモデルだったために、進化学(および他の古因学)が対象とするユニーク(唯一的)な事象に関する「歴史」の科学的地位についての考察は、必ずしも十分ではありませんでした。歴史学ははたして科学であり得るのかという問いかけが幾度も発せられること自体、科学哲学がいまだ成熟していなかった証しだといわねばなりません。生物の系統発生を復元し、進化過程に関する推論を行うという進化学・系統学のサイエンスとしての姿勢は、従来的な科学観に再考を促してきました。
経験科学としての「歴史の復権」----それは、歴史は実践可能な科学であるという基本認識にほかなりません。そして、その実践を支えているのは系統樹思考であり、一般化されえた進化学・系統学の手法です。

ちまたの「社会生物学」論争の本を読むと、社会生物学批判派は、ただの

  • 左翼

扱いであるw 科学という「真実」を無視して、遺伝子を信じることは「ナチスを礼賛することだ」と思考停止して、社会生物学賛成派を「運動家」としての側面ばかりを強調して、現在の

らを揶揄する日本の「ニセ科学批判」派と同じような視点から、「嗤い」「愚弄」している。しかし、上記にあるように、これはむしろ、

  • 科学の方法論

を巡る論争であったはずなのである。なぜなら、彼ら社会生物学賛成派の主張が、この意味で、科学者集団によって「認められていた」方法で、その証明を書いていたなら、反論できるはずがないからだ。
科学は「真実」を「発見」する運動ではない。科学コミュニティが「合意」する「方法」によって担保された、「合意」のコンテンツを増大させていく運動なのであって、よって本質的にはこの「方法」の「合意」のコンテンツを増大させていく

  • メタ科学

の運動を内包するものでなければならない(数学における「数学基礎論」というと、うさんくさくなるが、まあ、そういうこと)。
よく考えてみよう。歴史は科学になるのか? 歴史は一回性である。過去に起きたことで、今、別に目の前で起きているわけではない。そういったものに対して、どういった形でそれを

  • 科学

として扱えるのか? これは、そもそも「方法」が問われているのであって、それについての深い考察を離れて考えることはできないのだ。
例えば、進化という事実を考えてみよう。ある生物は、ある時、ある別の生物から枝分かれして生まれた、ということを主張しようとする。ところが、この「ミッシングリング」は、そう簡単にみつからない。みつかるわけがないのだ。そんなピンポイントのエビデンスなんて。だったら、どうするか? なんらかの

  • 推定

をするしかない。まさに「統計学」である。その「信頼区間」を調べて、そういった「推理=アブダクション」が、科学的な主張として扱うに値するものであることを認めさせなければならない。

ジョセフソン夫妻は、アブダクションによりある仮説がベストであると判定されるための諸条件を箇条書きに要約しました(John R. Josephson and Susan G. Josephson編, 1994)。

  1. 仮説Hが対立仮説H'よりも決定的にすぐれていること。
  2. 仮説Hそれ自身が十分に妥当であること。
  3. データDが信頼できること。
  4. 可能な対立仮説H'の集合を網羅的に比較検討していること。
  5. 仮説Hが正しかったときの利得とまちがったときの損失を勘案すること。
  6. そもそも特定の仮説を選び出す必要性があるかどうかを検討すること。

このようなアブダクション規準を満たす最良の仮説は、ある時点のデータと対立仮説との比較によって得られた「知的推測(intellectual guess)」であるということです。さらに新しいデータが加わったり、あるいは想定しなかった新しい対立仮説との比較により、その推測が覆される可能性はいつでもあります。したがって、アブダクションは終わりのない推測の連続であるとみなされます。
さて、人工知能研究で得られたアブダクションに関するこれらの特徴づけは、驚くべきことに、系統樹の推定問題にほとんどそのまま適用することができます。

今、ネット上で「ニセ科学批判」でふきあがっている連中で、この規準について一度でも考えたことがあるんだろうか? 科学は

  • 自明性(目の前の、「明らかさ」)

ではないわけ。こういった「方法」と切っても切れない「運動」なわけでしょう。社会生物学論争賛成派は、こういった観点で、社会生物学批判派を、新しい「方法」の提示によって

  • 説得

できたのか、ということが本来なら問われなければならないのであって、この点が不十分だった、というのが、セーゲルストローレの基本的な立場だったわけでしょう。それを、おもしろおかしく

  • 左翼活動家

の奇矯な(正義にふきあがった)「行動」の問題にすりかえている限り、上記の「党派性」の問題が曖昧にされ続けるわけで、そうである限り、この「日本産科婦人科学会」のおかしな行動も、いつまでも終わらないわけであろう...。

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

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