アニメ版「ゴジラ」がまるで喜劇のように笑えてくる点について

今日、劇場でアニメ版「ゴジラ」三部作の第二作目を見たわけだが、私は第一作目も見たのだが、それについてはなにもコメントする気にならなかった。今回も正直言って、今でも、なにも語りたいという気持ちにならない。
逆に言えば、それがなぜなのかについては語れるかな、と思ったので、少しだけ書いておきたい。
このアニメ版を見ていて、私はずっと「笑い」が止まらなかった。つまり、これはなにかの「喜劇」のようにしか見えないのだ。なぜか? それは、ゴジラ

  • 森の中

を歩いているからであるw いや。ゴジラ

  • 都市

というか、

  • 東京

を破壊するからゴジラでしょw なにこの茶番w
ゴジラはまるで「野生」に返ったようで「生き生き」しているではないかw いや、だったら、これでいいんじゃないの?
そう考えると、最初から最後まで、この未来のゴジラを殺そうと、がんばる人間たちの話していることが、さっぱり理解ができない。彼らが何を言っているのか、まったく理解できない。これはほんとに「冗談」なんだろうか?
あのさ。
ゴジラを森の中、歩かせたらダメでしょw ゴジラは都市に、というか都市化した

  • 東京

を目指して歩いてくるんでしょ。だからゴジラなんでしょ? 違うの? 森の中を歩いているようなのが、ゴジラなわけないじゃん。これ別の名前の存在だよ。頼むから、名前を変えてよ。
よく考えてみたら、この傾向はすでに、映画「シンゴジラ」において始まっていたように思われる。あの映画において、ゴジラはそもそも

  • 人間が理解できる存在

として描かれていて、その一貫性は今回のアニメ版でも共通している。つまり、進化論という

  • 科学

によってゴジラは人間が「理解」できる範囲の存在であることが前提となっている。だから、「シンゴジラ」でも、最後は人間が勝利してゴジラに勝ってしまうわけだ(まあ、最後の終わり方の思わせぶりな感じで、なにかの不吉さを暗示する形には「シンゴジラ」はなっていたが)。
私が言いたかったのは、「シンゴジラ」にしても、アニメ版「ゴジラ」にしても、作成者がSF作家なんだな、というところが、こういった違和感をもたらしているのかな、という印象を受ける。
ゴジラがなぜ、東京の中心を目指して、わざわざ東京の「都市」を破壊したのか? そこには、都市という機械文明への警告といったニュアンスがあったはずだ。急速な都市化が、なにか不吉な予兆のように、このまま文明化を進めていいのだろうか、といった不安が人々に思われ、実際に公害問題など、予期していなかった、さまざまな問題が指摘されていた。
つまり、ゴジラは人間の「文明化」そのものへの、警告を告げる神の伝導者のような役割として描かれていたはずであるのに、「シンゴジラ」にしてもアニメ版「ゴジラ」にしても、なにかの

  • パロディ

に変えてしまったんだろうな、といった印象を受ける。今回のアニメ版「ゴジラ」では、ゴジラが森の中を歩いているだけじゃない。人間が、なんと、はるか未来まで

  • 生き残っている

わけであるw なーんだ。じゃあ、よかったじゃんって、ここまで人間が生き残れたんなら、少なくとも現代の「文明」問題は乗り越えたってことなんだから、

  • 今の問題なんて<たいしたことない>じゃん

と今の私たちの、さまざまな政治問題からなにからの「課題」を

  • そんな小さな問題は<はるか未来まで生き残る>人間が解決できないわけがない

と、こういったことを真剣に考えて、一つ一つ真面目に考えて解決していこうとしている「神経質」な人たちを馬鹿にしているように聞こえてくるんだよね。ゴジラは人間の

  • 奢り

であり、近代文明がもたらす悲劇の予兆としてあったはずなのに、こんな未来まで人間が生き残れて、だったら、ゴジラがいようがいまいが、

  • 良かった

じゃんw ようするにさ。SF作家って、人間がはるか未来まで生き残れるっている物語を書いている時点で、

なんだよな。

  • ホクノさいきょうノ「人間」ハ、ハルカミライマデイキノコリマース

って、人間 SUGEEEEEEEEEEEEEE じゃんw
正直、こういうのを読まさせられて、なにがおもしろいのか、よく分からないんだよね...。