キャロル・キサク・ヨーン『自然を名づける』

私たちが生きていくには、まず「食べられるもの」と「食べられないもの」の区別ができなければならない。なぜなら、それすらできなければ飢えて死んでしまうからだ、これは、たんに「人間」だけの話ではない。

  • 全て

の生物がそうなのだ。これは、ある意味、驚くべきことのように思われる。ところで「食べられるもの」と「食べられないもの」の区別とはなんだろう? ようするに、私たちはこの世界を

  • 分けて

生きている。なにかの「区別」をしている。ある意味、の一貫したものとして、あるものたちを「分類」したとするなら、それ以外のなにかをまた同じように「分類」している。
さて。ここで問題が生まれる。こうやって人間が「分類」していることはいい。じゃあ、その分類として

  • 分けられた

ものというものは、なにか「科学的」な意味での「分類」なのだろうか? つまりこれらの分類には「実体」的な意味があるのだろうか?
もちろん科学は未来に向かって進んでいく学問である。あるときまで「間違えていた」からといって、その日から、その間違いを

  • 修正

して前に進めば、科学は「進歩」したんだ、なんて、おしゃれな呼び方で前向きになれるなんて素敵じゃない、というわけだが、ここで問うていることはそういうことではない。そもそもの、

  • これらの分類には「実体」的な意味があるのだろうか?

という「これ自体」を疑問にふしているのだから、そんなマイナーチェンジでなんとかなる、といったような問いの類いとは違っているわけで、もう少しデリケートに考えなければ、なにも言っていないのと変わらない、ということになってしまう。

むしろリンネの独自性、その分類の包括性と完全さにあった。『自然の体系』の分類と彼が定めた規則は、すべての自然を網羅し、明瞭かつ簡潔であり、その完璧さは既存の体系をはるかにしのいでいた。誰が見ても、不思議と納得できるものであり、ゆえに社会全体に大きな反響を引き起こしたのだ。

ダーウィンの進化論の前において、生物分類学とはカール・リンネの成果に象徴されていた。しかし、リンネは「何をやった」のだろう? 掲題の著者はそれを、ユクスキュルの言葉「環世界(Umwelt)」を使って説明するが、これはまあ、ようするに個々の生物が見たり生きている視点からの「世界」といった意味で、この文脈では、私たちが生まれたときからもっていると言いたくなるような生得的な傾向性といったくらいの意味と考える。
ようするに、リンネによる生物の「分類」は、ある意味での

  • 常識的

な直観による分類だったがゆえに「誰が見ても、不思議と納得できるもの」だったわけである。
そう聞くと、すっげーな、と思うかもしれないが、そもそもそれはダーウィンの進化論以前の話だったはずなのである。

ダーウィンは、分類学がある基本的な考え----生物は永遠に不変だという考えに基づいていることを、どういうわけだか忘れていた。アリストテレスは種は不変だと考えた。リンネが分類したのは単なる種ではなく、神が創造した不変の種、すなわち天地創造の日から変わっていない種だった。当時、世間は人は皆、生物は不変だと考えていた。いったい誰が、生物が進化することを知っていただろう。不変の種からなる不動の階層構造、それこそが自然界の秩序なのだ。

そもそも神と人間の関係は、人間は神の似姿というだけでなく、人間の知識とは神が人間にさずけた知という性格をもつはずのものだったわけで、人間がなにかを知るということは、神が人間にそれを「知らせた」ということを意味したはずなのだ。
そう考えたとき、そもそも「人間」が

  • 変わる(=進化論的な意味で変化する)

ということは、神の「不変」性に対して、神の似姿としてある人間を神が「人間と呼ぶ」ことに対する、冒涜性を感じるわけである。
そして、このことは人間以外の生物に対しても同様の関係にあるわけで、大事なことはこのカール・リンネの

  • 天啓

にも似た彼の神事的な「生物分類」には、そういった神の「知」と対応した「実体」がある、といった認識に繋がっていく。
同様に、「種」による「名前付け」とは、これ自体が

  • 実体

であることは、「神が人間を<人間>と呼んだなら、それに<実体>がないわけがない」というのと同様で、他の生物もそういった関係になっていく。よって、この「呼び名」はたんなる「ラベル」ではない。神が信託を遠して、

  • 人間に与えた<知>

なのであって、ここには明確な「存在」が関係している、となる。
しかし、ね。
これはダーウィン「以前」までの話なんだよね。ダーウィンは、あらゆる生物は「変化」する、って言ったんだから。つまり「突然変異」なわけだけれど。でもさ。このことは、ほんとは人間もよく知っているんだよね。上記の「環世界」という視点で見たとしても、人間が最も、そういった環世界的な能力が発達している個所として

  • 人間の顔の識別

というのがあるそうだけれど、まあ、見事に私たち、人の顔の区別をつけて生きていますよね。それって、ようするに、人間は同じ名前で呼んでいるけれど、

  • 多様(=みんな違う)

と言っている、というのと同じだよね。つまり、個々の個体は、いろいろと違っている。じゃあ、なんでそれらを同じ「人間」と呼ぶのかということになるけれど、強いて言うなら、通俗的な「種」の定義に戻るなら、せいぜい、セックスをすれば、同じ人間の子孫を残せる、というくらいの意味しか見出せない。
しかし、たとえそうなったとしても、各個体が「違っている」ことには変わらないわけだよね。じゃあ、それを「同じ」と呼ぶことに、そもそも、どういう意味があるのか、っていうことは、いい加減考えないと、どうしようもなくなってきているんだよね。
ダーウィンの進化論の「定義」は、生物は「変化」するなんだから、そういったものを、なんらかの「同一」性で

  • 分類

することには、なにか本質的な間違いがあるはず、としか言いようがない。じゃあ、なぜ多くの場合、その「同一」性が認められるのか、ということになるけれど、まあ、なかなか

  • 集団的な変化

が継承されるという事態までは起きにくい、ということが正しいのだろう。しかし、だからといってそれは起きないわけじゃない。ちょっとしたことで起きるのかもしれないし、なんとも言えないところもある。
しかし、いずれにしろ「ダーウィン以後」の生物分類学が、それまでのリンネ分類学を「科学」と称しで掲げ続けることに耐えられなくなっていった、ということは自然な流れ、ということは分かるであろう。

本書の後半では、ヒトのもつ生得的な分類認知特性(環世界センス)と現代生物体系学との根本的な矛盾が「科学vs直観」というより一般的なテーマのもとに展開される。第3部「科学の重圧」では、エルンスト・マイアら環世界センスを暗黙のうちに尊重してきた進化体系学者たちに対して、一九五〇年代以降、その基本網領を根底から否定する別の対抗学派が出現してきたこととその余波を論じる。第8章「数値による分類」は分類学に統計処理をもちこんだ数量分類学派、第9章「よりよい分類は分子から来たる」は不可視的な分子データに基づく分子体系学、そして第10章「魚類への挽歌」は単一の祖先に由来する単系統群ではないすべての分類群(「魚類」はその代表である)をことごとく抹殺した分岐分類学派の話だ。やや "煽り" が気になる箇所もあるが、全体として見れば過去半世紀にわたる生物体系学論争の概観としてとてもよくまとめられている。
三中信宏「訳者あとがき」)

科学を称するなら、科学という名の「方法」に根差していなければならない。もう、カール・リンネの「直観」法の

  • 自明さ

で説明することに耐えられなくなっていく。その分類には、なんらかの「根拠」がなければならないのではないのか? それを分けた、ということは、そこになんらかの「本質的」な違いがあることを指示している、ということでなければならないのではないか? というか、それが

  • (別の「種」として)名前を付ける

ということだったんじゃないのか? もしもその二つが実は「同じ」であって、なんちゃってで別に呼んでいたに過ぎない、ということになったら、それを別の名で呼んでいることには、本質的な欺瞞がある、ということになってしまう。
さて、なにが起きているのだろう? そもそもなぜ

  • 名前

を付けるのだろう? というのは、本当に「名前」は必要なのだろうか? 私たちがやりたいのは、なんらかの「分類」だったはずで、「食べられるもの」と「食べられないもの」といったように、なにかを区別したかっただけじゃないのか? それなのに、なぜそれを「名前」で分けなければならないのか? ここで分かりにくにのは、名前とは

  • 神が(人間に向かって「人間」と呼ぶように)呼びかける呼び名

のことなのだから、本質的にそれは「存在」とか「実在」といったように、一つの明確な「輪郭」をもって他と区別できるものがあるなにかでなければならない、ということがあるんだと思うんですよね。でも、そういった言語の使い方は、ダーウィン以降、なじまなくなってしまったんですよね。
例えばそれは、上記の引用にもあるように「魚類」というカテゴリーが分岐分類学派によって抹殺されたという「事件」が象徴している。その意味は、ようするに、DNAの分岐を見てみれば、魚類という枠組みでまとめられない、ということを言っているにすぎない。今まで魚類と呼ばれていたその分岐の原点からの枝分かれ先には、言うまでもなく、哺乳類もいるし、爬虫類もいるし、っていくわけで、そういう

  • 区切り

には、DNA的な意味での「実体」的根拠がない、ということになってしまったわけだ。
しかし、ね。
そんなことは最初から分かっていたんじゃないのか。ようするに、「魚」は「名前」じゃない。それは、どちらかというと分類するための

  • 理由

に関係していたはずなのだ。私たちは「水の中で生活している生物」を、陸上でものもと分けることに意味があった。それは実際に、食料を確保するという意味でも、海や川や湖のほとりで、そういった「食料」を確保に行くのか、そうでなく、陸上で確保しに行くのかには、本質的な違いたあったはずなのだ。
そう考えるなら、「魚」という「名前」は、もともとのそういった「区別」に関係して使われていたものにすぎなくて、こういった「実体」を想定すべきとか、そういった衒学的な話とは関係なかったはずなのだ。
しかし、そうだとしても、今でも生物分類学が基本的にはリンネの分類学のことを指すわけで、なぜその状況が変わっていないのかといえば、そういった直感的なものには、それはそれでの利点があるから、ということになるのだろう。実際、それによって分類された形で「種の保護」がされるならば、それはそれなりの

  • 種の絶滅

に対しての防禦策にはなっている、という解釈もできるはずで、そんな簡単にこういった直感的なものを手放すわけにはいかない(というか、こういったアプローチをもっと「心理学」的な観点から正当化する「科学的」な議論がぶ厚くなれば、その正当化はより分かりやすくなる、ということなんだろうけど)。

リンネが生きた一八世紀前後の博物学に関する歴史、あるいはダーウィンが活躍した一九世紀の進化学史に関しては、これまで多くの本が出させている。しかし、もっと新しい二〇世紀後半の分類学の論争史に関してはこれまで専門的な歴史書しか取り上げてこなかった。みずからの先端的な生物体系学の研究キャリアをもつ著者にして、初めて現代の分類学を形づくってきた研究者群像を描き出すことができたのだろう。
三中信宏「訳者あとがき」)

掲題の本は、例えば社会生物学論争史について知ろうとするときには、そういった通俗的な入門書を読むように、この「生物分類学論争史」に対しての通俗的な入門書としては、現在手に入る唯一の本なのかもしれない。大事なことは、誰の言っていたことが正しかったのかではなくて、

  • そこでどんな論争がされていたのか

という歴史的な記録なわけであろう。つまり、この雰囲気を知らずに、この問題をそもそも語ることができない。そういった意味でも、貴重かつ必読の書ということになるのだろう...。

自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか

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