蔵田伸雄「同じ山に異なる側から登る」

一般に功利主義と言ったとき、以下の三つの「主義」を合わせたものとして解釈されている:

  • 幸福主義(または快楽主義)
  • 最大化原理(または総和主義)
  • 帰結主義

しかし、上の二つというのは、なんというか「道徳」とは関係ないように私には思われる。その意味は、これはなにかを「測定」する上での「測定器」が備えるべき性質の話をしているに過ぎず、じゃあなぜこういった「主義」を採用するのかの「目的」が本来あるから、と思われるわけであるが、事実、多くの功利主義の文献を呼んでいると、上記の二つについてのマイナーチェンジをしたヴァージョンに対しても同様に「功利主義」と呼んで、研究されているのを見かける。
そう考えたとき、本質的には功利主義とは「帰結主義」を指して言われているものだ、ということが分かってくる。ここで一つの疑問が湧いてくる。功利主義により深く馴染んできて、これがなんとも「自然」に感じられるようにまでなってくると、そもそも

  • これ以外の「道徳」というのはありえないのではないか?

といった疑問が湧いてくるわけである。つまり、もともと道徳とは「功利主義」のことだったのではないのか、と言いたくなる、というわけである。
そこで、その一つの例として、

  • カントの義務論は、実は「帰結主義」として解釈できるのではないか?

という仮説がうかんでくるわけであるが、掲題の論文は、それを主張したのが、パーフィットの最新作「On What Matters」(全3巻、第1、2巻(2011)、第3巻(2017))での主張だ、というわけである(パーフィットについては、日本でも『理由と人格』が翻訳されていて有名であるが)。

そもそもパーフィットは道徳理論が妥当なものであるためには、その理論は帰結主義的なものでなければならないと考えている。

パーフィットの結論は、先に述べたように「カント主義、帰結主義、(スキャロン的)契約論の立場は一致しないと考えられてきたが、実はこれらの立場は<同じ山に異なる側から登っている>にすぎない」ということである。

このことは、ある意味での

  • 道徳の「統一理論」

の可能性を示している、ということになるのであろう。
ところで、なぜ「帰結主義」はこのように多くの人への「説得性」を与えるのだろうか? それは、例えば、確率論における確率過程を考えてみてほしい(まあ、ニアリーイコールで、ベイズ統計を思い浮べてもいいが)。時間の経過と共に、「情報」が増えていけば、より正確な合理的な判断ができるであろう。、その究極的な合理化が帰結主義であることは分かるであろう。つまり、その「結果」が

  • どうなるか

において、どれが合理的なのかを考えることは人間の反省能力が求める道徳的な態度として当たり前とも言えるからだ。
しかし、である。このように考えたとき、カント的な義務論と「帰結主義」がどういった関係にあるのかが気になってくるわけである。
よく考えてみよう。なぜ人々はカント主義が「帰結」からの反省を

  • 行っていない

と考えるのだろうか? そもそも、そういった主張は「合理的」でないわけで、カントの理性中心主義に反する。
そう考えるなら、そもそもの差異は功利主義の本質は

  • 帰結「還元」主義

にある、と主張すべきなのだ。いや、

と呼ぶのが正確だろうか。まず、功利主義において、そこで言われる「帰結主義」は以下の二種類の意味で使われている:

  1. 反語的だが「帰結」によって道徳を決定する、という意味。結果がどうなるかと、道徳がイコールで結ばれることで、結果の「良さ」に、それに関わる判断の価値規準を還元した、といった意味。
  2. こちらが「帰結還元主義」といった意味の方にあたる。上記のように、たんに、ある一つの判断を「帰結主義」的に推論した結論を、一つの行動の指針にする、といった程度のことを意味するのではなく、<すべて>を帰結主義で扱う、といった意味でのラディカリズム。

これに対して、カント主義は上記の後者はありえない。しかし、前者はなんの問題もないわけである。たんに、これ「だけ」で道徳律の判断は絶対に決定されない、ということでしかない。
そもそもカント哲学は「理性批判」なのだから、「合理的」でないわけがない。だとすると、「実践理性批判」がこだわっているのは、

  • それだけ

ですべての道徳律を決定できないよ、そこに「余剰」があるよ、と言っているわけ。まあ、そうでなければ、たんに「純粋理性批判」が書かれた後、「実践理性批判」が書かれる必要はなかった、ということになりますよね。
大事なポイントはなんだろう? 基本的にカント哲学は「分析判断」じゃないんだよね。すべては「綜合判断」なんだ、という主張だったんだと思うわけです。つまり、

なんです。、これをカントは「理念」と言ったんだけれど、その意味は「無限」に関係している。カントのアンチノミーが言おうとしていたことは、私たち人間は、「有限」の存在でしかない。だから、世界を「有限」の範囲でしか感覚できない。しかし、悟性判断、つまり、「知的」な判断においては、簡単に無限を

  • 理念

にしてしまう。この能力をカントは、基本的に、それを「統整的」な範囲においてではあるけれど、肯定した、というところにあるわけなんだけなんだよね(それが、アンンチノミーの意味)。
まあ、この構造って、よく考えてみると、完全にスピノザの宗教論の構造になっている、と私なんかは思うわけ。スピノザは、人格神を自らの形而上学においては否定しながら、その表象が大衆の直観にとって、分かりやすいという範囲において「有益」である、という意味で、その概念の

  • 場所

を自らの理論の中に置いた、ということなんだよ。まあ、こう言っちゃうと、なんか「通俗的」に聞こえるかもしれないけれど、カントの言おうとしている「批判哲学」って、ようするに「通俗版形而上学」だからね。カントは大まじめに、スピノザが「大衆向け」に用意した

  • 方便

さえもを、自らの「理論」に、まるで「当たり前」のように組み込んだ、ってことなんだと思う。
まあ、これがカントの「道徳論」なんだ、っというのが私の解釈になるわけだけど、ここからは私の正直な印象なんだけれど、カントってかなり

  • 常識的

なことを言っているように思うんですよね。それは、現代哲学における、ピーター・シンガーなどの功利主義と比較したとき、私なんかは特に感じるんだけれど、正直、ピーター・シンガー

  • 人工的

な印象を受ける。つまり、かなり「意図的」に挑発的に言葉を選んで挑発してきている、というように。
しかし、「道徳」って、そんなものなのかな、っていうのは疑問なんだよね。つまり、こんな「人工的」なものが道徳なんだろうか、というのは正直あるわけで、

  • あなたは頭がいいですね

という感想は口から出てくるけど、別に頭がよくないと道徳的ではない、っていうのとは違うはずなんでね。なんか違うことをやっているな、っていうのは端々から感じてしまう。
カントの発想は非常に単純で、カントが「格率」とか言っているのって、もともとはキリスト教ユダヤ教における

  • 戒律

のことだよね。神が人間に「なにかをしろ」と命令したわけで、私たちは常に、それに「従う」のか「従わない」のかの、選択を

  • 迫られている

ということなわけでしょ。まあ、それが宗教者としての「生きる」ということ、そのものだよね。
ただし、カントは純粋理性批判において、人格神を位置を、ある種の形而上学的な「実在論」の問題の中における課題として、枠付けしてしまった関係で(まあ、これが啓蒙主義なんですけど)、理性判断の文脈で神の意志を云々することができなくしてしまっていた。そこで彼は、この神の「命令」を

  • 人間の内面

を介する形で、「生き延びさせた」ということだけのとだと思うんですよね。
それに対して、ピーター・シンガーでもいいけれど、現代的な功利主義者って、そういった「神の命令」に従うのか従わないのか、といった宗教的な懊悩が、まったく、自らの理論の中で扱えなくなっているわけでしょう。いや、いいんだけれど、ようするに私が言いたかったことは、

  • カントが考えていたのは当時の<常識>の範囲での何かだった

ということなんだと思うんですよね。カントの見ていた生活空間においては、ほとんどの人がキリスト教徒で、多くの人が当たり前のように、そういった「神の命令」に従うのか従わないのか、といったことと

  • 戦って

いたわけでしょ? だったら、それを「理論化」しないわけにはいかない、とカントが考えるのは、自然なことだと思うんですけどね。そもそも、形而上学っていうのはそういうことで、今は理論化できないことでも、実際にこうやって「ある」ようにしか思われないものを、なんとか、仮の「構築物」を作ることで、それを表象しよう、ということだと思うんですよ。
こういった「神の命令」が、まあ、物理学的な世界には「ない」んでしょう。それは、スピノザ主義だって、そうなりますよ。でも、多くの人がそうやって「神の命令」に、なんらかの畏れを抱いて、常に倫理的に行動

  • している

という「事実性」によって、なんらかの成立している「平和」だってあるわけでしょ? もちろん、はるか未来になれば、そんなことでさえ、その

  • 心理学的な意味

において、そのことの「効能」というか、社会的な「価値」が再評価される日が来るのかもしれないけれど、カントの批判哲学は、そんな日が来るのを待ってられないから、そういった、あるべき「真実」を、まあ

  • でっちあげる

というか、つまりは「形而上学」で、みつくろっちゃう、というわけでしょう。だったら、そりゃあ、だれが見たって、こんなの変ですよね。でも、変だ変だと言ったからって、そもそもの最初からカントのこういった「でっちあげ」の<意図>が他にあるんだから、カントにしてみれば、そんな文句はなにほどのものもない、っていうだけなわけでしょう。

「偽りの約束をして金を借りてもよい」という格率にすべての人が従えば、「約束」という実践そのものや、約束によって何らかの目的を達成すること自体が不可能になる。ここで問題にされていることは「結果」の価値、つまり効用や利益ではない、したがって「格率の自己矛盾」に訴える論法は「予想される結果」を考慮するような帰結主義的な論法とは本質的に異なる。

最近、少し感動したのが無印ラブライブのコンサートのブルーレイを見ていて、いやあ、観客のラブライバーさんたちがみんな

  • いい人

なんだよね。あんなに狭い所に多くの人が押し込められているのに、みんな指示に従っているし、それなのに、みんな「楽し」んでいて「満足」しているっていう。だから、こういった「秩序」って、なんだか分からないけど、みんなが上記の引用にあるような、一般的な「約束」をまずは守る、という「常識」があることが前提として、ありえているわけですよね。だから、こういったものが

  • 大切

だと思うか、いか「個人の自由(=放縦)」の方こそが価値があるんだ、と思うか(まあ、こういう人ばっかりだったら、コンサートは一秒で解散させられるだろうけれどw)。だから、まあ、いろいろ言いたいことがあるのは分かるけれど、なんらかの「快適」な日常を成立させているのは、そういったカント的な

  • 約束

なんだろうね、っていう、素朴な直観なんだと思うんですけどね。
例えば、次のような例を考えてみよう。ある日、この世界のほとんどの人が「なにか」を行う「自由」が自分にはあるんだから、それをやるんだ、と考えた、としよう。しかし、それを行った場合、実は、地球上の人間が全て滅びる、という関係になっていた、というわけである(この関係は、もしも彼らがあと何百年か生き残った場合には、それを「発見」できるのだが、と)。
ところが、である。
なぜかは分からないが、カント主義における「格率」は、その「なにか」を

  • 禁止

していた、という関係になっていた、と考えるわけである。さて、人間は「功利主義」によって、その「なにか」を行うことが「自由」であることが分かっている、という理由で、それを行うだろうか? それとも、なんか「うさんくさい」けど、カント主義の「命令」にひとまず従う生き方を選ぶことによって、なんとか

  • 生き延びる

だろうか? まあ、私のカントの義務論と功利主義の関係は、こんな、かなり御都合主義的なイメージで考えていたりするのだが、どうなのか。まあ、なんというか、私は自分が「頭がいい」から、なにが「真実」なのかを「判断」できる、みたいな発想が、どこか傲慢に思えて嫌いなんでしょうね。だから、功利主義者のように「利口」を装って自分を繕って見せる、というのは性に合わなくて、カント主義者のように

  • 頭は悪いけど従ったよ

みたいな、愚鈍だけど愚直な何かの方を信頼したい、みたいな発想があるんでしょう...。