クロード・レヴィ=ストロース「人間の数学」

うーん。あんまり、レヴィ=ストロースについては、よく知らないんだが、ここのところ読んでいた、柄谷行人の雑誌「群像」での連載エッセイ「探究3」の以下の個所について、ちょっと気になっていたので少し調べてみようか、と。

たとえば、なぜ数学によって自然(人間社会を含む)を解明できるのかという疑問に答えた者はいない。レヴィ=ストロースは、それを自然史の進化によって説明しようとしている。人間の数学的能力は、宇宙の進化の産物であり、したがって、人間が数学的能力は、宇宙の進化の産物であり、したがって、人間が宇宙を解明できるのは、宇宙自身の自己認識であるということになる。そうであれば、宇宙とは神の別名である。だが、このような論法は、カント以前にあったものにすぎない。したがって、重要なのは、右の問いに答えることではなく、むしろその問いの前に立ち止まることである。
柄谷行人「探究3」5・1)

ただ、ここでレヴィ=ストロースが「説明しようとし」たことは、あくまで数学によって自然を解明できることを、「自然史の進化」によって説明しようとした、ということということなわけで、そこから、

  • 人間が宇宙を解明できるのは、宇宙自身の自己認識である

というのは(まあ、これをヘーゲル主義と言ってもいいが)、上記の文脈からの、柄谷の「解釈」と読めないこともないわけなのだが、まあ、いずれにしろ、「野生の思考」とか、あの辺りの議論のことを言っているのか、と。
というか、例えば、柄谷の、この「探究3」以降の仕事である「世界史の構造」における「交換の理論」って、かなりレヴィ=ストロースが問題にしていた、「交換」「贈与」を意識しているように思われるのだけれど。
まあ、上記の議論も、どっちかというと

経由なのかなあ、とも思うわけだが。柄谷も、それなりに中沢を意識している部分はあるのだと思うのだが(「探究3」は、そういう文脈で読むのが正しいのかなあ?)、とりあえず、その影響関係はあまりよく分からないが。
例えば、けっこう最近の中沢による、『野生の思考』読解のテレビ企画で、以下のようなことを彼は書いている。

構造言語学についてのヤコブソンの考え方は普通の言語学者とはちょっと違っていて、きわめてユニークなところをもっています。ヤコブソンは、言語学情報理論を大胆に取り入れていました。言語をはじめあらゆるコミュニケーションには発信者と受信者がいて、共通の「コード」(符号)を使って「メッセージ」を伝達する。それがコミュニケーションの基本であるというところが土台となります。
この「コミュニケーション」という概念は言語に限られるものではなく、もっと広大な領域を包み込んでいるという点で二人の意見は一致します。この考えは、数学者のノーバート・ウィーナーやクロード・シャノンが考えていたこととも近いのですが、植物や動物をふくめ、宇宙の進化・変容そのものもコミュニケーションとして考えられるのではないか。物理学でいう「量子」の過程まで一種のコミュニケーションとして理解することが可能なはずで、人間の言語はそうしたコミュニケーション全体系の中に出現した一つの位相にほかならない。こういう理解をヤコブソンは持っていたようです。
レヴィ=ストロースが「自然」と「文化」を着想したきっかけ | NHKテキストビュー

こうやって見ると、ヤコブソンの構造言語学を通して、まさに上記で柄谷が問題にしている、

  • 宇宙の進化

とからめて「コミュニケーション」論という形で、この一連のものを考えようとしていた、といった整理になっているのだが、これは、中沢新一の解釈を通したから、こういった強調のされ方になるのか、ヤコブソンやノーバート・ウィーナーやクロード・シャノンといったような人たちの

  • 情報論的

な姿勢そのものが、まさに

  • 量子論」さえも含むような「コミュニケーション」論(なんとも、中沢新一的ではあるが)

による、ある種の

  • 統一理論

を構想していることが、あまりにも常識的な話なのか、よく分かっていないのだが、掲題の論文を読んで、少しそんな雰囲気があるなあ、というのは理解できた。

科学の歴史を見てみると、あたかも人類は、自らの研究計画にかなり早くから気がついていても、またいったんその計画が定まってからも、それを実行できるところまで到達するのには何世紀もかかるように、全ては起こっている。科学的考察が始まって以降、ギリシャの哲学者たちが自らに課したのは、原子とかいう面からみた物理的な諸問題であった。わたしたちは、それから二五世紀の後、彼らがかつて描き出した枠組みに、おそらくは彼らが思いもしなかったやり方で、どうにか飾りつけを始めたばかりなのである。

これが冒頭の文章だが、なんとも

  • 進化論

っぽい文章ですよね。これが含意していることは、人間の「着想」と、まあ「実証」と言ってしまうけれど、それとの

  • 膨大なまでの時間の差

を言っているわけだけれど、それを逆に言うと、今テクノロジーの発展によって行われようとしている仮説の検証における、その「仮説」の「原型」が現れる時期の、あまりにも膨大なタイムラグを指摘している、という意味では興味深い。

ロシアのトゥルベグコイの思想や、多くの国にまたがるその後継者たちの著作(ヤコブソン、バンヴェニスト、サピア、ブルームフィールド、イェルムスレウ、ゾンマーフェルト、その他多数)を通して、この原理からどのようにして構造言語学が誕生するに至ったかは周知のとおりである。

(エンジニアであり数学者であったクロード・シャノンによって初めて、体系的なやり方で提示された)通信技術の専門家たちの研究を支配している知的方法論の理論形成にも、同じように、まさしく上述の言語学理論によって以下のように定式化されるに至った、くつかの偉大な解釈原理が見出される。すなわち、人間のあいだのコミュニケーションは、秩序だった諸要素の組み合わせに根拠付けられているということ。

他方で、ソシュールは、言語活動とチェスのような戦略ゲームのいくつかの比較対照も導入している。

最後に、語りの状態が直接的に先行する諸状態によってそのつど支配されているのだとすれば、言語活動もまた、サイバネティックスの名前で有名になり、随所に生物学的な考察を含んでいる、サーボ機構の理論の領分に属していることになる。したがって、生物学者、言語学者、経済学者、社会学者、心理学者、通信技術者、数学者といった、見たところ互いにかけ離れている専門家たちは、ここ数年のあいだにこのようにして、次第に発見しつつあり、自分たちの共通言語になるであろう素晴しい概念装置を携えて、再び一堂に会することになったのである。

こうした相互的な豊穣化こそ、この二年にわたる、国際社会科学協議会の後援のもとでユネスコが一九五三--五四年度に行った、人文科学および社会科学における数学の応用をめぐるセミナーの主要目標だったのであれい、厳密科学や自然科学者からは、数学者、物理学者、生物学者が、人文科学や社会科学からは、経済学者、心理学者、社会学者、歴史家、言語学者、人類学者、精神分析者たちが参加したのである。

こうやって見ると、この「人間の数学」という論文で書いてあることは、上記の中沢の引用にあるような、ヤコブソンが構想していたような、

  • 量子力学まで含むような)コミュニケーションの「統一理論」

のようなものをイメージして書かれているのか、といった印象を受けなくもないわけなんですかね...。